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83.あんたには知られたくない

 前だけを向いて生きてきた。

 昔を思い出して泣いたり感傷に浸ったりする暇があったら、現状を少しでも改善するにはどうしたらいいか、そっちを考えて行動する方がずっと有意義だと思ったから。第一、グズグズしていたら這い上がれるものも這い上がれなくなる。この世は弱肉強食、気を抜いた瞬間に蹴落とされて踏みにじられて終わり。そう思ったから、とにかくわき目も振らずに必死で走り続けてきた。

 だから、「過去を振り返る」なんて文字は、あたしの辞書には存在しなかった。

 なかったはずだった。

 こいつに出会うまでは。


「この道をどっちに行くんですか」


 改札口を出たところで足を止めた柴崎泰広は、携帯にぶら下がるあたしに早口で問いかける。視線が左右に泳いでいる。少しだけ緊張しているようにも思える。


【……左。次の交差点まで、そのまま道なりに行って】


 そう返したあたしの送信も、やっぱり少しだけ上ずっている気がする。

 そりゃ緊張もするよね。

 だって、あたしは死んだんだから。

 あの日、交通事故に遭って、あたしは死んだはずだから。

 その事実を今日初めて、客観的に目の当たりにするわけだから。


 あたしが死んだあと、あの一家がどんなふうにその後始末をしたのか、あたしは知らない。

 あたしがいなくなったあの家でどんな会話が為され、あたしの持っていた数少ない持ち物がどんなふうに処理され、どんなふうに葬式が執り行われ、どんな人がどんな表情でそこに参列したか、あたしは知る由もない。

 知りたくもない。

 たぶん、誰も悲しんでいないと思うから。

 あの家で、あたしは厄介者以外の何者でもなかったから。






『本当に、どういうつもり?』


 あたしがあの家に引き取られてきたあの日、ほんのわずかな荷物を屋根裏部屋の片隅で整理しながら、あたしはなんとなく階下の話し声に耳をそばだてていた。


『あの件では、うちだって大損してるんだよ。そりゃ、あの人たちに迷惑をかけたことは事実だし、責任があるって言われたらそうかもしれないけど、余分な金なんてなかったんだから……第一、この不況下で、自分の子どもたちを育て上げるだけでもいっぱいいっぱいなのに、その上あの子を引き取る余裕なんて、今のわが家にはないんだよ?』


 機関銃のようなおばさんの言葉のあと、ずいぶん長い沈黙を経て、おじさんがようやくボソッと言葉を返す。これがこの夫婦のリズムなのだと分かったのは、一緒に暮らしてずいぶんたった後だったのだけれど。


『保険金がある』


 両親は自分たちに保険をかけていた。結婚した当初から続けていたもので、自殺免責期間はとうに過ぎており、さらに両親とも自殺前の数カ月間はうつ病で精神科に通っていたために「保険金目当ての自殺」として免責されずにすんだ。これがもし免責されて支払われなかったとしたら、もっと凄まじい事態が待ち受けていただろうと思うとぞっとする。


『何言ってんの、あんなもの、借金の返済でほとんど消えちゃったよ。残りの数十万円で、どうやって育て上げるまでの食費やら学費やらを賄えっていうのさ。施設送りにしたって、このご時世、生活が苦しい人間は掃いて捨てるほどいるんだから、世間様だってあたしらを責めやしない。あの子だってその方が幸せかもしれないよ?』


 長い沈黙のあと、ようやくおじさんがぽつりと言葉を返した。


『働いてもらえばいい』


『働くって?』


 素っ頓狂に裏返った声が響き、蛇口をひねる音と同時に水音が止んだ。


『働くってあの子が? 何言ってんの、まだ小四だよ? そんな子どもを働かせたら、あたしたちが逮捕されるでしょうに』


『今すぐじゃない。二年後だ』


 おばさんはバカにしたように鼻を鳴らす。


『それにしたって中一じゃない。雇ってくれるところなんか、あるわけが』


『石田のところ、新聞販売店だっただろう。あそこなら、多少融通は利くはずだ』


『石田さんの? でも、配達員なんて務まるかどうか……』


『やらせてみるしかないだろう』


『それはそうだけど……』


『とにかく、もう決めたことだ!』


 論争はこの言葉で打ち切られ、重苦しい沈黙の合間に聞こえてくるのはおばさんの不満そうな溜息と、おじさんが乱暴に扉を閉めたり椅子を引いたりする音だけだった。






 あの会話から読み取れることはいろいろあるんだろうと思う。でも、あたしは今さら、あの会話をあれこれ分析してみようとは思わない。おじさんは、なんでだかわからないけど家族の反対を押し切ってあたしを引き取り、決して裕福でなかったあの一家にとって、そんなあたしは邪魔者以外の何者でもなかった。この事実さえ分かっていれば十分だから。


