87.一人じゃなかったんだ
あたしが死んだあのとき。
あのとき、あたしはバイトに遅れそうでかなり急いでいた。点滅を始めた横断歩道を左右も確認しないで無理やりつっきろうとして、右折してきたトラックに轢かれたんだ。完全無欠の自業自得で、結月はまるっきり関係ないはず。
戸惑いながらも、途切れ途切れに紡がれる結月の言葉に全神経を集中する。
「……あたし、学校があんまり好きじゃなくて、あのときも、面接週間だったから行きたくなくて……買ったばかりの消しゴムを意地悪な男子にとられたから、それを言い訳に休もうとして……その時は、お姉ちゃんは何も言わなかった……何も言わずにバイトに出かけて……なのに事故のあと、お姉ちゃんのポケットから、とられたのと同じ消しゴムと、お釣りの三十二円と、コンビニのレシートが出てきて……」
結月の話を聞きながら、海馬の片隅に沈んでいた記憶を探りあてる。
とぼけた表情がキモかわいい、限定発売のゆるキャラ消しゴム。
そういえばそうだ。すっかり忘れてた。
あたしが死んだあの日。
あの日あたしはバイトに出かける準備をしながら、結月とおばさんの口論を聞くともなく聞いていた。お気に入りの消しゴムがなんたらかんたら。限定発売のゆるキャラものがどうのこうの。おばさんがそこのコンビニにだって売ってるでしょううんぬん言うけど、結月は泣きじゃくるばかりで全然話を聞こうとしない。途方に暮れるおばさんを横目に、あたしはそそくさと自転車にまたがってバイトに出かけたんだ。
いくつか目の交差点で赤信号に引っかかって、ふと交差点脇のコンビニに「大人気ゆるキャラ消しゴム期間限定発売中!」っていうのぼり旗がたってるのが見えて。電車の時間はけっこう迫っていたけど、何だか知らないけど気が付いたらコンビニに入って、そのゆるキャラ消しゴムを買ってたんだよね、あたし……。
「いつもバイトに行く時間より遅れてたから、急いでたはずなのに……あのコンビニで買い物なんかしなければ、きっとお姉ちゃんは事故に遭わなかった。お姉ちゃんが死んだのは、絶対にあたしのせいなんだ……」
結月はそう言うとさらに背中を丸め、膝の上にパタパタと音を立てて涙を落としながら肩を震わせた。
【違う。違うよ柴崎泰広】
柴崎泰広は結月に気づかれないようにか、尻の脇から顔をのぞかせているあたしに目だけを向けた。
【あの消しゴムは結月の話を聞いて何となく興味がわいたから買っただけで、結月のために買ったものなんかじゃない。結月はヘンな誤解をしてる。そう言ってやって、柴崎泰広】
柴崎泰広は困ったように眉根を寄せると、ヒソヒソ声でささやき返す。
「言えって言われても、言いようがないですよ。僕がそんな細かい事情を知っていたらおかしいじゃないですか」
【そこはほら、あんたの切れる頭でなんとか考えてよ。このままじゃ結月、ヘンな罪悪感を持ったままになっちゃってかわいそうじゃん。取りあえずやるだけやってみてよ】
きつめの送信で煽られて、柴崎泰広は首をちぢめてから、うつむいて涙を落とす結月に向き直ると、ごくりとつばを飲み込んだ。
「あの、えっと……それは、きっと考えすぎですよ。はやっているものだったんでしょう。彩南さんだって欲しかったんですよたぶん。買った時がたまたま一致していただけで」
いかにもその場しのぎのあやふやなもの言いに、結月は弾かれたように顔を上げて柴崎泰広を睨んだ。
「違う、絶対にあたしに買ってくれたの! だって、あんなキャラ全然お姉ちゃんの趣味じゃなかったし、お姉ちゃん、流行ものはもったいないとか言って、絶対に手を出さない人だったもん」
う、結月ってば結構あたしの性格しっかり把握してんじゃん。
そこまで的確に把握されたら返す言葉がない。柴崎泰広も何とフォローを入れてよいか分からないらしく、二の句が継げずに黙り込んでいる。
ていうか……あたし、ちょっとおかしいかもしれない。
今、目の前で結月が泣いている。血のつながりがないとはいえ、曲がりなりにも自分の「妹」が、ほかならぬ自分のせいで泣いている。普通なら、妹が悲しんでいれば平気でなんかいられない。心配するとか、心を痛めるとか、気持ちを軽くしてやりたいとか、とにかく胸苦しいような気分に襲われるはず。
もちろんあたしだって、心配だったからこそ柴崎泰広に何とかしてくれって頼んだ。でもそれは見事に失敗したわけで、となれば、焦るなり次の手を考えるなりするはず。少なくとも、楽しいってことは絶対にない。
それなのに。なぜだろう。
ドキドキはしてる。さっきからずっと。でもそれは、心配とか心痛とか、そっち系のドキドキじゃない。
それはまるで……そう、合格発表で自分の番号を見つけた時のようなドキドキ。悲しいとか、寂しいとか言う感情とは真逆の、……嬉しい、ドキドキ。
嬉しい?
