75.それでもあたしは
それでもあたしは、生きてきた。
『ええ、修学旅行代? ……悪いけど、勉強と関係ないんだろ。そのくらいのガマンはしてもらわんと。あんたが来てから、ウチだって相当ガマンにガマンを重ねて暮らしてんだから』
睥睨。
『そうなのよぉ、中学。まいっちゃうわよねぇ、制服にカバンに弁当箱、その他もろもろの初期投資が半端なくて。義務教育なら全部ただにしてくれりゃいいのに……え? 生活保護? 何でウチがあの子のためにそんな目に遭わなきゃならないの。大丈夫、親戚の新聞屋が雇ってくれるって言ってたから……えぇ? ははっ、あんたさ、新聞屋ならまだいいって。体売れって言われないだけさぁ』
嘲弄。
『おい水谷! また増岡さんのとこから苦情来てたぞ、配達が遅えって。あの家は要注意だって前にも言ったろ、配達が六時過ぎたら速攻苦情が来るんだから……えぇ、こけた? おまえなあ、新聞汚さなかっただろうなあ! ……ああそう、ならいいんだ。とにかく増岡さんのとこだけは絶対遅れたり配り忘れたりすんなよ! てかおまえ、顔が泥だらけだぞ。はははっ、おい見てみろよコイツの顔! パンダみてえになってっぞ』
嗤笑。
『えー、水谷彩南? やめときなよー、あの子って親が自殺して、今親戚の家に厄介になってるらしいじゃん。金とか全然持ってないから付き合いも悪いしさ。ウソウソ、かわいくないって全然。え、マジで? きゃはは、ヤバすぎウケる』
嘲謔。
『うっわ、マジかよこいつ、喉フェラうますぎね? 中学生とかいって実は経験豊富なヤリマンなんじゃねえの? まあ、確かに締まりは悪くなかったけど……って、ああほら、まだ外すんじゃねえよ。しっかり喉奥まで咥えろって……あーすっげ、これ最高……ああほら、こぼすんじゃねえよ。そうそう、全部飲んだか見せてみな……って、うっわ、全部飲んでるし。だよなあ、中学生でこれとか、マジでヤバいよな。変態すぎんだろコイツwww』
嘲罵。
それでも。
それでもあたしは生きてきた。
生きたいと思ってた。
……そう、思いこんでいた。
☆☆☆
「聞いてます? 彩南さんてば」
頭の上から降ってきたその言葉で、はっとわれに返った。
慌てて周囲を見回す。
ほとんどの店のシャッターが閉まったままの人通りの少ない商店街。目の前に展開しているのは、すっかり見慣れた朝の風景と、柴崎泰広のケツ。
【あ……ゴメン。何?】
「そろそろお店に着くんで、交代しますかって聞いてんです。全く、さっきから五回くらい声かけましたよもう」
柴崎泰広はため息まじりにそう言うとケツポケからあたしつきケータイを取り出し、ささげ持つようにして目の前にかざした。
そのままの姿勢で、数刻じっとあたしを見つめる。
「……なんか、ここんとこヘンですよね彩南さん。ぼんやりして話聞いてないし、交代も僕が言わないと全然しようとしないし」
責めるようなその物言いとは裏腹に、心なしか心配そうな色を浮かべた切れ長の瞳が、超至近距離でまばたき繰り返す。
【……別に何でもないって、しつこいなあもう】
慌てて目線をそらして突っ慳貪に送信してから、言い訳がましく付けしてみる。
【疲れてんの。全く、何だって笹本さん、いきなり九時に出勤してこいなんて言ったんだろ】
柴崎泰広も二,三度小さく頷いて同意を示した。
「……ですよね。理由聞こうとしたら、なんかちょうどお客さんが来たみたいでいきなり電話きられちゃうし、そのあともう一回かけ直してくるかと思ったら全然かかってこないし」
