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82.あたしはやっぱり、あんたに生きて欲しい

 超人気店というだけあって、店内のイートインスペースは長蛇の列、とてもゆっくりくつろげる雰囲気ではなかったけれど、西ちゃんの手引きで裏口から入店したあたしたちは、従業員の休憩スペースですぐにケーキにありつくことができた。

 それにしても柴崎泰広ときたら、あのあとすぐにあたしに交代を申し入れ、クマるんになった途端にぐっすり眠りこけてしまった。おじさまと相対したことで精神的に相当こたえたらしいけど、なんだかおいしいとこ取りをしてしまったみたいで心苦しい。


「お待たせー」


 お盆を片手に入ってきた西ちゃんは、慣れた手つきでケーキの載った皿と紅茶を簡素なテーブルに並べた。

 真っ白いクリームの上にちょこんと赤い木の実がのっている、その美しい見た目からして期待感あふれるケーキの登場に、夏波は目を輝かせて身を乗り出した。


「これがイチオシ?」


「そ。フランス大使館主催のコンクール、ソペクサで優勝したときの代表作。とにかくよく売れるんで、ちょっと上にのってるフランボワーズの品質が落ちちゃってるんだけど……それは目をつむって」


 さっそく一口いただいてみる。

 ホワイトチョコの上品な甘さと木の実の甘酸っぱさが、口の中で絶妙なハーモニーを醸し出し、なんとも言えないおいしさだ。


「やー、これマジでおいしい!」


「ホントホント。あんだけ並ぶのも分かるー」


 女言葉丸出しでキャイキャイ言いながらケーキをいただいていると、西ちゃんがおもむろに口を開いた。


「ねーアヤカ、柴崎、マジで寝ちゃってんの?」


「え? あ、うん。よっぽどの精神的重圧だったんじゃない? 交代した途端にストンと。ゴメンね、本当は貢献者であるあいつが食べるべきだったのに」


「いや、そんなんはいいの。いつか俺がお手製のケーキ死ぬほど食わせるから。ただ、ちょっと確かめたいことがあってさ」


「確かめたいこと?」


 西ちゃんはお盆を小脇に抱えて頷いた。


「あいつ、法定代理人がどうとか言ってたじゃん、親の同意なしにバイトをすれば、いつやめさせられても文句は言えねえって……てことはさ、あいつ、最初っからこうなることは予測済みだったってことなのかな」


 ケーキを口に運ぶ手が止まった。


『そうは言ってません。この状況がそんなに長い間続く訳がないと言ってるだけです』


 あの時、柴崎泰広が口にした言葉が頭を過ぎる。


「……もしかしたらそうかもしれない。校長室で啖呵切ったあのあと、そんなようなことチラッと口走ってたから」


 西ちゃんは苦笑すると、お盆を持っていない左手でグシャグシャと髪を掻きむしった。


「だとしたらマジですげえな。いくつも才能があるってのは、柴崎みたいなヤツのことを言うんだろうなたぶん」


「でもまあ、あたしもそこまで明確に道筋を描いてたわけじゃなかったけど、長続きするとは思ってなかったよ。マンガやドラマじゃあるまいし、現実はそんなに甘くないからね」


