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8.ちゃんと説明して

「全財産とハンドタオルと健康保険証と生徒手帳と印鑑……よし。これでいいかな」


【うわあああっ】


 古ぼけて白っぽくなったウエストポーチのファスナーを閉めて腰に巻き付けたとたん、クマるんの悲鳴めいた意識が頭に響き渡った。


【ちょちょちょちょっと! もう少しゆっくりつけてくださいよ!】


「あー、ごめんごめん」


 謝りつつ、腰のウエストポーチに目を向ける。

 頭にストラップをつけたクマるんが端っこにぶら下がっているおかげで、無味乾燥でかわいげのないウエストポーチが少しだけかわいらしく見える。よしよし。

 あたし的には美観と実利を兼ね備えたなかなかにいいアイデアだと思うのだけど、クマるんはそうでもないらしい。カバンの動きに合わせてゆらゆら左右に揺れながら、じいっとあたしを睨んでいる。気がする。


「まあ、しょうがないよ。編みぐるみがステステ歩いてたら気味悪いし。ちょうどよさげなストラップが落ちててよかったねってことで」


【よくないです。なんで僕まで売りに行かなきゃならないんですか】


「だって、道分かんないんだもん」


 不満げなクマるんに構わず、紙袋にぎっしり詰まったCDを下げ、限界までおもちゃの詰まった巨大なリュックを背負い、やはりおもちゃのぎっしり詰まった段ボール箱を両手で抱えて部屋を出る。全部持てるかがかなり不安だったけど、全く問題なく歩けているのが意外だった。生前のあたしの体だったら、リュックを背負った時点で音を上げてるレベルの大荷物なのに。こんな貧弱そうな体でも、やはり男と女では基礎的な膂力に大きな違いがあるってことなんだろうか。

 なんとなく悔しいような思いを抱きつつ、薄暗い台所を抜け、玄関に出て、たたきに脱ぎ捨てられている穴の開いたスニーカーを突っかけ、ドアノブに手をかけたところで、クマるんの震えているような意識が届いた。


【ほ、……本当に、外に、出るんですか】


「出るよ。決まってんじゃん」


 全く、何をそんなに怯えてるんだか。

 CDとおもちゃを売りに行くから駅まで道案内してほしい頼んだら、すさまじい勢いで拒否られて驚いた。売るのを嫌がっているというより、外に出ること自体を嫌がっている感じだった。というか、怯えているというか。

 不登校のひきこもりとか言ってたっけ。

 どういういきさつで不登校になったのかは知らないけれど、何となく、彼は自分以外の人間を極度に恐れているような気がする。ただ、そのわりに三途の川では、亡くなった人たち相手に言いたい放題言ってたような気がするのだけれど。

 微妙に不可解な思いを抱きつつ、ドアノブを回して古くさい玄関扉を開けたとたん、爽やかな風とあふれんばかりの日差しに包み込まれて、あまりのまぶしさに思わず目をつむった。


「うっわ……なにこれ」


 頭上を覆い尽くす、雲ひとつない抜けるような青空。高原さながらのからっとした初夏の空気が、頬をするりと撫でていく。


 そうか。

 世間は五月晴れなんだ。


【快晴ですね】


 久々に触れるまぶしい太陽の光に、なにか感じるところがあったのか、クマるんもぽつりと送信をよこした。


「あたしが死んでも、世間の人々は五月晴れの黄金週間に突入、か……」


 降りそそぐ日差しの下を歩きながら、思わずため息まじりの呟きが漏れた。

 そう。

 世界にとっては、あたしの死なんざ取るに足りない小さな出来事に過ぎないのだ。

 毎日当たり前に食卓にのぼる魚たちの命と同じように。

 本体が生存するために、毎日少しずつ死んでは新しいものと入れ替わる体細胞たちのように。

 あたし一人が生きていようが死んでいようが、誰一人として気に留めることもなく、いつもどおりに一日が始まって終わる。

 ……いや、細胞も魚も、死ぬことで他の誰かを生かしている。

 あたしが死んだところで、誰を生かすこともできない。

 あたしの命の価値は、魚や細胞以下ってことなんだろうか?


