78.カワイイじゃん夏波
授業終了のチャイムが鳴るやいなや、西ちゃんは弁当を手に勢いよく席を立った。
柴崎泰広の前を通り過ぎざま、片手を顔の前にかざして小さく頭を下げる。
「そんじゃ柴崎、俺、今日は食物部の連中んとこ行くからさ。アヤカにゴメンって言っといて☆」
「あ、いいですよ。話は聞いてたし、どうせアヤカさんと交代もしないんで。行ってらっしゃい」
何気なく返されたその言葉に、教室を出て行きかけた西ちゃんの足がピタリと止まった。
ユルユルと顔だけ振り返り、体は戸口の方に向けたまま早足でバックして、柴崎泰広の机の前でピタリと止まる。
「……っとまて。今なんて言った? アヤカと交代しない?」
「交代しないです」
カバンから弁当を取り出しつつ柴崎泰広が答えると、西ちゃんは両眼を真円に見開いて、いきなり机に勢いよく両手をついた。反動で、机の上に置かれていたケータイと、あたしの体も小さく跳ね上がる。
突然の接近戦におののいて、椅子を鳴らしてあとじさった柴崎泰広を、その目を不必要にキラキラさせながら熱く見つめる。
「ひょっとして柴崎、今日は俺がいないから、アヤカちゃんガックリきちゃって交代しないとか拗ねてんの?」
「……は?」
メガネを半分ずり落としてのけぞった姿勢のまま、柴崎泰広は口の端を引きつらせた。
西ちゃんはそんな反応に構う様子もなく、顔周辺に花やらハートやらを撒き散らしながらクネクネとその身をよじる。
「やだなあもうアヤカちゃんてば、俺がいないくらいでそんな落ち込まれても困っちゃうじゃん。柴崎ぃ、アヤカちゃんに言っといて。この埋め合わせは必ずするから、そんなに落ち込まないでってw」
ヲイヲイ。
「アヤカさんはそんなことはアリの鼻くそほども気にしてませんから安心していいですよ」
「へ?」
メガネのズレを直しつつ冷たく言い放たれた言葉に、西ちゃんの動きが止まった。
カバンから取りだした弁当をケータイの脇に置き、柴崎泰広は冷淡に言葉を継ぐ。
「ただ単に、僕が授業を百パーセント受け持たなきゃならなくなったんでそうするだけの話です」
「授業を百パーセント? 何で?」
柴崎泰広は軽く眉根を寄せると、西ちゃんをチラリと見た。
「……僕に進学しろって」
西ちゃんは完全に動きを止めてあんぐりと口を開けた。
「……マジ? え? いつの間にそんな話になった訳? どうして?」
「ついさっき、休憩の時間です。いきなり奨学金の申請とかも始められちゃって、僕も正直、何が何だかよく分からないというか……」
柴崎泰広が言いかけた時、背面黒板の前で狛犬さんたちと話していた夏波が自分の席に戻ってきた。
「あれ、西崎まだこんなとこにいたの? 早く行かないと食物部の会合始まっちゃうよ。幸音たちに事情話してきたから、あたしがアヤカと一緒に弁当食べられるし、大丈夫だよ」
「……いや、なんか柴崎が、もう昼時にアヤカと交代しねえって言うから」
西ちゃんが呟くように言葉を返すと、夏波も目をまるくした。
「ええ? うっそ……昼休憩で交代しないと、アヤカが学校にいられる時間がなくなっちゃうじゃん。どういう風の吹き回し?」
「僕も訳が分かんないんです。さっきいきなりそういう話になって」
「もう一人の自分でしょ。よく考えなさいよ」
「そんなことを言われても……」
柴崎泰広が夏波の攻勢にたじたじになっていると、黙り込んでいた西ちゃんがふいに口を開いた。
「取りあえず、アヤカが決めたことなんだよな、今回のことは」
「え? ……ええ、百パーセントアヤカさんの考えです。事前になんの相談もなかった」
「そっか……」
口元に人差し指の背を当ててしばらくじっと考え込んでから、突然はっとしたように教室正面に掲げられている時計を振り仰いだ。
「やべ! 会合遅れた」
それから、目線を困惑気味の柴崎泰広に向ける。
「ま、とりあえず、あんま心配すんなって。俺も今度、アヤカに直接話を聞いてみるから。じゃあ夏波、柴崎ヨロシクな」
「あ、うん。じゃあ」
戸惑いがちに頷く夏波に手を挙げると、西ちゃんはあっという間に教室から走り出て廊下に消えた。
二人してぼうぜんと西ちゃんの消えた前扉方面を見つめていたけれど、ややあって、夏波がポツリと口を開いた。