「相変わらずシビアだなアヤカも」


 ため息とともに吐き捨てると、いくぶん寂しそうにあたしを見つめる。


「まあ、話し合いがどう転ぶかはわからねえけど、どっちにしろ同居生活はコレで終止符ってことになるかな」


「仕方がないよ未成年のうちは。特にあんたはいいとこの坊ちゃんだし、親元を離れて独り立ちした暁にでも再チャレンジするってことで」 


「あーあ、楽しかったんだけどな」


 ぼやいてみせてから、西ちゃんはチラリと横目であたしを見た。


「……柴崎、まだ寝てるんだよな」


「ん? うん、寝てるよ。熟睡」


「ちょうどいいから、ちょっと聞いていい?」


 西ちゃんはお盆をテーブルに置くと、あたしの向かい側に置かれていたパイプ椅子に腰を下ろした。

 ケーキを食べる手を止めて、夏波も西ちゃんを見、それからあたしの方を見る。


「アヤカさ、なんかたくらんでない?」


「え?」


 ドキッとした。


「いきなり奨学金の申請をしてみたり、学校で交代しないことにしてみたり……なんかヘンだよな」


 西ちゃんと夏波の視線が、額と左頬にチクチクと突き刺さる。

 慌ててケーキに視線を落として、無意味につつき回してみたり。


「……は? ヘンって、どういうところが……」


「あたしもそれ、今日すんごい感じた」


 わが意を得たりと言いたげな夏波の声が、左耳の鼓膜を震わせる。


「あたしと柴崎がちょっとでもベタベタすると、普段のアヤカなら絶対に邪魔しようとしてくるのに、今日は全然そういう雰囲気を感じなかった。わざといろいろやってみたのに」


「交代できる時間になってなかっただけだって。考えすぎだよ」


 いかにも平静をよそおいながら、ケーキの土台部分を口に放り込む。サクサクの薄焼きクレープ生地とナッツのおいしさが口いっぱいに広がったけれど、じっくり味わう余裕もなく喉の奥に流し込んだ。


「アヤカさ、ひょっとしておまえ、柴崎と同じようなこと考えてない?」


「なに? 柴崎泰広と同じようなことって……意味分かんないんだけど」


 遠回しな物言いにかこつけてしらばっくれてみる。


「俺との同居生活があっという間に終わることを予見してたくせに、ひとこともそういう事は言わなかった柴崎みたいにさ」


「いや、あたしも別に、そこまではっきり道筋が見えてる訳じゃなかったから……」


 あまりにはぐらかされて少し苛ついたのか、西ちゃんはふうっと大きく息を吐いた。


「俺のことじゃない。おまえと柴崎のことだよ」


 口に運びかけたフォークが止まってしまった。

 息をひそめるようにして、上目づかいに西ちゃんを盗み見る。

 西ちゃんは射るようなまなざしで、あたしの額を見つめていた。おじさまの醸し出していたオーラに似た威圧感を覚えて、さすが親子だなんて思ってみたり。


「アヤカ、おまえ、ひょっとしてさ……」


「だとしたらなんなの?」


 あえてつっけんどんに発言をさえぎり、ケーキを一口パクリと口に放り込んだ。

 刺すような二人の視線を感じつつ、ゆっくり咀嚼してから、おもむろに口を開く。


「あたしはさ、基本的に病原体みたいなもんなのコイツにとって。要するにいちゃいけない存在。あってはならない存在なの」


 紅茶を一口すすってから、揺れる琥珀色の表面に目を落とす。


「今まではコイツがあたしなしじゃ生きてられなかったから取りあえず存在してたけど、ここまで回復してきたわけだし、もうそろそろ引退を視野に入れてもいい時期でしょ」


「……まいったな」


 西ちゃんは呟くと、グシャグシャと頭を掻きむしった。

 夏波は何も言わず、じっとあたしの顔に視線を注いでいる。


「アヤカが言うのは確かに正論なんだけど……なんて言うか、ヘンな気分なんだよな」


「ヘンな気分って、何が?」


「一般論で考えりゃ、二重人格が一つに収まるってのは喜ばしいことなんだろうけど……なんかさ、長く付き合ってたせいかなんなのかよく分かんねえんだけど、俺、アヤカが柴崎と同一人格だって、どうしても思えないんだよな」


 琥珀色の表面が、大きく波立った。

 揺れる表面に映るあたし……シバサキヤスヒロの顔が、グニャリと歪む。


「アヤカはアヤカで、柴崎は柴崎で、ものすごく独立した人格っていうか」


「多重人格者なんて、みんなそんなもんなんじゃない?」


 努めて平静を装ったつもりだったのに、語尾がわずかに上ずってしまった。ヤバ。


「精神科医でもない限り、他の多重人格者になんかめったにお目にかかれないし、比べることもできないし。第一、比べられるもんでもないと思うしね。いろんなケースがあるけど、取りあえず柴崎泰広のケースはこうだったって、ただそれだけの話だよ」