【ええと、そこの信号を左です】


「え? あ、わかった」


 慌てて思考を現実に戻して、信号が点滅し始めた横断歩道を渡る。


 見も知らぬ男の体を使って見ている世界。

 すいぶんと現実離れした、現実。

 でも。

 それでもあたしは、生きている。



☆☆☆



「あー、疲れた」


 抱えている段ボールを持ち直すと、腕に下げている紙袋が乾いた音を立てて揺れた。

 どのくらい歩いたんだろう? クマるんには駅までの道案内をしてほしいと頼んだだけなのに、歩けど歩けど駅につくどころか電車の音すら聞こえない。住所から察するに、このあたりはあたしの居住エリアに近接しているはずで、ということは駅間がこんなに離れているのはあり得ないんだけれど。

  

「あんたんちって、駅からどんだけ離れてんの」


 息を弾ませつつ問いかけるも、クマるんからの応答はない。

 寝てんのか?


「ちょっと、起きなよ柴崎泰広!」


 フルネームで呼びかけると、歩みに合わせて左右に揺れながら、クマるんはようやく首を巡らせてあたしを見た。


【……起きてますって。いい加減、フルネームで呼ぶのやめてくれませんか】


「じゃあクマるん、一体いつになったら駅に着くの」


【……】


「さっきから同じ事を何回も聞いてんのに答えてくれてないじゃん。もしかして、道に迷ったとかふざけたこと言ったりする?」


【……迷ってません。着実に、下北山に向かってるはずです】


「じゃあなんで駅に着かないわけ?」 


 クマるんは再び黙り込んだ。

 歩を刻むリズムに合わせて揺れる紙袋のガサガサいう音と、あたしの荒い呼吸音だけが静かな住宅地に響いている。


【……駅には、向かっていません】


「は?」


 思わず歩みを止め、ウエストポーチにぶら下げられたクマるんをまじまじと見る。


「どういう意味?」


【言ったとおりです】


「はあ? 何考えてんの!?」


 ついつい大声を出してしまい、慌てて人通りがないか確かめつつ声を潜める。


「あんたが住んでるとこって鳴沢だよね。てことは、最寄り駅は山上か高徳寺だから、下北山から三駅は離れてるはず。この大荷物であんた、三駅分歩けっての? いくら金がないって言ったって、とりあえず二万以上手持ちがあるんだから、電車賃くらい大した出費じゃないよね」


【……いや、出費は、なるべく、抑えないと】


「そういうのを爪で拾ってでこぼすって言うの! しかもさ、あんたが歩くんならまだ分かるけど、歩くのはあたしなんだって! 滅茶苦茶重いんだからねこの荷物!」


【……その量売ろうって言ったのは、彩南さんですよ】


「あああああもう、何言ってんの? 売らなきゃ生活が成り立たないって話はしたはずだよね? 根本原因はあんたの母親にあり金持ってかれたせいだってのに、なにこの期に及んで訳の分かんないダダこねてんの!?」


 頭をかきむしっているあたしを、向こうから歩いてくるおばさんが訝しげに見ている。おっといけない。ついつい興奮して大声を出してしまった。

 おばさんが通り過ぎるまで、荷物を抱えてブロック塀に寄りかかり、かすれた口笛なんぞ吹きつつ視線を中空にさまよわせてごまかす。うう、我ながら怪しすぎる……。

 

「とにかく、全行程この荷物を抱えて歩くなんて納得できないから。その辺にいる人に道を聞いてでも何でもして、あたしは電車に乗るからね!」


 おばさんが通り過ぎてから声を潜めて決意表明していると、ちょうど向こうからもう一人、ネクタイ姿のおじさんが歩いてくるのが見えた。ナイスタイミング。おじさんの方に行こうと一歩足を踏み出す。