「どこで食べる?」
「え? ……あ、どこでもいいですよ。ここでも屋上でも」
「ここか、屋上……」
心もち不満げに呟くと、教室をグルリと見回す。
四つほどのグループがほどよい距離を保ちながら和やかに昼食タイムを楽しんでいる。
「屋上も、最近人口密度が高いんだよね……どこか、もっと静かなところってないのかな」
「静かなところ……ですか?」
柴崎泰広は繰り返すと、首を曲げ曲げ考え込む。全く、あんなに頭の回転が早いクセに、なんでこういう時だけは機転が利かないんだか。
【体育館脇とかビオトープとか、適当に歩いて捜せばいいじゃん。早くしないと、休憩時間なくなっちゃうよ】
いい加減待ちきれなくなって送信すると、柴崎泰広は助かったとでも言いたげに表情を輝かせた。
「佐藤さん、そしたら人のいないとこ適当に歩いて捜しましょ。休憩時間なくなっちゃうし」
「あ、うん……そうだね」
一瞬の間の後、普段からは考えられないような歯切れの悪い返事をすると、夏波はチラリと目線を上げて柴崎泰広を見た。
その頬がほんのり薄桃色に染まっていることに、柴崎泰広はまるっきり気づいていないらしい。自分の提案が了承されたのが嬉しいのか、ニコニコしながら「ありがと、アヤカさん」なんてあたしにささやきかけてくる。
全く、鈍いんだからもう。
☆☆☆
あたしの予想どおり、体育館脇は風通しもいいし人気もなかった。施設脇に設置されている石段に腰をかければ、そよ風に優しく揺れる桜の若葉が目にも鮮やかだ。
石段に腰掛けた柴崎泰広は、お握りを食べながら無邪気に目を細めた。
「ここ、けっこういいですね、気持ちいいし、人気もないし。今度、西崎さんも連れてきましょ」
「……そうだね」
少し離れた位置に腰掛けている夏波は、サンドイッチをちまちま食みながら上目遣いに柴崎泰広を見ている。普段のツンツンした態度からは想像もできないような、多感で繊細な表情を浮かべながら。
女であるあたしには、その表情の意味するところが手に取るように分かる。
ぷぷ。カワイイじゃん夏波。何となく予想はしてたけど、まさかこれほどはっきりした反応を示すとは思わなかった。
しかし、それに比べて柴崎泰広の緊張感のないことと言ったら。
西ちゃん特製の唐揚げを幸せそうに口に運びながら、初夏の風に目を細め、リラックスしきった表情を浮かべている。夏波の表情の変化になんか、毛ほども気づいていないようだ。
ま、原因は分かってる。
あたしの存在。
夏波は、あたしという別人格が柴崎泰広の中に入っていることは認識している。認識してはいるけど、それはあくまで「柴崎泰広の別人格」としての位置づけだ。要するに、あたしも柴崎泰広の一部であり、他者という捉え方はされていない。だから夏波にとって今のこの状況は「柴崎泰広と二人きり」ということと同義なのだ。
翻って柴崎泰広にとって、あたしはまるっきり独立した別人格。たとえクマるんの姿でも、彼にとってこの状況は「自分と佐藤さんと彩南さん」の三人で弁当を食べている、という捉えになってしまうのだ。緊張感もクソもない上に、西ちゃんがいないことで別の心配をせずにすむせいか、かえってのびのびしているようにさえ見える。
これじゃいかんのだよ、せっかく二人きりにしてやっても。
今日のところはこれで仕方がないとしても、いつか本当に二人きりになれる状況を作ってやらないと、これ以上進展のしようがない。
あたしだって、できればそんな場面には立ち会いたくないしね。
柴崎泰広は沈黙が苦にならないタイプらしく、風にそよぐ若葉を見上げながら黙々と弁当を口に運んでいる。一方、夏波はそうでもなかったらしく、柴崎泰広の方から話題を振る気配がないのを見て取ると、怖ず怖ずと口を開いた。
「それにしても、アヤカのやつ、なんでいきなりあんたの進学に乗り気になったのかな」
げ。あたしの話題かよ。
柴崎泰広も興味のある話題だったらしく、箸を止めて首をかしげた。
「僕もよく分かんないんですよね。何の前振りもなくいきなり職員室に突進して奨学金の申請始めて、大学進学を希望してるとか言いだして」
「それまでは進学するつもりはなかった訳でしょ。高卒でどうするつもりだったの?」
