85.何をいきなり言い出すんだコイツは?
あれは、芝高の入学式の日だったか。
誰が出席してくれるわけでもなし、あたし的には入学式なんかより休刊日だったことの方がよっぽど嬉しかったくらいで、特別な日なんて意識もなくさっさと支度を済ませて出かけようとしたら、いつもはグズグズと行動の遅い結月が速攻で支度を済ませ、一緒に写真を撮ろうと言ってきたんだ。
中学に上がったことによる行き渋り復活を心配したのか、おばさんは結月に携帯を買い与えた。最低限の機能しかついていない廉価なモノだったけど、結月はそれなりに嬉しかったようで、これで記念に撮ってくれとおばさんに携帯を押し付け、あたしの腕をつかんで引き留めた。ダブルピースで笑顔満面な結月にあたしもなんだかほっとして、求められるままに、玄関先で何枚か写真を撮ったんだった。
思えば、あの家に引き取られてきて写真を撮ったのは、あれが最初で最後だったんだな。
「……で、結局お姉ちゃんの写真は探しても他のはなかったんで、隣にうつってるあたしを無理やり消して、それを遺影にしたんです」
そんないきさつをボソボソと結月が話している間、柴崎泰広は風呂敷を完全に取り去ったあたしの遺影を、相変わらずまじろぎもせず見つめている。
駅前の児童公園は、小さな子ども連れのママや、梅雨の晴れ間を楽しむじいちゃんばあちゃんで結構な賑わいだ。片隅に設えられたこのベンチのそばも、ときどき小さな子どもの群れが甲高い嬌声を上げながら駆け抜けていくけれど、柴崎泰広はそんな周囲の喧騒を気に留めるそぶりもなく、遺影に見入ったきり身動きひとつしない。
普段ならあたしにも状況が見渡せるようさりげなく携帯を膝に置くなどして気遣ってくれるのに、今は携帯にぶら下がるあたしの存在などきれいさっぱり忘れてしまっているようだ。なのであたしはベンチの背もたれと柴崎泰広の尻の間に挟まれて、自分の遺影が果たしてどんなふうに仕上がっているのかを見ることもできない。
でもまあ、なんとなく過去の自分を今この場で目の当たりにするのは怖いような気もするから、あまり見せてもらいたいとも思わないんだけど。
ただ、こんな明るい日中の公園で遺影に見入る高校生って絵的にどうなのかちょっと気になるから、ときどき周囲の様子に気を配ってはいる。今のところ公園にいる人たちは、ベンチに座って遺影に見入る高校生にも隣に座る女子中学生にも、特段の注意を払っていないようだ。
「……ところで、しばさきさん、でしたっけ。姉とはどういう知り合いだったんですか? 同じ高校だったんですか?」
遺影に見入る柴崎泰広のただならぬ様子に気おされているのだろう、結月がおずおずと問いかけてきた。
「え? あ、いや、高校は違うんですけど、バイト先が同じだったんです」
予測済みの質問だったのか柴崎泰広がよどみなく答えると、結月はなるほどというように首を二、三度こくこくと縦に振った。
「で、亡くなったって聞いてびっくりして……お焼香だけでもさせてもらえないかと思って訪ねてきたんです」
結月は納得したと言うように首を一段と深く縦に振ってから、その首を巡らせてまっすぐに柴崎泰広を見た。
「お焼香は、すいませんけどできないんです」
「あ、いえ、いいんです。こんな所で妹さんに会えて、遺影も見せていただけたんで……」
「うち、引っ越すんで」
言いかけた言葉を呑みこみ、柴崎泰広は自分を見上げる結月の大きな目をまじまじと見つめた。
あたしも意識の中で息を呑み、結月の言葉を脳内反すうする。
引っ越し?
「……引っ越す?」
柴崎泰広が繰り返すと、結月はこっくりと頷いた。
「家、売るんです」
売る? マジで?
