77.……当然じゃん
【彩南さん、ホントにどうしたんですか】
休み時間を満喫する生徒たちの間を猛スピードですり抜けるあたしに、柴崎泰広がこの日何度目かの質問を投げかけてきた。
「どうって何が」
不機嫌満開に返答してやる。
クマるんは一瞬怯みかけるも、気を取り直したように送信を続行した。
【え? ……いや、口数も少ないし、なんか怒ってるみたいな感じだし……おとといだって帰り道でいきなり泣き出したりして、何だかすごく不安定というか】
ブツブツ呟くような送信を続けるクマるんを一顧だにせず、進行方向に目を向けたままボソッと返す。
「生理中なの」
【せっ……】
クマるんはいったん呑み込んだ送信を、今度は爆発的な勢いで叩きつけてきた。
【何言ってんですか僕の体に入ってるのにせ、せ、生……なんてある訳ないじゃないですかヘンなごまかし方やめてくださいっ】
ウザいなあもう。
「精神的な生理。女にはあんの、そういうのが」
【あ……あるんですかそんなもんが】
ないけどさそんなもん。
ことの真偽を確かめようもないクマるんは、渋々矛を収めて黙り込んだ。
これ幸いと勢いよく廊下を曲がり、階段を二段とばしで駆け下りる。
前方に「職員室」の表示が見えてきた。
【職員室に……何の用なんですか】
「奨学金申請」
【えっ?】
素っ頓狂な送信の後、何か続けようとしたクマるんに構わず職員室の扉をノックして入室すると、通りかかったハゲ頭の男性教諭に早口で質問する。
「失礼します。奨学金申請担当の先生はどちらですか」
「ああ、それなら笠原先生だよ」
……笠原?
聞き覚えのある名前に嫌な予感を覚えつつ、恐る恐る首を巡らせてハゲ頭の教師が指さす方を見る。
案の定、そこにはわがクラスの金縁な担任が、何やら机に向かって書き物をしている姿があった。
……うっわ、マジ?
一瞬引きかけたものの、ここで諦めるわけにもいかない。物言いたげなクマるんに発言の隙を与えないよう、歩を緩めずに机の脇に歩み寄る。
「笠原先生、お仕事中すみません」
不機嫌そうに顔を上げた担任教師は、あたしの顔を見るなり金縁メガネの縁をキラリと光らせて眉根をきつく引き寄せた。
「……あら、柴崎さん。いったい何のご用かしら?」
「奨学金申請の件で、ご相談がありまして」
「奨学金?」
細い眉を引き上げてマジマジとあたしを見つめる金縁メガネに、深々と頷いてみせる。
「僕、大学に進学したいんです」
腰のあたりから、息をのむような気配が伝わってくる。まあ、本当に息をのんでいる訳じゃなくて、例によってそういう反応の記憶が伝達されているだけだけど。
笠原教諭もクマるん同様、口を半開きにしてあっけにとられている。
取りあえずクマるんの反応は無視して、畳みかけるように言葉を継いだ。
「実は先日、ウジ……いえ、藤村先生に、進学を前向きに考えるよう勧めていただいたんです。それからいろいろ考えてみて、やはり進学したいというのが僕の自分の正直な気持ちだということに気がつきまして」
笠原教諭は金縁メガネのブリッジを意味もなく押さえると、いくぶんどもり気味の問いを発した。
「ほ……本気なの? お母様は、その件について賛成してくださったの?」
待ってました。ここぞとばかりに目線を落とし、いくぶん声を詰まらせながら言葉を継ぐ。
「……いえ、母は、進学に反対してるんです。本気でそんなふざけたことを言っているのかって、昨夜もケンカになりまして……」
フルスロットルで放出されるけなげな王子パワーを全身に浴び、さすがの笠原教諭も何らか感じるものがあったらしい。気の毒そうに眉根を寄せ、近くにあった丸椅子を引き寄せた。
「ま、まあ……とにかく、こんなところで立ち話も何だから、お座りなさい」
「ありがとうございます」
涙を堪えているようなフリをしながらしおらしく頭なんか下げてみたり。
「母は絶対に保証人にはならないと言い張っています。保証人がいなければ奨学金を受けることはできないんですよね。僕、どうしたらいいのか分からなくて……それで、先生にご相談させていただこうと思いまして」
うつむくあたしを数刻マジマジと見つめていた笠原教諭だったが、突然、骨張った両手であたしの肩をガシっと掴んだ。
「心配ないわよ、柴崎さん」
「え……」
怖ず怖ずと見上げると、金縁メガネの奥にある笠原教諭のつぶらな瞳が、らんらんと義憤に燃えて輝いている。