 邪魔者の死。

 それは、彼らにとって喜びこそすれ、悲しむべきことであるはずがない。


「交差点まできましたよ。どっちに行けばいいんですか」


 業務用車両や乗用車が信号待ちで長蛇の列をなす幹線道路を前に、立ち止まった柴崎泰広が問いかけてくる。正面の歩行者用信号は青だったけれど、あたしが沈黙を守るうちにチカチカと点滅を始めて、赤信号に切り替わってしまった。

 柴崎泰広は、青信号を見送ったことで直進ではないと思ったのか、「右ですか? 左ですか?」と早口にささやきかけてくる。


【……やっぱりやめよう、柴崎泰広】


 信号を見つめていた柴崎泰広が、驚いたようにあたしを見下ろす。


【行ったって、たぶんもう何も残ってないよ。あの家の人が、あたしの物をとっておく理由が見当たらない】


 柴崎泰広は、鼻でため息をつく。


「そんなことはないって昨日から言ってるじゃないですか。お位牌と写真くらいは絶対にありますって。佐藤さんのお父さんだって、ちゃんとあったじゃないですか。あんなふうに……」


【夏波んとことは環境が違いすぎるんだって。あいつんとこは勝ち組。うちんとこは負け組だから】


「大丈夫ですって。死者に鞭打つようなマネは、いくらなんでも……」


【それができちゃうのが負け組の負け組たるゆえんなんだって。昨夜から何度も言ってるじゃん。行ったって無駄だよ。やめよう、柴崎泰広】


 柴崎泰広は口を噤み、携帯にぶら下がるあたしをじっと見つめた。

 あたしはそんな柴崎泰広の視線をかわすように、頭頂部のストラップに体重を預けて回転する。


『連れて行ってほしいところがあるんだ』

 

 頼んだのは確かにあたし。

 あの時は本気でそう思った。

 どうしても見ておいてほしいと思った。あたしという人間が確かにこの世に存在していた事実を。


 だけどそのあと、あたしが生きていた事実の「証拠となるもの」が果たしてあの家にあるかどうかが怪しいことに気づき、その思いはだんだんしぼんで、やがて重苦しい不安にかわっていった。

 週末までに、何とか話を行かない方向に持って行きたいと思っていたのに、水曜日は教職員の研修会があるとかで午前中授業になると聞いたとたん、じゃあ水曜の午後に行きましょうとか柴崎泰広がノリノリで言ってきたからさらに焦った。

 だいたい、なんでこいつはこんなにノリノリなんだろう。昨夜、行きたくないって話をした時も、頑として聞き入れなかったどころか、どうしてもいやなら僕だけで行ってきますみたいなことまで言い始めたからびっくりした。彩南さんは道案内だけしてくれればいいから、あとは僕が全部何とかしますからなんて、ちょっと前の引きこもり状態からは想像もつかないセリフを吐くもんだから、あたしもそれ以上は断りようがなくて、ついこんなところまで来ちゃったんだけど、いったい何なんだろうこのやる気は。こいつにとって、何の得になるわけでもないのに。


 ややあって、柴崎泰広は言いにくそうに口を開いた。


「……もし彩南さんの言うとおりだったとしても、それはそれで仕方がないです。応対は全部僕がやるし、相手には絶対に彩南さんがいるなんてことは気づかれようがないんで、大丈夫ですよ。終わるまで、彩南さんはカバンの中にでも入って隠れていればいいですから」


【別に隠れる必要はないんだけどさ】


「でも、いやなんですよね。気まずいっていうか……」


 別にあたしは、あの人たちに対して何か思い入れがあるわけじゃない。

 あの人たちのあたしに対するプラスの評価なんて一切期待していないし、あの人たちがすげない態度をとるのなんか最初から織り込みずみだから、別に傷つきようもない。

 あたしが気にしているのは、そんなことじゃなくて。


【何も残ってなければあんた的にも行ったって無駄なんだし。やっぱりやめよう。ね?】


「僕にとっては無駄じゃないんで」


【なんで? 行ったって、あたしとは直接の血のつながりもない、しかもあんまり関係の良くなかった人たちがいるだけなんだよ?】


 柴崎泰広はあたしを見た。

 眼鏡の奥からひた向きに注がれる、真剣なまなざし。

 あたしも負けじと、ビーズの目玉に精いっぱいの目力を込めて見つめ返す。


「……僕は、彩南さんのことを知らない」


 知らなくていい。

 ていうか、あんたには知られたくない。


「僕にとっての彩南さんは、三途の川のおぼろげな雰囲気と、自分の作り上げた勝手な想像でしかない。だから……」


【あたしのことなんかそれで十分だし。それ以上、何を知りたいわけ?】


 あたしが邪魔者として生きてきたこと?

