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81.驚いた、正直

 驚いた。正直。

 柴崎泰広は重度の男性恐怖症で、緩和されてきているとは言えまだまだ完治とはほど遠い。しかも目の前に立つこの男性は、普通の人間ですら尻込みしてしまうほどの強権的で高圧的なオーラを身にまとっている。スルーしたとて非難されるような場面ではないし、状況的にも果てしなく不利だ。にもかかわらず自分から声をかけるなんて、以前の彼からは考えられない行動だ。

 それとも、おじさまに論戦で勝てる自信でもあるというんだろうか。

 おじさまは足を止めると、眉根を寄せて振り返り、柴崎泰広を一瞥する。

 その圧倒的な威圧感に、柴崎泰広は音を立てて唾を飲み込んだ。


「柴崎……何だっておまえ、こんなところに」 

 

 思いがけない人物の登場にあっけにとられていた西ちゃんが、半ばぼうぜんと問いかける。


「知り合いか?」


 おじさまの問いに、西ちゃんは小さく頷いた。


「柴崎泰広……俺が今、間借りして世話になっているやつだ」


 その言葉を聞いた途端、柴崎泰広を見つめるおじさまの両眼に、鋭い光が宿った。

 柴崎泰広の背が、緊張でビクリと反り返る。


「し、柴崎……大丈夫なの?」


 夏波が心配そうに問いかけた時には、おじさまは踵を返し、こちらに向かって歩き始めていた。

 自信に満ちあふれたその足取りに圧倒された柴崎泰広が、一歩あとじさる。

 夏波は会話を邪魔しない位置に引き下がると、そんな柴崎泰広を不安そうに見つめた。

 歩み寄ってきたおじさまは、威圧的なオーラをこれでもかと放射しながら、射るようなまなざしで柴崎泰広を見据えた。


「あなたが、柴崎さんですか」


 腹の底にビリビリ響く深いバリトン。圧倒されつつも、柴崎泰広がやっとのことで首を縦に振った、次の瞬間。

 おじさまは直角に腰を折り曲げ、柴崎泰広に深々と頭を下げた。


「このたびは、ウチのバカ息子がとんだご迷惑をおかけしまして、本当に申し訳ありませんでした」


 ……え?


 柴崎泰広はもちろんのこと、夏波も、そしてあたしも、あっけにとられてグレーの頭頂部を見つめた。

 確か、西ちゃんのお父さんは、次期検事総長の椅子が確約されているとかいう、ものすごく偉い人。そういう立場の人からすれば、一介の貧乏高校生に過ぎないあたし達なんて雑魚中の雑魚、足蹴にしたって構わない塵芥的存在のはず。そんなあたしたちに向かって、こんなふうに頭を下げられるなんて、……やっぱりこのおじさまは、ただ者じゃない。

 雰囲気に呑まれて言葉を失っている柴崎泰広に向けて、おじさまは次々に言葉を継いだ。


「こんなところでお会いできるとは思っておりませんでしたので、なんの準備もしておりません。このたびのお礼とお詫びにはまた日を改めてうかがわせていただこうと思っておりますので、不調法をお許しください」


「そんな、お礼だなんて、僕はなにも……」


 柴崎泰広がやっとのことで言葉を返すと、おじさまは先ほどまでの威圧感がウソのような柔和なほほ笑みを浮かべた。


「妻から聞きました。柴崎さんはご事情があって、今お一人で暮らしてらっしゃるそうですね。たいへんな状況にもかかわらず、しっかり自活されているとは本当に頼もしい。ウチのバカ息子に爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ」


「そ……それを言うなら、西崎さんも立派に自活しています。僕はそうせざるを得ない状況だから仕方なくやっているだけですが、西崎さんは目的のために自分からそういう状況に飛び込んだ訳で、僕なんかより、はるかに……」


 思いがけずベタ誉めされてしまったことで、柴崎泰広は少なからず調子が狂っているらしい。先ほどの勢いはどこへやら、しどろもどろに言葉を返す。


「それが甘いと言ってるんです」


 おじさまは勝ち誇ったように吐き捨てると、背後に立ち尽くす西ちゃんに鋭い目線を向ける。


「自分には、われわれという後ろ盾がある。にっちもさっちもいかなくなったときは、われわれを頼ればいい。今回の行動の背後には、そういう甘ったれた考えが透けて見える。そこが一番、腹が立つんです」


 ドキッとした。

 それはまさにあの時、柴崎泰広が西ちゃんに言った言葉そのものだったから。

 そしてたぶん、西ちゃんが一番言ってほしくないだろう言葉。

 おじさんの後ろに立つ西ちゃんをおそるおそる見やる。

 足元に目線を落としてきつく唇を噛みしめている西ちゃんの姿に、突き刺されるような胸の痛みを感じて、慌てて視界をシャットアウトした。


「そんな甘えた考えのもとに、他人様にご迷惑をおかけするような愚挙は、監護者として黙認する訳にはいきません。親としての責任を果たす意味で、コイツは家に連れ戻します。柴崎さんには、今日まで本当にお世話になりましたが……」