 一気にまくしたててから、冷めた紅茶を飲み干す。

 それまで黙って話を聞いていた夏波が、おもむろに口を開いた。


「……アヤカは、それでいいの?」


 紅茶が気管に入りそうになって、慌ててカップを口から離した。

 ほんのわずかに残っていた紅茶が、白いカップの底で大きく前後に揺れている。


「あ……当たり前じゃん。あたしは……そう、柴崎泰広を立ち直らせるために発生した人格なんだもん。言うなれば、コイツを助けるために遣わされた勇者様なの。つとめを終えた勇者様は、きれいに後始末をして、自分の世界に帰るだけだよ」


「アヤカの世界?」


「そ」


 不安そうな表情で繰り返した夏波に、にっこり笑いかけてみせる。


「あたしがもともと、あたしとして存在していた世界に」


「あるの? そんなのが……」


「あるよぉ、ちゃんと☆」


 できうる限りの笑顔をせいいっぱい浮かべながら、深々と頷いてみせる。

 それでも何となく納得いかないような表情を浮かべている西ちゃんと夏波に向かい、少しだけ居住まいを正した。


「それにね、あんたたちがいてくれるからってのもあるんだ。そんなことを考え始めたのは」


 夏波も西ちゃんも、無言であたしの言葉を受け止めてくれている。

 ありがとう、助かるよ。


「まだコイツの中には多少不安が残っているから、たぶんもう少し時間はかかると思う。でも、そんなに遠くない将来、あたしは消える。その時は……」


 頭を下げ、一言一言噛みしめるように言葉を発する。


「その時はコイツのこと、よろしく頼むね」


 視界の上方で、夏波と西ちゃんは言葉もなくあたしを見つめていた。



☆☆☆



 夕刻の下り電車は、家路に向かう人でそれなりに混雑していた。

 渋谷で母親と待ち合わせているという夏波と別れ、お決まりの戸口脇で手すりにもたれながら、流れ去る風景を見るともなく眺める。

 昼間、自分が発した言葉の数々が、ぼんやりと脳裏によみがえってくる。


『あたしはさ、基本的に病原体みたいなもんなのコイツにとって。要するにいちゃいけない存在。あってはならない存在なの』


 そう。あたしはあり得ない存在。

 コイツの命をすり減らす病原体。


『今まではコイツがあたしなしじゃ生きてられなかったから取りあえず存在してたけど、ここまで回復してきたわけだし、もうそろそろ引退を視野に入れてもいい時期でしょ』 


 西ちゃんは、否定しなかった。

 一つの体に二つの人格が存在するなんていう不自然な状態が続いていいはずがないんだから、当然だよね。


『あたしは……そう、柴崎泰広を立ち直らせるために発生した人格なんだもん。言うなれば、コイツを助けるために遣わされた勇者様なの』


 コレと同じセリフを、いつかどこかで言った気がする。

 そうだ、あの時だ。

 あの公園で、柴崎泰広の男性恐怖症を初めて知った夜。

 