【ま、待ってください】


「は?」


 やけに切羽詰まった感じの送信だったので、思わず足を止めてしまった。


「何? あのおじさんに駅の場所を聞くんだから、邪魔しないでよね」


【で、電車は、やめてください】


「はあ? だからなんで電車がダメなの? そんなに金が心配なわけ? 帰りだったら、荷物がないから歩いたっていいよ。でも、この荷物持って下北山まで歩けっていうのは拷問に近いから」


 その時すでに、おじさんとの距離、約十メートル。厳つい顔に視線をあわせ、声をかけようと息を吸い込む。


【ぼ、僕、電車に乗れないんです!】


「え?」


 思わず目を丸くしてクマるんを見つめ直した時、あたしの脇をすり抜けて、ネクタイおじさんは速足で歩き去ってしまった。


「……ああ、行っちゃった。てか、何それ。電車に乗れないって」


【言葉どおりの、意味です】


「いやいやいや、意味わかんないから」


 クマるんの答えはない。

 鼻で小さくため息をつくと、ブロック塀の側に段ボールを置いてそこに腰掛け、腰から外したウエストポーチについているクマるんを両手でつかみ、正面からにらみ据える。


「お願い。ちゃんと説明して。納得すれば、歩いていってやらないこともないから」


 クマるんは射すくめられたかのようにしばらくは動かなかったが、やがて観念したようにかくんとうなだれた。


【……僕、電車、乗れないんです】


「それはさっき聞いた。あたしが聞きたいのは、その理由」


【電車に乗ると、かなりの確率で、めまいとか吐き気とかに襲われるんです。車内で吐いたり、最悪気を失ったりして、すごく迷惑かけちゃうんで……】


「えええ……何それ。いつから?」


【かなり小さい頃からです。だから僕、遠足は行ったことがないですし、遠出も車がなかったので、ほとんどしたことがないです】


「それって、病気か何かなの? 病院とかは行った?」


【あちこちの病院にかかりましたけど、結局、原因がわからなくて……仕方なく対処療法でなんとかしていたんですけど、そのうちに、病院に行くこと自体難しくなってきて、……】


 それきり、クマるんは黙り込んだ。

 なるほど、そんなんじゃ確かに、学校に行くのも仕事をするのも難しいよね。

 目の前で項垂れるクマるんのカエル帽を見ながら、気づかれないようにため息をついた。

 

「……あ、でも、乗るのはあたしだから大丈夫なんじゃ」


【僕はこの体でも、体に染みついた恐怖感が半端なくて……あ、でもそうか。じゃあ、僕を駅のコインロッカーか何かに入れて、彩南さんだけ電車で行って来てください。それなら大丈夫です。そうしましょう】


「いや、コインロッカーって……」


 あんな狭くて暗いところに数時間閉じこめられてる方がマシっだていうの?

 ……ヤバ。マジで重症だわ、こいつ。


「いいよ。わかったよ」


 クマるんはゆるゆると首を巡らせてあたしにビーズの目玉を向けた。


「しょうがない、歩いてってやるよ。その代わり、最短距離でナビりなよ。一メートルでも無駄歩きさせたら承知しないからね」


【い……いいんですか】


「いいも何も、仕方ないじゃん。無理なんだから」


 ウエストポーチを腰に巻き付けどっこいしょと立ち上がり、置いてあった荷物を再び抱え上げる。  


「まあ、あんたの体を使ってるせいか、思ったより疲れてないしね。こんなひ弱そうでも、生前のあたしよりは体力あるんだ。やっぱ男だからかな。ちょっとうらやましいかも」


 これはおせじとかではなく、本心。生前のあたしがこんな大量の荷物を持ったら、おそらく十分もたなかったと思う。あんまり体力ない方だったし。


「あとはまあ、天気もいいからね」


【……】


 腰で揺れながら、クマるんが何か小さく送信してきた。


「え、何?」


 答えはない。

 思わずクスっと笑ってしまった。

 そんなことくらいはっきり言えっての。全く、何を照れてんだか。

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