「え、……僕的には、今バイトしてる店の仕事を生活の中心に持ってくるつもりだったんです。アヤカさんもあの仕事好きだし、絶対に喜ぶと思ったから。でもアヤカさん、それだと将来的に不安だし、大学に進学してもある程度は実現可能だし、その代わり、土日のバイトを自分に全部やらせてくれればいいからって……」
柴崎泰広は語尾を飲み込むと、目線を落とした。
夏波はそんな柴崎泰広を見やってクスッと笑う。
「あたしは何となく、アヤカの気持ち分かる気がするけど」
「え?」
驚いたように自分を見た柴崎泰広の視線を、柔らかなまなざしで受け止める。
「だって、あんたあんなに頭いいんだもん。生かしてやりたくなるのは普通だよ?」
「で……でも、ファッション関係の仕事に就くのはアヤカさんの夢だったんです。それなのに」
目線を落とすと、つらそうに言葉を継ぐ。
「……そりゃ、僕なんかよりアヤカさんの方が現実を厳しく見極められるし、今回のことだって、きっと長い目で見た時にどっちが得なのかを冷静に判断した結果なんでしょうけど……」
「そうだよ。進学したってバイトは継続できるわけだし、だったらそんなに気にすることはないって。アヤカは合理的だから、単純にそっちの方が得だって踏んだだけだと思うよ」
「だけど、そんなことをして、もし……」
「もし?」
柴崎泰広は言いかけた言葉を喉の奥に押し込むと、じっと膝の上の弁当を見つめた。
夏波は苦笑すると、再び弁当を食べ始めながら明るい調子で言葉を継ぐ。
「取りあえずさ、土日はアヤカもフルで大好きな仕事に打ち込める訳だし、アヤカがそれでいいって思ったんだから、気にしなくても大丈夫だよ」
「でも、割合的に偏りすぎてる気がして……だいたい、今度の土曜日の仕事も臨時休業だし」
「え、そうなの?」
夏波は口に運びかけたポテトを止めると、目をまるくした。
柴崎泰広は目線を落として小さく頷く。
「笹本さん……店のオーナーが、昨日から洋服の買い付けでフランスに行っちゃってて、帰国の予定が土曜日なんです。日曜しかバイトができないと、分担がますます偏っていやなのに……」
何か考えるように手元のポテトを弄んでいた夏波が、ふいに口を開いた。
「そんなことないんじゃん?」
訝しげに顔を上げた柴崎泰広に、にっこり笑いかける。
「仕事と勉強だけが人生じゃないでしょ、普通」
あたしは夏波の意図していることが何となく分かったけれど、柴崎泰広には見当もつかないらしい。困惑したように眉根を寄せ、首を右にかしげて機能停止している。
夏波はクスッと笑うと、察しの悪いコイツにも分かりやすいように、単刀直入に提案した。
「土曜日、遊ぼう」
「え?」
「遊びだって、人生の大事な要素だよ? 今週の土曜日はちょうどなんの予定もなかったし、あたし、一度アヤカと遊びたいと思ってたんだ。いいでしょ?」
柴崎泰広はメガネの奥にある切れ長の目を大きく見開くと、みるみるうちに表情を輝かせた。
「……そっか、アヤカさん、確かそんなことを言ってましたもんね。佐藤さんと出かけたいって……そうか」
嬉しそうに何度も頷いてから、ケツポケのあたしにささやきかける。
「彩南さん、いいですよね。土曜日は佐藤さんと遊ぶってことで」
【うん。いいよ別に】
了承してやると、柴崎泰広は感謝のこもった目で夏波を見つめながら、満面の笑顔を浮かべた。
「アヤカさんもOKですって。でも確かにそうですよね。僕、今まで誰かと遊んだりした経験が全くないもんで、そういう発想が根本的になかった。いい案を出してくれてありがとう、佐藤さん」
「いえいえ」
夏波は小さく頭を振ってから、微妙に意味深な視線を柴崎泰広に送る。
そんな夏波の反応には全く気づく様子もなく、ウキウキとお握りにかぶりついている柴崎泰広を眺めながら、あたしも何だかワクワクしてきていた。期せずして、二人の距離を縮めるのに最適な計画がたったのだ。このチャンスをうまく生かして、できるだけ早く最良の結果が得られるようにするにはどうしたらいいか。今はまだ感情のベクトルが一方通行の二人を眺めながら、あたしの頭はさっそく高速でシミュレーションを開始していた。
無理やりふっきって心の奥底に埋めたものが、再びうずき出さないように気をつけながら。