【かけてくる訳ないじゃん笹本さん渋いもん。電話代もったいないとか言うに決まってるし。でもまあ、取りあえず交代しよっか】
編みぐるみのクマを眼前にささげ持つ柴崎泰広に、前から歩いてきたリーマンオヤジがうろんな目線を投げかけてきた。それをやり過ごしてから意識を集中。
すっかりお馴染みのあの感覚に軽い目眩を覚えつつ、頭を振って目を開くと、メガネのガラス越しなのが少々鬱陶しいけれど、先ほどよりはるかに高い視点で朝の風景が展開する。息を吸い込むと、若葉の香りかぐわしい朝の風が、わずかな熱気と湿りを帯びているのを感じた。
見上げた空は、柴崎泰広と出会ってからずっと晴天続きだったのがウソのように、びっちりと重苦しい白一色で塗り込められている。
梅雨が近い。
☆☆☆
「おはよーございまーす……」
いまいちやる気に欠けるあいさつとともに重い扉を押し開いた瞬間、視界全てが眩しいほどの白い光に覆い尽くされ、思わず首をすくめて目を閉じた。
恐る恐る目を開くと、何やら見慣れない男女が数人、撮影機材のようなモノを抱えて店の中をうろつきまわっている様が映り込む。
【……何ですかこれ】
ケツポケのクマるんがあっけにとられたような送信をよこす。
「さあ……」
戸惑いつつ店の中を見回すと、普段は無愛想なその顔に緊張しきった笑顔を浮かべた笹本さんが、レジ奥の丸椅子に腰掛けているのが見えた。
「じゃあもう少しだけ、体を右に向けてもらえます?」
「こうですか」
前に立つカメラマンらしき男性が指示を出すと、笹本さんはいやに素直に頷いて言われた通りにポーズを取る。
「……撮影?」
顔面いっぱいに営業スマイルを張り付けた笹本さんにまばゆいフラッシュがたかれる様を、どう動いていいのかも分からずぼうぜんと眺めていると、ポーズを決める笹本さんの目線があたしをとらえて停止した。
「柴崎泰広、遅かったじゃないか」
「あ、あの笹本さん、これって……」
「あれ、言わなかったかい?」
言ってないよ。
笹本さんは今までになく機嫌のよい声でウキウキと言葉を継ぐ。
「取材だよ。『OUT RED』とかいう女性誌らしいんだけど、知ってるかい? その雑誌とブログの特集で、ウチを紹介したいんだって」
……雑誌の取材!?
思わず息が止まるかと思った。
「え……でも、いったいどうしてこの店が」
「おはようございます」
優艶な声音が鼓膜を軽やかに震わせた。
振り返ったあたしに、見覚えのあるサロペットに身を包んだ美しい女性が、たおやかなしぐさで頭を下げる。
「朝早くから申し訳ありません。私、女性ファッション誌『OUT RED』編集の山吹と申します。先日はいろいろとありがとうございました。実は次号の『大人に優しいおしゃれな店』特集で、こちらのお店をぜひ紹介したいと思いまして」
差し出された名刺を受け取りつつ高速で脳内検索をかける。ほどなく、店を荒らしまくったあの女の子と、母親である美しい女性の記憶がヒットした。
確かにこの女性は先日子連れで再来店した際、あのやんちゃな娘がたいそう静かに子どもスペースで時を過ごせたことにやたらと感動していた。あたしもあの子があそこまで静かに過ごせるとは思わなかったので、内心ほくそ笑んでいたのだけれど……まさかこの女性が、雑誌社の人だったとは。
背中を流れ落ちる汗の感触に肩を震わせていると、女性はニコニコしながら笹本さんに向き直った。
「笹本さん、こちらが柴崎さんですね。あの子どもスペースを発案したという」
え?
