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76.だってあたしは、あんたに生きてほしいから

 意識を開くと、なつめ球の黄色い光に照らされて、すっかり見慣れた節穴だらけの天井が見えた。

 上体を起こして見上げた振り子時計の針は、夜中の三時を指している。


 眠れない。


 クマるんでいる時は基本的に編みぐるみなので体が疲れるということはないけれど、思考から動作から何もかもを意識のみで行っている関係上、精神的にはものすごく疲れる。なので、今までは眠れないということがなかった。

 頭の中では、先ほどのクマるん……柴崎泰広の言葉がさっきから無限ループを続けている。


『僕は彩南さんに、幸せになってほしい』


 重い首を巡らせて、隣で安らかな寝息をたてている柴崎泰広に目を向ける。

 知らないうちに寝返りをうっていたらしく、あたしの方を向いて寝ていたのでちょっとドキッとしてしまった。

 ぐっすり寝入っているその様子にほっとして、マジマジと寝顔を眺めてみる。

 閉じられている目元により一層際だつ長い睫毛、一筆書きされたような形のよい眉。通った鼻筋の下にある、物言いたげにほんの少しだけ開いた唇。男にしては艶のよい頬を縁取る、柔らかそうな茶色い髪。

 そのあまりにも安心しきってリラックスした様子に、鼻の穴を楕円の手で塞いでやりたい衝動に駆られてしまった。そういえば実際、そんなことをして起こしたこともあったけ。


 あの頃と比べると、コイツもずいぶん変わったなあとつくづく思う。


 生きる気力がなく何もかも人任せで、お守りの瓶底メガネにすがりつき、人とのつきあい方も分からず一般常識も知らず、ただただ周囲に怯えてそこから逃げ出すことばかり考えていたコイツが、身の回りの始末をし、曲がりなりにも自立をし、学校にも行き、他人ともそれなりにかかわりを持ち、その能力を周囲に評価されるまでになった。


『僕がここまでまともになれたのは、全部彩南さんのおかげだから』


 違うよ。

 違うよ柴崎泰広。

 全部あんた自身の力だよ。


 あんた自身が、やろうと思っていろいろなことに立ち向かわなければ、きっと事態はなにも変わらなかった。

 あたしはただ、そのきっかけを与えただけ。

 それどころか今、あたしはあんたの足を引っ張ってる。

  

『彩南さんだっていつも言ってたじゃないですか、現実をしっかり見据えて確実に成功する方策をとるのが、僕らみたいにギリギリの人間には一番なんだって』


 ダメだよ。

 ダメだよそんな言葉に引っ張られちゃ。

 あたしみたいに臆病になる必要なんてないんだよ。


『親もなければ金もない、精神的にもまだまだ不安を抱えた僕みたいな人間には、確かに高望みは似合わない』


 そんなことない。

 高望みなんかじゃない。

 金のことなら、心配ないように道をつけるよ。

 精神的にまだまだ不安定なら、あたしが絶対大丈夫なようにしてあげる。


 だから。 


 恐る恐る楕円の腕を伸ばして、滑らかな頬にそっと触れてみる。

 感覚器官のない毛糸の表面に、精いっぱいの意識を傾けて。

 

『しかもそれが、彩南さんを押しのけてまで通す結果になるなら、なおさら』


 どうして?

 どうしてあんたは、そんなに優しいの?

 いつからそんなに優しくなったの?

 最初の頃のあんたは、そんなんじゃなかったじゃない。

 自己中で、臆病で、思いやりなんか全然なくて、キツイことばっか言ってたじゃない。


 そのままでよかったのに。

 そのままのあんただったら、こんな思いもせずにすんだのに。

 さっさとあんたなんか見限って、三途の川に戻るだけだったのに。

 もしくはあんたの命をダラダラと食べ続けて、自分のやりたいことをやって楽しんだのに。


 毛糸の表面に張り巡らせた意識から直接伝わってくる頬のほのかな温かみに、あるはずもない心臓が血の一滴も残らぬほどきつく絞り上げられる。

  

 そうだね。きっとあたしは生き続けた。生きて、水谷彩南だった頃にはできなかったことをやろうとした。

 だって、生きるのがこんなに楽しいことだなんて、知らなかったから。

 本当のことを言えば、ずっとこのまま生きていきたいよ。


『笹本さんのところで働きながら、彩南さんが洋服全般のことを、僕が店の内装や外装のことを受け持つって感じ。それでゆくゆくは、笹本さんのお店の大改造ができたらな、なんて思ってるんです。ね、いい考えでしょ』


 ステキだね。

 本当にステキな考えだね。

 ものすごく惹かれるよ。

 そうやってずっと生きていけたら、どんなにかいいだろうって思うよ。

 何もかもかなぐり捨てて、あんたの優しさにすがりたくなるよ。

 そうしてできるだけ長く、あんたと一緒に生きていきたいよ。



 でもね、柴崎泰広。

 それはできないんだよ。



 頬に触れる楕円の腕が意志と関わりなく震えて、その感触に顔をしかめた柴崎泰広が、微かに小さな吐息を漏らす。

 慌てて楕円の腕を引いて、じっとその寝顔を見つめた。



 だって。


 だってあたしは、あんたに生きてほしいから。 

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