 あの時は、ごく自然にそう思った。

 いつかこういう時も来るかもしれないって思った。

 でも、悲しくも何ともなかった。


 だって、あの時のあたしは、本当に生きたい訳じゃなかったから。


『つとめを終えた勇者様は、きれいに後始末をして、自分の世界に帰るだけだよ』


 あたしの世界。

 あたしが、あたしとして存在していた世界。

 水谷彩南として生きていた世界。


 ……そこに戻るということは、すなわち。 


 喉の奥が熱く強ばり、眉間に抑えつけられるような圧迫感を覚えて、慌ててうつむいたとたん、グレーの床にポツリと水滴がこぼれた。


 水谷彩南は、すでに死んだ存在。

 あたしはあたしとしての存在を誰に知られることもなく、柴崎泰広の別人格として消えるしかないんだ。

 西ちゃんにも、夏波にも。


――そして、柴崎泰広にも。


 水玉の数が、加速度的に増えていく。

 車内の乗客達に知られないように唇を噛みしめ、戸口に額をきつく押しつける。


【……彩南さん?】


 ふいに、寝ぼけたような送信が脳裏をかすめた。

 はっとして顔を上げた拍子に、目元にたまっていた涙が数滴、また床にこぼれ落ちてしまった。

 腰のあたりから、息を呑むような気配が伝わってくる。息なんかしていないクセに。


【どうしたんですか彩南さん、何かあったんですか?】


 さすがに鈍感なクマるんも、床にこぼれた水滴を見て状況を悟ったらしい。焦ったような送信を矢継ぎ早にたたきつけてくる。


「なんでもない。目にゴミが入っちゃったの」


 わざとつっけんどんに吐き捨ててメガネを外し、目元に残る水分を擦り取る。

 クマるんは、それでもしつこく食い下がってきた。


【ゴミくらいでそんなにたくさん出るわけがないですよ。どうしたんですか? もしかして、西崎さんと何か……】


「何でもないって言ってるじゃん! ほっといてよ!」


 これ以上追求されたらまた余計な水分が発生しそうだったから、怒ったように吐き捨てて拒絶オーラを全開に発する。

 クマるんは不本意そうに黙り込んでから、ややあって、呟くようにこんな送信をよこしてきた。


【彩南さんにとって、僕ってなんなんですか】


「……は?」


 予想の斜め上の反応に、思わず声が裏返ってしまった。


【困ったことがあっても、いつもいつも彩南さんは一人で解決しようとする。一人で悩んで、一人で困って……何でも一人で考えて、何でも一人で始末をつけて……僕ってそんなに頼りないんですか】


 押し殺したような送信のあと、一呼吸置いてから、意を決したような強い送信が脳に突き刺さった。


【僕は彩南さんに、もっと甘えてほしい】


――え?


 あまりに意表を突く言葉だったせいだろうか。その送信が脳を貫いた瞬間、全ての音が消えた気がした。

 車内のざわめきも、電車の走行音も。

 白っぽい無音の霧に包まれながら、クマるんの送信だけが優しく脳神経を震わせる。

   

【もっと気兼ねなく甘えたりよりかかったりしてほしいって、今日、西崎家のみなさんを見てつくづく思ったんです。彩南さんは僕にはそういう弱みをほとんど見せてくれなくて、いつも僕ばっかりがよりかかって甘えてきたけど、そのうちに重くてつぶれちゃうんじゃないかって、心配で……だから、つらいことがあったら、僕にも荷物を預けてください。僕は家族ではないですけど、彩南さんって人がここにいるってことを、本当に知ってるのは僕だけだから……まあ、そりゃ確かに、彩南さんから見たら僕は全然頼りないし、世間知らずだし、生活力もないし、彩南さんに信頼してもらえるだけのものを持ってないってのは、よく分かってるんですけど……】


 言っているうちにだんだん自信がなくなってきたらしく、最後の方は、消え入りそうな送信だった。


 額をガラスに押しつけて、乗客と腰のクマるんから顔が見えないように気をつけながら。

 目元にたまった水分が流れ出さないように、固く目をつむりながら。

 揺らいでいた自分の気持ちが、再びしっかりと固まり始めるのを感じていた。


 そう、あたしはやっぱり。

 あたしはやっぱり、あんたに生きてほしい。


「信頼してほしいなんてねえ、十年早いっての」


 霞んだ視界を晴らしながら、腰のクマるんはあえて手に取らないで言葉を返す。

 意識的にトーンを上げて発した声は普段通りの明るさで、われながら会心のできばえだ。 

 柴崎泰広はムッとしたように黙り込んだ。


「そういうカッコイイことはもうちょっと自分に自信が持てるようになってから言うもんだって。まったく、数学とか法律とかは天才的だけど、生活のこととなるとダメダメのくせに」

  

【そ……そりゃそうかもしれないですけど、】


「でも、せっかくだから、お言葉に甘えちゃおうかな」


【……え?】


 少しだけ、発言の順番を考えるために言葉を切る。


「……連れて行ってほしいところがあるんだ」


【連れて行ってほしいところ?】


 小さく頷き返してから、ひとことひとこと、かみしめるように言葉を紡ぐ。


「あんたに、どうしても見てほしいものがあるから」

 

 いつもとは違う雰囲気を感じとったのか、クマるんは言葉を返さずにじっとあたしを見つめている。

 あたしもそれ以上は言葉を継がずに、窓の外を流れ去るオレンジ色の街並みに目を向けた。



 そう。あんたにだけは、どうしても知っておいてほしい。

 あたしという人間が、確かにこの世に存在していたという事実を。

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