「西崎さん自身に甘えている気はないです」


 遮るように差し挟まれたその言葉に、柔和だったおじさまの目に鋭い光が宿った。


「西崎さんは自分の力で歩いていこうと必死に考えて行動しています。親御さんのフォローも一切あてにしていません。もちろん、ご家庭の後ろ盾があるのは事実でしょうが、それは彼が期待するとかしないとか、そういうこととは関わりなく存在しているだけです」


「自分では頼っていないつもりでも、無意識に甘えている部分があるんですよ」


 そう言うと、おじさまは苦笑まじりに肩をすくめた。


「だからこそ、金も持たず生活必需品も持たずに家を飛び出し、最初は高校に通い続けるつもりすらなかった。世の中をなめきっています」


 あたし的にもそれは同感。

 誰にも頼らず徹底的に一人で生きていくってことがどういうことか、たぶん西ちゃんはまだ完全には分かっていない。

 だけど。


「それは仕方がないです。そういう経験がなかったんですから。でも、家出をして一週間以上たちますから、もうずいぶん分かってきたと思いますよ」


「それが分かったなら、なおさら家に戻るべきでしょう」


 おじさまは苛立ちを抑えるように吐き捨てると、背後に立つ西ちゃんを睨み据える。


「だいたい、親の承諾を得ずにバイトをすれば、店に迷惑をかけることすら分かっていないのが情けない」


 柴崎泰広はその言葉に頷いた。


「それは仰るとおりですね。未成年は法定代理人の同意なしに労働契約を結ぶことはできませんから。同意を得ていなければ、法定代理人に契約を解除されても文句は言えない」


 おじさまは少しだけ目を見開くと、目の前に立つメガネ男をマジマジと見つめ直した。

 

「西崎さんは、しっかりご家族と話し合う必要があるのは確かです。きちんとご家族の承諾を得た上で、バイトは再開するべきだと思います」


「話し合った結論が先に決まっているのがよく分からないが」 


 おじさまは底光りする目で柴崎泰広を見据えながら、声のトーンを落として腕を組む。

 柴崎泰広はその威圧感から逃れるように視線を落としつつも、言葉を続けた。


「お父様はさきほど、ご丁寧に僕にお礼がしたいと仰ってくださいましたね。僕はお礼はいらないですし、迷惑だともなんとも思っていないんですが、いちおう一週間以上寝る場所を提供して、息子さんに最低限の生活環境を保障してきた関係上、今回の件に関して全くの部外者というわけでもないと思うんです。なので、あつかましいお願いで恐縮ですが、僕の意見も少し聞いていただけたら、なんて思ってるんです」


「意見?」


「はい」


 柴崎泰広は頷くと、少しだけ目線を上げた。


「西崎さんは以前、僕のことを羨ましいって言っていたんです。西崎さんの方が遙かに羨ましい生活をしているはずなんで、僕はびっくりしたんですけど……自分の将来を親に勝手に規定されることなく、自由に選択できることが羨ましいと、そう言っていました」

 

 おじさまはチラリと背後に立つ西ちゃんに目線を走らせた。

 西ちゃんは固い表情で、柴崎泰広をじっと見つめている。


「僕は、親の期待がどうという以前の壊れた家庭しか知らないので、そんな世界もあるんだとすごく新鮮でした。親御さんが最善と信じて提示する安心安全な生き方は、西崎さんにとっては単なる「親のエゴ」であって、傲慢ごうまんな期待の押し付けとしか感じられない。一方で、西崎さんが思い描いた自分の思いに正直な最善の人生は、親御さんにとっては家庭の経済力を無意識の後ろ盾にした青臭くて無思慮な「子どものエゴ」としか感じられない。お互いがお互いのエゴをさらけ出して、本音で語って、本気でぶつかり合って……ちょっといい表現が思いうかばなくて、気を悪くされたら申し訳ないんですが、なんというか、お互いがお互いに甘えてあっているみたいな感じに、僕みたいな人間には見えました」


 ムッとしたのだろう、おじさまの目に険が立った。

 ここまで歯に衣着せずものを言うとは思っていなかったから、あたしもドキッとしてしまった。

 にもかかわらず、ハラハラしながら見上げた柴崎泰広は、なぜだか穏やかな表情で、どこか遠くに目を向けていた。


「本当に羨ましいです。お互いに甘えて、甘えられて、時にはぶつかり合うことがあっても、最終的にはわかり合って、支え合いながら生きていけるのって……深い信頼関係があればこそなんですよね。そうでないと、甘えてほしいって思っても相手に遠慮されてしまったり、逆に自分の方が遠慮しちゃったり……なかなか難しいですから」


 やけに実感の込もったそのつぶやきに思わず目線を上げると、柴崎泰広は相変わらずどこか遠くを見つめていた。


「西崎さんのご家庭は、お互いを遠慮なくさらけ出せるだけの深い信頼関係をお持ちです。であればなおさら、最終的な結論がどうなるにせよ、僕としては、これだけしっかりと自分の将来を見据えて行動している西崎さんの意見にも、ある程度耳を傾けてほしいと思うんです。このまま親御さんの意向だけに無理やり従わせるのは、フェアなやり方じゃありません。せっかくの信頼関係にヒビが入る恐れもあります。もちろん、親御さんの説得で西崎さんの意志が揺らぐようなら話は別ですが、頭ごなしにムリだと決めつけて道を閉ざすのではなく、まずは西崎さんの将来設計に耳を傾けて、納得できないところや甘いところはとことん突っ込んで、歩み寄れる所は歩み寄りながら、最終的な結論を決めてほしいんです」