嬉しいって何? 妹が泣いてるのに。他ならぬ自分が原因で。それで嬉しいって、ちょっとおかしくなってない? まさか、柴崎泰広と肉体を共有なんていう現実離れしたことやってきたせいで、精神的にも現実離れしちゃったんだろうか。
あたしがそんなことを考えている間も、柴崎泰広は遺影を胸に涙を落とす結月を黙って見つめている。泣きじゃくる年下女子を前にどうしてよいか分からず戸惑っているかと思いきや、どういうわけだかそのまなざしは、どこか優しくて穏やかなものに感じられた。
と、肩を震わせしゃくりあげていた結月が、ふいに隣に置かれていた紙袋に片手を突っ込んで、中から小さな袋を取り出した。結月のお手製だろうか、表面にカラフルな刺繍糸でなにやら縫い取りが施されている。
結月は柴崎泰広にその袋を押し付けるようにして渡した。
「え? これ……」
柴崎泰広は戸惑ったように結月の顔を見てから、おずおずとそれを受け取った。
尻の脇から思いっきり伸び上がると、何とか手元の袋が見える。水色とピンクの刺繍糸のつたない縫い取りで「お守り」という文字が施されている。
柴崎泰広は袋を開けると、中に入っていたものを取り出した。
「それ、あれからずっとお守りにしてるの」
それは、あの時あたしが買った消しゴムだった。
プリントされているゆるキャラの表情は、お守りというにはあまりにも軽薄な感じだったけれど、結月は潤んだ目でいとおしそうに柴崎泰広の手の中にあるそれを見つめた。
「あたし、小学校の時から学校に行くのが嫌で……お姉ちゃんが死んじゃってから、あの頃のことをよく思い出すんだ」
柴崎泰広は顔を上げると、結月を見つめる。
うつむき加減の結月の目は、ここではない、どこか遠くを見ているように感じられた。
「お姉ちゃんと毎朝一緒に学校に行った。あたし、泣いたりわめいたり走って家に戻ったり、すんごいお姉ちゃんのことを困らせたんだけど、お姉ちゃんはいつもあたしの手首を握って、知らん顔でヘンな歌うたって歩いてた。いろんなところに寄り道して、お花を摘んだりトンボを捕ったりしながら、すんごい時間をかけて学校に行ってくれて……そうしたら、あたしもだんだん楽しくなってきて、気が付いたらいつのまにか、普通に学校に通えるようになってたんだ」
結月の言葉を聞きながら、あたしの脳内にも、記憶の片隅に埋もれていたあの頃の風景が鮮やかによみがえっていた。
走って家に戻らないように、べそをかく結月の手首をしっかりと握りしめ、あたしは河原の土手に上がった。そこは通学路ではなかったけれど、少しだけ遠回りなこのルートの方が、ゴチャゴチャして車通りの多い通学路を歩くより、なんとなく結月も楽しく行かれる気がしたからだ。
河原の土手は季節ごとに色とりどりの花が咲き乱れ、時折、草むらからバッタやカマキリが顔を出し、蝶やトンボが視界を横切る。道端の猫じゃらしを摘んで結月に握らせ、でたらめな歌を歌いながら川べりのサイクリングロードを二人で歩いた。あの時間だけは、あたしもなくした過去のことは忘れて、目の前にあることだけを感じながら過ごすことができていた気がする。
あの時、もしかしたらあたしも、結月に助けられていたのかもしれない。
「このお守りを持ってると、あのときみたいにお姉ちゃんがヘンな歌をうたいながら一緒に歩いてくれてるような気がするんだ」
結月は呟くようにそこまで言うと、泣きはらした顔を上げ、キッと柴崎泰広を睨みつけた。
「あたしは絶対にお姉ちゃんのことを忘れたくないから、お位牌はあげれない。お母さんが捨てるって言っても、あたしが絶対そんなことはさせない。責任をもってきちんと祀る。毎朝お線香もあげる。お花も、お小遣いをためて買う。だから、お位牌は諦めてください」
――お姉ちゃんのことを忘れたくないから
もし、あたしが以前の体だったら、全身に鳥肌が立っていたと思う。
呼吸も忘れてると思うし視界もにじんでくるだろうから、柴崎泰広を睨みつけているキリッとした結月の顔だって、そんなにちゃんとは見られなかったと思う。クマるんの今だからこそ、この光景をしっかり意識にとどめ置くことができるのかもしれない。
ずっと、自分は一人だと思ってた。
誰からも必要とされていないと思ってた。
だから自分が死んだと知った時も、別に悲しくはなかった。
だって、別れて悲しいと思える人なんかいなかったし、悲しんでくれる人も思い浮かばなかったから。
知らなかった。こんな近くに、あたしを必要としてくれていた人がいたなんて。
あたしは、一人じゃなかったんだ。