「私に任せてちょうだい」
言うなり丸椅子を回転させて自分の机に向き直ると、引き出しから一冊の本を取り出し凄まじい勢いでページを繰り始める。
「連帯保証人がいない場合、……確かこのへんに載っていたはずだけど」
ブツブツ言いながら本に覆い被さる笠原教諭の丸まった背中を眺めていると、柴崎泰広の送信がこめかみに突き刺さった。
【彩南さん、どういうつもりですか!】
「どういうつもりって……何が」
本に夢中の笠原教諭は気づきそうになかったけれど、念のためささやき声で聞き返す。
【なんで勝手に僕が大学に行くことになってるんですか? 僕は行くつもりはないって言ったはずですよ! 今すぐ取り消してください!】
「なに怒ってんの? 別に奨学金もらうのは構わないじゃん。生活苦しいし」
【大学に行くって言ってたじゃないですかさっき】
「うるさいなあもう、黙って見ててよ」
ケツポケのクマるんをギロリとにらんだ途端、笠原教諭が頭のてっぺんから頓狂な声を出した。
「あああったコレコレ! ちょっと見てちょうだい」
不満げなクマるんはそのままに、差し出されたページをのぞき込む。
そこには、「保険制度について」という項目の下に、奨学金制度に加入する場合の保証人の扱いが表示されていた。
「ほら見て、この『期間保証制度』に加入すれば、保証人がいなくても奨学金を受けられるとあるわ。ただし、月々二千円程度、保証金を奨学金から天引きされてしまうのだけれど……」
語尾をのみ込んで不安そうに目線を上げた笠原教諭に、満面の笑顔で頷いてみせる。
「構いません、月々二千円くらい何とかなりますから。先生、ありがとうございます」
「いいのよ」
笠原教諭は口の端を震わせるとメガネを外し、ハンカチで目頭を押さえた。
「……よかったわ。あなたにも明るい未来が見えてきたみたいで……実を言うとね、ちょっと後悔してたの。あの時、あなたに対してやたら現実的で夢のない意見ばっかり押しつけちゃったなあって……先生自身、夢を見られない人生を送ってきちゃったから、きっと悔しかったのよね。あとで考えて、本当に悪かったなあって反省したわ」
ひとしきり目元を拭うと、かけ直した金縁メガネの縁をキラリと光らせながら顔を上げる。
「そのお詫びと言っちゃなんだけど、奨学金の件は私に任せて。必ず申請が通るように、申請書の書き方も書類の作成もバッチリフォローするから。大丈夫、あなたは優秀だし家庭の状況も複雑だから、第一種奨学金で申請は通るはずよ。大船に乗った気でいてちょうだい」
笠原教諭の燃えさかる気迫に思わずあとじさりそうになりつつも、必死で頷いて頭を下げる。
「よ、……よろしくお願いします笠原先生。そ、それでですね、ちょっとうかがいたいんですが、ウ……いえ、藤村先生が、今からでも理系クラスに変更が可能なようなことを仰っていたのですが」
笠原教諭はその言葉に、表情を曇らせた。
「私も藤村先生からその話は聞いたわ。でもね柴崎さん、理系から文系への変更は比較的容易だけれど、文系から理系への変更は非常に難しいの。正直、今からクラスの変更は不可能だわ」
「そうなんですか……」
なんだ。ウジ村先生てば、希望的観測でモノをいいやがったな。
思わずうなだれるあたしの肩を、笠原教諭の骨張った手が再びガッシリと掴んだ。
「悲観しないで柴崎さん、学部学科によっては文系クラスでも受験は可能よ。どういう学部を受験するつもりなの」
「え……いえ、まだよく調べてはいないんですが、建築が学べる大学に進みたいと思っています」
勢いに押されつつも答えを返すと、金縁メガネの奥のつぶらな瞳がギラッと輝いた。
「建築なら理系クラスでなくても、文系のままでも受験可能な学校は多いわ。例えば東京迎大なら、一次は共通テストで、二次は実技だけよ。あなたの場合、共通テストの中で心配なのは英語だけれど、二次試験の空間構成や総合表現と併せて、専門の受験対策塾に通えば今からでも十分に対応は可能と思うわ」
「え……あ、いや、僕お金ないんで、塾は、ちょっと……」
「あ、……そうね」
笠原教諭は言葉に詰まると、数刻中空に目線をさまよわせていたが、やがて何を思いついたのか、深々と頷いた。
「……分かったわ。そのあたりも、私が何とかしてみましょう」
「え、何とかって……」
「心配しないで」