 柴崎泰広は言葉を切ると、おじさまの目を真っ直ぐに見た。

 おじさまは瞬ぎもせずその視線を受け止めている。

 と、店の中から誰か出てきたのだろうか、背後で自動扉の作動音が低く響いた。

 振り向いた西ちゃんの目が、驚愕に大きく見開かれる。 


「私も、その子と同意見です」


 そこに立っていたのは、背の高いコック帽を頭にのせ、白衣に身を包んだかっぷくのいい中年男性だった。福々しい顔いっぱいに笑顔を浮かべながらおじさまの前に立つと、帽子を取って深々と頭を下げる。

 柴崎泰広は慌てて邪魔にならない位置に一歩引き下がった。


「申し遅れました。私、パティスリー・サクレクールのシェフパティシエ、坂田と申します」


 おじさまも居住まいを正すと、シェフに倣って深々と頭を下げた。

 

「西崎宗次郎と申します。このたびは、息子がたいへんなご迷惑をおかけいたしまして」


「いえいえ、迷惑だなんてそんな。彼は本当によくやってくれていますよ。ただまあ、親御さんの了承を得ずにバイトをしていたというのは、今初めて知ったことだったんですが」


 その言葉に、西ちゃんは慌てて腰を九十度に折り曲げた。


「す……すみませんでした」


「まあ仕方がないですね。しっかり確認しない私も悪かった」


 シェフは穏やかにそう言うと、目線をおじさまに戻した。


「お話の方はすみません、店の中から聞かせていただいてました。立ち聞きのようになってしまって申し訳ありませんでしたが、お許しください」


「ええ、それはもちろん……」


「お父さんのお話どおり、彼はいったん解雇という形をとらせていただきます。その子の話によると、法律上そういう決まりになっているらしいので」


「ありがとうございます」


 おじさまがホッとしたような表情を浮かべて頭を下げると、坂田シェフは小さく首を振った。


「当然です。きちんと話し合いをして、晴れて親御さんの承諾がとれてからの方がこちらとしても都合がいい」


 その言葉におじさまのりりしい眉がヒクリと震えたが、坂田シェフは涼しい顔で言葉を継いだ。


「宗一くんは、お菓子作りにかける情熱も才能も十二分にある。僕としても失いたくない人材ですから」


 思ってもみない言葉だったのだろう、西ちゃんの目が見る見るうちに大きく見開かれた。

 そんな西ちゃんの反応を横目で見つつ、坂田シェフはニコニコしながら言葉を継ぐ。


「僕は十八の時、単身フランスに渡りましてね。あの時は親にもかなりムリを言いました。今、あの時の親に近い年齢になってみて、よく許してくれたなあと本当に感謝しています。まあ、僕の場合お菓子作りくらいしか能はなかったし、親も諦めやすかったんでしょうけどね。宗一くんみたいに、才能があれこれあるとかえって迷いますが、そんな時は本人の意向に任せるのが一番かな、なんて僕も思いますよ。その子の二番煎じみたいになりますけど、一応僕も迷惑をかけられたって言えばかけられたので、多少は口出しする権利があるのかな、なんて思って言わせていただいていますが」


 そう言うと首を巡らせ、背後に立つ西ちゃんに温かなまなざしを向けた。


「宗一くん、親御さんに自分の思いをしっかり伝えて、きちんと許してもらった上でもう一度ウチにきなさい。いいね」


「は……はい!」


 西ちゃんは感激しきった様子で居住まいを正すと、勢いよく頭を下げた。

 坂田シェフは軟らかい表情で頷くと、対照的に硬い表情で立ち尽くすおじさまに目を向ける。


「どこで話し合われます? もしよろしければ、ウチの店でケーキでもお食べになりながら」


「いや、甘いモノは苦手です。自宅に戻って話をつけます」


「そうですか。それは残念です。じゃあ宗一くん、今日はここまででいいから着替えておいで」


 おじさまは大きく頭を振った。


「とんでもない。仕事はきちんとやり遂げるべきです。私はこれで失礼しますが、ご迷惑でなければ、今日の勤務が終わるまでは使ってやってください」


「そう言っていただけるとありがたいです。人手はいくらあっても足りないので」


 坂田シェフはにこやかにそう言うと、柴崎泰広に目を向けた。


「キミは宗一くんのお友だち?」


 柴崎泰広は「友だち」という言葉の響きに一瞬臆したようだったけれど、ややあって、おずおずと首を縦に振った。


「は……はい」


「そう。よかったらうちのケーキ食べていかないかい? せっかく来たんだから、ごちそうするよ。そっちのかわいらしい彼女も一緒に」


 その言葉に、夏波の頬がみるみるうちに赤く染まった。

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