「ええそうです。アルバイトなんだけど、よくやってくれてるんであたしも助かってんです」
ついぞ耳にしたことのない笹本さんの誉め言葉に戸惑いつつ、恐る恐る首を巡らせると、山吹さんは淡いほお紅で彩られた滑らかな頬に、品のあるほほ笑みを浮かべた。
「そうしましたら柴崎さん、何枚か写真を撮らせていただいたあと、子どもスペースについて少しお話を伺ってもよろしいですか?」
「え、あ、……あの」
怖ず怖ずと笹本さんを見ると、これまたついぞ見たことのないような笑みをたるんだ頬に浮かべている。
「奥の倉庫にソファがあるから、あそこで話すといいよ。開店準備はあたしがやっとくから」
「それじゃ柴崎さん、まずは子どもスペースの前で一枚よろしいですか?」
「は、はい。分かりました」
返事をしつつ急いで側にあった姿見で服装をチェックしていると、クマるんが心配そうな送信をよこしてきた。
【大丈夫ですか? 僕がスタイリングしちゃったから、あんまりうまくいってないかもしれない】
「え? ううん、そんなことないよ。最近、あんた上手になったもん。でもさ、びっくりだね。まさかこんなことになるなんて」
襟元を整える手を止めて、ちらりとケツポケに目線を走らせる。
「……なんか、成り行きであたしがインタビューを受けることになっちゃったけど……いい? 子どもスペース、あの形にセッティングしたのはあんたなのに」
【もともとの発案者は彩南さんでしょ。僕はちょっとそのお手伝いをしただけだし、主たる貢献者は彩南さんなんだから、全然問題ないですよ。なにか分からないことがあったら聞いてください。答えますから】
屈託のない送信に、心を覆っていた霧がたちまちのうちにすっきりと晴れた。
「うん。ありがとクマるん」
「柴崎さん、よろしいですかー」
「あ、はい。今行きます!」
心地よい緊張感と高揚感のせいだろうか、撮影機材を待つカメラマンに返した言葉は、普段よりいくぶんトーンが高かった。
☆☆☆
この日は昼休憩を挟む三時間を交代した他は、ほぼまる一日あたしが仕事を受け持った。
薄曇りで行楽に出なかった人が近間で楽しもうと思ったのか、店には先週を上回る大勢の客が訪れた。目のまわるような忙しさだったけど、朝の出来事で気分が高揚していたせいか、ほとんど疲れを感じることはなかった。
滞りなく仕事を終え、心地よい充実感に浸りながら笹本さんにあいさつをして店を出ると、すぐにクマるんが送信をよこしてきた。
【お疲れさまでした彩南さん】
いたわるような優しさがちょっとくすぐったかったけど、素直に頭を下げた。
「クマるんこそ、今日はありがと。なんか悪かったね、取材もあたしが受けちゃった上に、あんまり交代もしてあげられなくて」
【全然いいですよ。僕が取材受けたってたぶん緊張しちゃって何も喋れないし。彩南さんがハキハキ答えてくれたから逆にすごく助かったというか】
「そう言ってもらえるとあたしも助かるよ」
言いながら夜空を見上げる。屋根の隙間にのぞいている白っぽい空には、明るすぎる町のあかりのせいなのか、空一面を覆う雲のせいなのか、星はおろか月さえ見えない。
それでも何となくウキウキして、何か喋らずにはいられない気分だった。ケツポケのクマるんつきケータイを右手に取って、ケータイを見るふりをしながらクマるんに話しかける。
「……この頃、よく思い出すんだ、水谷彩南だった頃のこと」
前後左右に揺れるクマるんの体を、左手でそっと支えてやる。
クマるんは黙ったまま、ビーズの目玉をあたしにじっと向けていた。
「あの頃のあたしって、実を言うと、楽しいってどういうことなんだかいまいちよく分かんなかったんだ。うんと小さい頃は確かに感じてたと思うんだけど、水谷彩南っていう自我がはっきりしてきた頃には、もうどういう感じだかわかんなくなっちゃってて。でも、生きるってそんなモンだと思ってたし、それでも生きたいって思いこんでた」
クマるんは無反応なままだったけれど、あたしを見つめる黒いビーズに無言の肯定を感じながら、言葉を続けた。
「でもさ、あんたと一緒に暮らすようになってから、楽しいってこういうことなんだってのがやっと分かるようになったんだ。今日なんてまさにそれ。もう楽しくて楽しくて、交代すんのも忘れて仕事しちゃって。生きるってのがこんなに楽しいことだったなんて、ホント、思ってもみなかったよ」