言いかけた言葉を断ち切ると、笠原教諭は目をキラキラ輝かせながら口の端を引き上げ、燃え上がるような笑みを浮かべた。
「必ず何とかしてあげるわ。この進路指導主任笠原沙也香の名にかけて!」
セ……センセ、沙也香ちゃんってお名前だったんですね。
すっかり勢いにのまれて礼もそこそこに職員室を出ると、薄暗い廊下に休み時間終了を告げるチャイムが響き渡った。
慌てて足を速めたあたしに、クマるんが腰で大きく左右に振れながら、不服そうな送信をよこしてくる。
【ちょっと彩南さん、勝手に話進めまくって、いったいどういうつもりなんですか】
「どういうつもりもこういうつもりもないけど? 聞いたとおりだよ」
【人の進路を勝手に変更しておいて、何言って……】
「あたしの進路でもあるわけでしょ?」
詰まるように途切れた送信の合間に、早口で言葉を挟み込む。
「このあたしが何の考えもなしにこんなことをしたと思ってんの? これはね、より安定した将来を手に入れるための先行投資なの、分かる? 笹本さんはあの店をあれ以上大きくしようなんて考えてない。この不況下、大資本の傘下でもないあのお店がいつまでもつかわからないでしょ。無資格の高卒が、ただ笹本さんの所に張りついていたって、もし笹本さんのお店がつぶれたら、それこそ路頭に迷うよね? そんな危ない橋を渡るよりは、あんたの持ってる能力にできる限りの先行投資をしておく方が、後々の実入りもいいしつぶしも効くことに気づいたの。ただそれだけの話」
しばらくはクマるんからのレスはなかったけれど、一階から二階に上がったあたりで遠慮がちな送信が届いた。
【大学を受験するとなると、授業をきちんと受けないとまずいから、彩南さんと交代できる時間がものすごく少なくなりますよ。授業時間以外の勉強も必要になってくるだろうし……彩南さんは、それでいいんですか】
「あたり前じゃん。よくなきゃこんなことしないって」
教室の手前にあるトイレの個室に入ると、ケータイを手に取りクマるんを目の前にかざす。
「あたしにだって、楽しみがない訳じゃないしね」
怪訝そうに重い首をかたむけたクマるんに、唇の端で笑いかけてみせる。
「平日、あたしがあんたの体に入るのは、最低ラインの三時間ギリギリでいい。そのかわり、土日のバイトはあたしに全部やらせて。トイレ交代で昼休憩の時に三時間だけ交代するけど、あとは全部あたしが受け持つから。あんたは勉強担当、あたしはバイト担当ってことで、どう? そんなに悪くないでしょ」
【それにしたって、バランスが……】
「しつこいなあもう、大丈夫だって言ってるじゃん。適材適所で役割分担するだけなんだから。とにかくこれからは、平日の日中は全部あんたが受け持つってことで、よろしく。分かったら、さっさと交代して」
【よろしくって……】
「早くしてよもう授業始まってんだからさ」
クマるんは黙りこくって俯いていたが、やがてユルユルと重い首をもたげると、ポツリとこんな送信をよこしてきた。
【……僕が進学することで、彩南さんも幸せになれるってことなんですよね?】
一瞬の間。
黒いビーズの目玉が、あたしを見透かすように捉えて離さない。
「……当然じゃん。あたしはあたしの将来的な安定を考えた上で、この提案をしてるんだから」
あたしを見つめ続ける黒い目玉に、ちょっと笑いかけてみせる。
「それにさ、大きく分担が偏るのは今だけだよ。あんたが大学に行ったあとだって、笹本さんのところのバイトは続けるんだから。あんたはあんたの、あたしはあたしの得意分野を生かして楽しく生きるっていうあんたの計画は、あんたが大学に行きながらでも十分に実現可能だよ? それに、お店の改造だって、ちゃんと基礎から学んだ方がしっかりしたものを作れるんだから、笹本さんだって喜ぶと思うし」
それを聞いてようやく、クマるんの周囲を取り巻いていたピリピリした空気が和らいだ。
【……なるほど、そういうことなら】
「もー、あんたってば飲み込み悪くてマジめんどくさい。もう授業始まってから十分もたってるし。悪いけど、遅刻の言い訳はあんたがするんだかんね」
【わ……分かりましたよ】
差し出されたクマるんの腕を握りながら、人気のない男子トイレをグルリと見回す。もしかしたらこれでもう二度と、柴崎泰広の体で学校の風景を見ることはないかもしれないと思いつつ。
……それにしても、肉眼で見る最後の学校風景が、トイレってのもなんか笑えるけどね。