ベンチと尻のはざまから無理やり顔をのぞかせて、隣に座る結月の青白くこけた頬を仰ぎ見る。
確かに裕福なんて決して言えない財政状況だったけど、あの家はおじさんとおばさんにとって自分たちの努力の象徴みたいなもんだった。おじさんが借金を抱えて無職になった時だって、おばさんはどんなことがあってもこの家だけは売らないとパートの掛け持ちをいくつもこなしてがんばってた。ギリギリ子どもたちを学校にやって、それでなんとか歯車は回っていたような気がしていたのに。
結月は足元に目を落とした。
「父が、ガンだって分かって……治療のためのお金、作らないといけないから」
背筋に冷水を浴びせかけられた気がして、数刻思考が停止した。
柴崎泰広も、結月を見つめて言葉もなく固まっている。
結月は足元に落とした目線を動かさずに、淡々と言葉を継いだ。
「このところ何となくだるそうにゴロゴロしてて、何だろうって思ってたんですけど、この間突然血を吐いて……病院に行ったら、即入院して手術だって言われたんです。そのお金を作るために家を売るから、引っ越さないといけなくなって……午前中は、学校に転校の手続きに行ってきて、それから引っ越しの荷物まとめて、……お母さんができるだけ荷物は少なくしろって、あれも捨てろこれも捨てろって……あたしが大切にしていた物、端から捨てようとするから、それで……」
言いながら、その時の状況が思い出されたのか、結月は再びしゃくりあげ始めた。
恐らく、小さなアパートにでも引っ越すんだろう。あたしも否応なくそうさせられた経験があるからつらさはわかる。しかも、今回は状況が状況だから文句を言いたくても言えない。結月はあの家の中ではそれなりに甘やかされてきてたから、今までに経験したこともない精神的な負荷に、きっと耐え切れなかったんだろうな。
でも、おじさんがそんな状況で、おばさんもいっぱいっぱいなんだろう。その気持ちもなんとなくわかるような気がした。
「それは……つらいですね」
肩を震わせる結月を見ながら、柴崎泰広は重い口を開くと、やっとのことでこれだけ言った。
共感を得て、少し気持ちがほどけたのだろう。結月は泣きぬれた顔を上げ、堰を切ったように話し始めた。
「あたしの物だけだったらまだよかったんです。お母さん、お姉ちゃんの遺影まで捨てるって言うんですよ? 位牌だけあればいい、遺影を飾る場所なんかないって……今までだって、引き出しに入れっぱなしで飾ってなんかなかったくせに、ひどすぎる。きっといつか、お位牌も邪魔になって捨てちゃうに決まってる。だからあたし、絶対に捨ててほしくない物を持って、家を飛び出してきたんです」
遺影を、……捨てる。
血の気がさあっと引いて、背筋に寒気が走った気がした。血なんか通ってないのに。
やっぱり出た。聞かれたくなかった話。予想どおりといえば予想どおりなんだけど。
尻の脇から顔をのぞかせ、柴崎泰広の表情をそろそろと窺い見る。先ほどと同様、沈痛な面持ちで結月を見下ろしていて、もちろん、あざけったりバカにしたりなんて表情はしていない。でも、心の中で、あたしのことを見下している可能性はゼロじゃない。その結果あたしのことを、一緒にいる価値のない人間とみなす可能性もゼロじゃない。
存在しないはずの心臓が、今にも口から飛び出しそうな気がする。
柴崎泰広の口が、わずかに動いた。
そこから紡ぎ出されるであろう言葉に、全神経を集中する。
「……じゃあ、彩南さんのお位牌、もしかして今、お持ちなんですか?」
意外な返しだったらしく、結月はきょとんとした表情で固まってから、慌てたように紙袋の中を探ると、先ほど柴崎泰広の目の前に転がってきた巾着袋をおずおずと差し出した。
柴崎泰広は両手で丁寧に受け取ると、代わりに遺影を結月に返した。中に入っている位牌を袋から出し、くるんでいたハンカチを取り去って膝の上に置き、両手を合わせて目を閉じる。
あたしの位置からは戒名がなんて書かれているかは見えなかったけれど、ちらっと見た感じではそこそこ文字数はあったように感じた。戒名もそれなりに金がかかると聞くけれど、近所の人の手前、明らかに粗末な対応はできなかったとみえる。
柴崎泰広はしばらくそのまま静かに首を垂れてから、やがて眼を開けると、結月に向き直って深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました。おかげ様で、お参りもできました」
遺影を胸に抱き、戸惑ったように柴崎泰広の頭頂部を見つめていた結月は、あわてて小さく首を振った。
柴崎泰広は位牌をハンカチで包み直しながら、独り言のように呟く。
「お位牌は、まさか捨てるなんてことはしないと思うんですけど……」
結月は目をキッと三角にすると、大きく首を横に振った。
「ううん、お母さんならやりかねない。だって、お姉ちゃんのこと嫌ってたもん」
うわ、キツイ。キツイよ結月。
もちろんわかりきってることなんだけど、自分で言うならまだしも、他人の口から改めて聞かされるとさすがのあたしもキツイ。
なにより、そういうマイナス情報が柴崎泰広の耳に入っていくこと自体がキツイ。
柴崎泰広はそんな結月を悲しげに見つめてから、何を思ったのか、突然、思いもかけない言葉を口にした。
「じゃあ、これ、僕がいただいても構いませんか?」
「え?」
【は?】
結月の言葉と同時に、思わず送信してしまった。
何をいきなり言い出すんだコイツは?