無表情なクマるんの顔が少しだけ緩んで、ほほ笑んでいるような気がした。
「だから、今ならはっきり分かるよ」
そのほほ笑みに後押しされて、心の奥底に沈んでいた思いを、ほんの少しだけすくい取ってみる。
「あの頃のあたしは、本当に生きたいわけじゃなかった。自分を棄てた親への復讐っていうのもあったけど、結局、自分の存在を否定されるのが悔しくて、必死に抵抗していただけだったんだと思う。ほら、あたしって結構負けず嫌いじゃん。否定とかされるとさ、反骨心がムクムク頭をもたげてくんだよね。それで意地になって、生きたいと思いこんでいただけというか……あんたと暮らしてみて、それがはっきり分かったよ。その点はホント、感謝してる」
クマるんは重そうな首を横に振ると、心なしかホッとしたような雰囲気の送信をよこした。
【……よかった。彩南さん、このところ元気がなかったから】
「え……そぉ?」
こくりと頷くと、何気ない調子で言葉を継ぐ。
【彩南さん、以前、僕に聞きましたよね。将来のこと、どう考えてるかって】
ドキッとした。
小さく頷き返しつつ、気づかれないように鼻から夜風を吸い込んで吐く。
【彩南さんの言うとおり、僕は確かに建築関係とかそういう方面に興味はあります。大学に行くっていう選択肢にも、全く惹かれないって言ったらウソになる。でもそれを推し進めたら、僕だけの満足にしかならない。そんな将来じゃ意味がないんです】
クマるんはいったん送信を切ると、まるでほほ笑みかけるように重い頭を右に傾けた。
【僕は彩南さんに、幸せになってほしい】
心臓が大きく跳ねた。
クマるんはそんなあたしの様子に気づくそぶりもなく、本当に何気ない調子で送信を続ける。
【それが今のところ僕にできる、彩南さんへの恩返しだと思ってるんです。僕がここまでまともになれたのは、全部彩南さんのおかげだから……あ、でももちろん、僕だって楽しみがまるっきりない訳じゃないですよ。いちおう僕が考えてるのは、笹本さんのところで働きながら、彩南さんが洋服全般のことを、僕が店の内装や外装のことを受け持つって感じ。それでゆくゆくは、笹本さんのお店の大改造ができたらな、なんて思ってるんです。ね、いい考えでしょ】
ちょっとずうずうしいですかね、などと恥ずかしそうに付け足すクマるんを見つめながら、渇いた喉に粘つく唾液を流し込む。
「……確かに悪くはないけど、それじゃあ、あんたの持ってる能力的には、役不足なんじゃないの?」
やっとのことで絞り出した声は、かすれて震えていた。
【そんなことはないですよ。彩南さんだっていつも言ってたじゃないですか、現実をしっかり見据えて確実に成功する方策をとるのが、僕らみたいにギリギリの人間には一番なんだって。あの担任教師が言ってたことも、悔しいけど一理あると思うんです。親もなければ金もない、精神的にもまだまだ不安を抱えた僕みたいな人間には、確かに高望みは似合わない。しかもそれが、彩南さんを押しのけてまで通す結果になるなら、なおさら】
無邪気な送信が柔らかな絹のようにあたしの心臓を包み込み、ゆっくりと引き絞るように締め付ける。
クマるんを支える左手の震えが止まらない。
細かな振動が伝わったのか、クマるんが訝しげに顎を上げ、驚いたようにその動きを止めた。
【……彩南さん、どうしたんですか?】
答えようとして口を開けかけた途端、限界までたまっていたものが瞬きとともに溢れ、頬を伝って流れ落ちた。
喉の奥に熱い塊が引っかかっていて、言葉を紡ごうにも紡ぎ出すことができない。
やっとのことで前に踏み出していた足も地面に縫いつけられようになって、その場から動けなくなってしまった。
「……っ」
人通りの少ない車道脇、淡い光を落とす街路灯のたもとに、声にならない叫びを上げて、ケータイを握りしめたまましゃがみ込む。
膝を抱えて丸まると、鼻水だか涙だかよく分からないものが重い音を立てて滴り落ち、アスファルトに幾つも黒い水玉模様を描いた。
【どうしたんですか、彩南さん。ちょっと、……大丈夫ですか?】
うろたえるクマるんの裏返った送信を頭の片隅で感じながら、あたしは街路灯のたもとで丸まったまま、しばらくの間動けなかった。