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84/112

84.必要ないんだよね?

 走り抜ける自動車の向こうに、ちらちらと見え隠れする赤いスカーフ。うつむき加減なので表情は見えないけれど、セーラー服姿のせいだろうか、ただでさえ華奢な肩と細い手首がより一層頼りなくはかなげに見えた。

 どうしたんだろう。いちおう制服姿ではあるものの、通学かばんも持っていない。何となく様子がおかしい気もする。


「中学生、ですか」


 道路の向こう側に目を向けたまま、柴崎泰広がぽつりと問う。


【うん、第一中学の二年生。なんだけど……】


 立ち消えた語尾に何を感じたのか、柴崎泰広は腕時計に目線をおとした。


【何時?】


「二時、ですね」


【二時か……】


 思ったとおり、下校時刻にはまだ早すぎる。おなかでも痛くなって早退したのか、もしくは、例によって午前中じゅう登校できずに、今から登校するのか……。


「どうしたんでしょうね。こんな時間に……」


 横断歩道の向こうに目を向けながら、柴崎泰広が呟いた。


【あの子……結月っていうんだけど、あんたと同じく、学校が苦手なタイプでさ】


 あたしを見おろす柴崎泰広を視界の端に捉えながら、歩行者用信号機の残り時間表示に目を向ける。表示は半分くらいに減っていたけど、まだ切り替わるにはいくぶん間があるようだ。


【あの家に引き取られてきたあたしに最初にあてがわれた仕事が、朝、あの子を学校まで連れて行くことだったんだ】


 あたしがあの家に引き取られてきたのは五月末。入学当初から片鱗を見せ始め、ゴールデンウイーク明けから本格的になった結月の行き渋りを、一家がもてあまし始めた頃だった。中一と中三だった兄たちは登校時間が早いため、行き渋る結月を学校まで送るのはもっぱらおばさんの仕事だったが、引き取られてきた翌日から、渡りに船とばかりにその仕事はあたしにまわされた。

 状況が想像できるのか、柴崎泰広は気の毒そうな表情を浮かべた。


「たいへん……でした? 連れてくの」


【うん。半端なかった。朝っぱらから嫌だ嫌だって泣きわめく結月を、ほとんど引きずって一キロ近く離れた学校まで連れてくんだもん。そのせいで、転校翌日から毎朝遅刻して怒られて。なんかさ、自分のことであれこれ鬱ってる暇もなかったな】


 まあ、ウジウジ思い悩む暇も与えられなかったおかげで助かっていた部分もあったから、結月に対しては特に悪感情は抱いていないのだけれど。

 結月自身も、上二人とも年の離れた兄貴だったせいか、結構あたしになついてくれていた気がする。あの家で唯一あたしの存在を認めてくれていた人間だったかもしれない。


【でもまあ行き渋りも二年生に上がる頃にはおさまって、小学校はなんとか乗り切って卒業したんだけど、去年の秋くらいからかな、中学で何かあったらしくて復活しちゃってさ。あたしも高校に行ってたし、十分フォローしきれなかったんだよね……】


 あたしが死んだ時、唯一心残りがあるといえばそのことだったかもしれない。

 ただ、結月ももう中学生なわけで、そろそろ自分のことは自分でけりをつけなきゃいけない年だし、実際できることも限られてくるから、やれたとしてもきっかけを与える程度のことだったと思う。だから「心残り」というほど大げさなものでもなかった。あたしがいようがいまいが、たいして影響がある訳でもないし。


「じゃあ、また行かれなかったんですかね」


【わからないけど、普通の子は今頃みんな学校だからね。その可能性も含めて、何か特別な事情があったんだろうね】


 送信しながら信号機の残り時間表示を確認する。あと二つで歩行者用信号は青になる。

 できれば、結月がこちらに渡ってくる前に移動したい。向こうは柴崎泰広のことを知らないとはいえ、状況が状況なだけに、知っているこちらが無視するのはなんとなく気が引ける。


【まあなんにせよ、あたしたちがどうこうできる問題でもないから。取りあえず帰ろう、柴崎泰広】


 送信したとたん、柴崎泰広は心底驚いたとでも言わんばかりに目を丸くしてあたしを見下ろした。


「なんで帰るんですか?」


【へ? なんでって……さっきそういう話になったじゃん。あたしはあの家には】


「家になんか行かなくていいですよ。生前の彩南さんを知る人が、今目の前にいるんだから」


 送信をぶった切って継がれたこの言葉に、一瞬思考が停止した。


【目の前にって……まさか、あんた】


「結月さんに聞いてみます。彩南さんの話」


 あっけらかんと言い放つと同時に、車の流れが止まり、歩行者用信号機が青に切り替わった。間延びしたとおりゃんせが、アイドリングのエンジン音に混じって流れ出す。

 柴崎泰広は待ってましたと言わんばかりに歩き出した。


【ちょちょちょちょっと待ってよ柴崎泰広あんた結月になんて声かけるつもりなの? よほど考えないと、いたいけな女子中学生に見知らぬ男が声かけるってそれ、不審者として通報されても文句言えないと思うんだけど】