 誰からも必要とされてなかったこと?

 冗談じゃない。そんなこと、絶対にあんたには知られたくないよ。


 柴崎泰広は鼻白んだように黙り込んで目線を落とすと、突然、耐え切れなくなったように吐き捨てた。


「僕は彩南さんのこと、本当に、何にも知らないんですよ!」


 かなり強い調子だったので、一瞬ドキッとした。

 恐る恐る見上げると、眉根をきつく引き寄せて目線を落としている柴崎泰広の硬い表情が視界に入る。


「朝から晩まで一緒にいて、そりゃまあ、ケンカしたことがないって言ったらウソになるけど、それなりに助けたり助けられたりしながらこんなに深い付き合いをした相手なんて、もしかしたら僕にとって生まれて初めてかもしれないんですよ。なのに、その相手の顔も、声も、生きていたころの様子も、何ひとつ知らないままなんて……」


【……だ、だけどさ、それを知る手掛かりなんか、もうあの家にはないかもしれないんだよ。行ったって無駄だし】


「何もないなんてことは絶対にないです」


 やけに自信たっぷりに言い切るその様が、ささくれ立ったあたしの神経を逆なでした。


【なんでそんなことが言いきれるわけ? あたしがあの家でどんなふうに生きてきたか、あんたは何も知らないくせに!】


 叩きつけるような送信で頭痛でも走ったんだろう、柴崎泰広はちょっと顔をしかめてから、どこか悲しげにあたしを見つめた。


「……別に、写真もお位牌もなくたっていいんです。昔の彩南さんがどんな人だったか、少しだけでも話を聞ければそれで。訪ねて行ってお焼香させてくださいって頼んだら、きっとそういう話は出てくる。もっと言えば、彩南さんを知ってる人に会えるだけでも十分かもしれない。彩南さんって人が存在していて、確かにそこで暮らしていたっていう、その事実だけでも確認できればそれで」


【いや、それでって……】


 ひた向きに注がれる視線が苦しくて少しだけ体をひねった。ストラップに預けられたクマるんの体が揺れ、ゆっくりと右回転を開始する。


【じゃあ、あたしの気持ちは無視ってわけ?】


「え……」


 気後れしたように口ごもる柴崎泰広の姿が、視界の右から左へゆっくりと移動し、やがて視界の端に消え、再び反対側の端から現れる。


【あたしは知られたくないのに】


「でも、連れて行ってほしいって最初に頼んだのは、彩南さんの方で……」


【気が変わったの! ていうか、あの時はそこまで深く考えてなかったから。適当なことを言ったのは悪かったから謝る。でも、マジでダメだから。もう今は、絶対に行ってほしくないから!】


 視界をゆっくり横切る柴崎泰広の顔に、落胆の色がにじんだ。


「どうしても……ダメなんですか?」


【ダメ。絶対無理】


「僕は知りたいのに」


【当事者がダメって言ってるんだからガマンして。個人情報は保護されてしかるべきでしょ】


「それはそうですけど、僕の知る権利が侵害されてる気も」


【あんたの知る権利より、あたしの個人情報保護の方がどう考えても上位だし。とにかく戻ろう。久々の梅雨の晴れ間だし、たまってる洗濯物を片づけなきゃ。さっさとすませないと、せっかくの日が陰っちゃう……】


 言いかけた、刹那。

 あたしの視界を、見覚えのある人物の姿が横切った。

 ぷっつりと途切れた送信に違和感を覚えたのか、柴崎泰広も怪訝そうにあたしの視線の先を追う。

 その人物は、横断歩道の向こう側に立っていた。

 行き過ぎる車両の陰に見え隠れする、長い黒髪を耳くらいの位置で二つに束ね、右手に大きな紙袋を提げたセーラー服姿の少女。泣いているのだろうか? 肩を震わせながら、さっきから何度も左手の甲で目元をこすっている。


「……知り合いですか?」


 あたしの醸し出す雰囲気にただならぬものを感じたのか、柴崎泰広が遠慮がちに問うてくる。

 知り合いも何も。


【……妹】


「え?」


【あたしの、義理の妹】


 柴崎泰広は両眼を大きく見開くと、ゆるゆると横断歩道の向こうに目を向けた。

 あたしも体の回転を止めると、息を殺して「懐かしい」妹の姿を凝視した。

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