 なんとか引き止めるべく、ケツポケにささっているケータイが抜ける勢いで太ももにしがみつくも、柴崎泰広は歩みを止めることもなく、なんてことない調子で返してくる。


「道を聞くだけです。水谷さんという方の家を知りませんかって」


……マジ?


「たぶん自然にどちら様ですかってことになると思うんで、そうしたら彩南さんの中学の同級生で、亡くなったことを最近知ったからお焼香に伺いたいとでも何とでも言えば」


 こ、こいつ、あたしの影響を受けたんだか何だか知らないけど、コレ系の口から出まかせがずいぶんうまくなったな。

 なんて感心してる場合じゃない。慌てて意識を前方に向ける。結月は信号が変わったことにも気づかない様子でうつむいていたらしく、ようやくゆるゆると足を踏み出し、横断歩道を渡り始めたところだった。


【ねえちょっとマジでやめてよ。あたしの気持ちはガン無視なわけ?】


「気持ちって……家に行きたくないっていう彩南さんの気持ちは尊重して譲歩するんで、彩菜さんのことを知りたいっていう僕の気持ちも尊重してもらえると」


 柴崎泰広が歩みを止める気配は全くない。

 ヤバい。マジで焦ってきた。


【譲歩って何それ。家に行くとか行かないとかは別にして、生前のあたしのことなんか何ひとつあんたに知られたくないだけなの! あたしの個人情報を保護してほしいってだけなのに、譲歩とか話をすり替えないで!】


「それを言うなら、僕の知る権利も同等に保証してほしいってだけの話で」


【わかった! あんたがどうしても結月に声かけるって言うんなら、あたし、即刻三途の川に帰るから!】


 キレ気味に送信した途端、よどみなく前進運動を続けていた柴崎泰広の足がピタリと止まった。

 ホッとして見上げると、おずおずとあたしを見下ろす柴崎泰広とちょうど目線が合った。ここぞとばかりに言葉を重ねる。  


【あとはあんたがやりたいように生きればいいじゃん。あたしなんかいなくたって、もう一人で生きられるんだよね?】


「そんな……何も、こんなことくらいで」


 弱気な返答に気を良くし、一気呵成に畳みかける。


【あたしにとってはこんなことじゃないの。別にいいよね? あんたの命をすり減らす病原体が消えるだけなんだから】


 柴崎泰広は、息をのんで表情をこわばらせた。


「病原体だなんて、そんな……」


 勢いに任せて思いの一端を口に出してしまったことで、胸のうちにため込んでいたものを、残らず吐き出してしまいたい衝動に駆られる。


【だいたい、あんたにとってはもうあたしなんか、はっきり言って必要ないんだよね?】


 言ってしまった。

 胸の奥底に、ずっと引っかかっていたこと。

 でも、もしこれを柴崎泰広に肯定されてしまったら、いったいあたしはどうしたらいいんだろう?

 冷や汗が出るような感覚とともに、なんだか息苦しくなってきた。編みぐるみなのに。

 横断歩道の真ん中で立ちつくす柴崎泰広に、通りすぎる人たちが不審げな目線をちらちらと送っていく。

 ややあって、柴崎泰広はつばを飲み込むと、何をか思い定めたように息を吸い込んだ。


「僕は……」


 その時。柴崎泰広の脇を、うつろな表情の結月が通り過ぎた。

 思わずドキッとしたけど、当然のことながら結月は柴崎泰広のことなど一瞥もせず、暗い表情で歩いていく。

 ホッとしたものの、そのあまりにも憔悴しきった様子に胸がざわついた。首根っこをつかまえて話を聞きたい衝動に駆られるも、慌てて振り捨てて、目の前の柴崎泰広に意識を戻す。柴崎泰広はあたしの質問で頭がいっぱいらしく、結月のことになど気づいてもいない様子だ。


「僕は、彩南さんが……」


 刹那。

 柴崎泰広の背後で、エンジン音の通奏低音を切り裂くような甲高い摩擦音が響き渡った。

 あたしは思わず人目構わず首を巡らせ、柴崎泰広も息を呑んで振り返る。

 横断歩道を渡りきる少し手前に、結月が倒れていた。

 減速しないまま突っ込んできたのか、自転車が一台、結月のすぐ脇で斜めになって停まっていた。あたり一面に、結月が手に提げていた紙袋の中身が散乱していて、勢いよくぶちまけられたせいで、柴崎泰広からそう遠くない位置にもひとつ、手のひらよりやや大きめの巾着袋が転がってきている。

 自転車に乗っていた中年男は結月の方を見て口を開きかけたが、点滅している歩行者用信号を見ると、ペダルを踏み込み、そのまま走り去ってしまった。

 何が起きたのか把握しきれていない様子でぼうぜんとあたりを見回していた結月は、赤に変わった歩行者用信号に気づくと、慌てた様子でぶちまけられた荷物をまとめ始める。

 思考停止していたあたしの視界が、突然左右に振られた。

 驚いて見ると、柴崎泰広が一番近くに落ちていた巾着袋を拾い上げたところだった。

 柴崎泰広はかがんだ姿勢のまま、ちらりとふとももに張り付いているあたしに視線を送る。


「……いいですよね」


 いいもなにも。そうするしかないよね。

 答えの代わりに太ももから手を離すと、柴崎泰広は猛スピードでまき散らされた荷物を拾い始めた。激しい動きで、あたしの体は尻と衝突しながら大きく左右に揺すられる。

 すでに歩行者用信号は赤にかわり、車両用の信号も青に切り替わってしまっているが、車の運転者も状況が状況なだけに、クラクションなどは鳴らさずに待ってくれているようだ。

 と、歩道寄りに落ちていた荷物をあらかた拾いきった結月が、車道にまき散らされた荷物を拾おうと足を踏み出そうとした。あわてて柴崎泰広が声を張り上げる。


「大丈夫です! 僕が拾いますんで」


 目を丸くした結月が差し出しかけた足を止めると、柴崎泰広は大急ぎで残りの荷物を拾い集める。

 最後の荷物に手をかけた、刹那。柴崎泰広はハッとしたようにその動きを止めた。

 手にしているのは、風呂敷に包まれた大判の本のような四角いもの。なんだろう? あたしの位置からはあまりよく見えないけど、ほどけた包みの端からは、木枠のようなものがのぞいている。なぜだか柴崎泰広は、瞬きすら忘れたようにその荷物に見入っている。

 と、横断歩道の真ん中で棒立ちになっている柴崎泰広に、いい加減しびれを切らしたドライバーがけたたましいクラクションで即時退去を促した。その音でわれに返った柴崎泰広は、あわててドライバーに頭を下げ、拾い集めた荷物を抱えて歩道に飛び乗る。

 待ってましたと言わんばかりに流れ始める車の列を横目に、柴崎泰広は再び手元の四角いものに目線を落とした。

 今の衝撃で包みがさらにほどけて上半分があらわになり、ほどけた風呂敷がだらりとあたしの目の前に垂れ下がっている。それでもあたしの位置からは、右側面の黒い縁取りとガラスのようなつるりとした表面、そして、写真だろうか? 茶色い髪のようなものほんの一部見えるだけだ。

 

 サラサラした、茶色くて長い髪。

 なんだろう。息もしていないのになんだか息苦しくなってきた。


「あの……」


 遠慮がちな、か細い声。

 見ると、警戒心の強い野生動物さながらに全身に緊張をにじませた結月が、上目づかいに柴崎泰広を見上げている。


「あ、……あの、荷物、拾っていただいて……ありがとうございました」


 消え入りそうな声で早口に礼を言うと、荷物を受け取ろうと細い手を差し出す。が、柴崎泰広は結月の声が聞こえていないのか、四角いものにまじろぎもせず見入っていて、動く気配がない。 


「あ、あの……」


 結月が再度、遠慮がちに声をかけると、柴崎泰広はようやく夢から醒めたように顔を上げた。

 結月は、柴崎泰広が手にしているものをおずおずと指差してみせる。


「あの……、それ……」


「この人……」


 結月の発言を遮るようにそれだけ言うと、柴崎泰広は音を立ててつばを飲み込み、再度かすれた声を絞り出した。 


「この人は、もしかして……」


「え?」


 柴崎泰広の気おくれしたような問いかけは、行き交う車のエンジン音とほこりっぽい交差点の空気にまぎれて、語尾が不明瞭に消えていた。

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