74.本当に、それでいいんだろうか
毎日は特に変わりなく、穏やかに過ぎていく。
しいて変わったことを挙げるとすれば、西ちゃんとあたしと夏波の三人でつるんでいると、以前に増して注目されることが多くなったと言うことくらいだろうか。
もともと注目度の高かった西ちゃんに加え、髪形を変えて以来なぜか女子からの注目度がうなぎ登りの夏波、そして柴崎泰広もあのウジ村教諭をうならせるほどの数学的才能が明らかとなったことで、昼食時には完全に独占していた屋上も、最近はやたらと人口密度が高くなっている。
「なーんか落ち着かないよね」
お決まりの屋上階段に腰掛けた夏波が、お握り片手にはーっと大きなため息をついた。
「ちょっと夏波、聞こえるって」
家から持参してきたらしいレジャーシート(!)を広げ、コソコソこちらの様子をうかがいながら弁当を食べる女子三人組との距離、およそ四メートル。あまり大きな声を出すと聞こえてしまいそうでヒヤヒヤする。
小声で窘めたあたしを、夏波は上方から楽しそうに見下ろした。
「アヤカも災難よねえ。堂々と女言葉で喋れる唯一の時間だってのに、こうギャラリーが多くちゃさ」
「べ……別に。あたし普段からそんなに言葉遣いキレイじゃないし」
「思いっきりあたしとか言ってるし」
言葉に詰まったあたしを見て、夏波はケラケラ笑った。
「夏波ぃ、あんまアヤカイジメんなよ。昼時まで柴崎と交代されちゃったら、アヤカと喋れる時間がなくなっちゃうじゃん」
アヒルっぽく唇の先を尖らせた西ちゃんを見て、夏波は眼をぱちくりさせて首をかしげた。
「なんで? 家に帰ったらアヤカと同棲状態なんでしょ」
「柴崎が許してくんねーんだよ。あのタコ、家に帰った途端アヤカと交代しやがんの。アヤカとの日々を楽しむっつー俺の計画がパーだっての、全く」
そうなのだ。
あれ以来、柴崎泰広は当初の計画とまるっきり逆の生活をしている。
要するに西ちゃんが来る前と同じく、学校は基本的にあたしの担当、帰宅後は柴崎泰広の担当として朝と放課後に交代している感じなのだ。ただし、トイレとウジ村教諭の数学だけは交代しないとまずいので、その辺はうまく配分を考えて、あたしが体に入れる時間をなるべく多くとれるように調整してくれているらしい。
「ま、別の計画はうまくいってる訳だからいいんだけどな」
ピーマンの肉詰めを口に放り込むと、西ちゃんは「な」と意味ありげにあたしに目配せする。
別の計画。
そんな感じで半ば強制的に西ちゃんと触れ合っている成果なのだろう、柴崎泰広の男性恐怖症は目に見えて改善されてきている。
ウジ村教諭の授業やトイレなどでやむを得ず交代した時も、以前は三時間たったらすぐに自分から交代を要請してきたのに、最近はあたしが声をかけないと気がつかない時すらある。
「西ちゃんのおかげだよ。ありがとう」
軽く頭を下げると、西ちゃんは「いやいや」とかなんとか言いつつ照れていたが、はたと動きを止めた。
「ていうか、もしかして柴崎また寝てる? そんな発言ができっとこをみると」
「え? うん、五時間目のウジ村先生の数学までちょっと寝かせてくれって、二時間目の物理が終わったあたりからずっと」
西ちゃんは海苔巻きをパクリと口に放り込むと、首をかしげた。
「なんかこのところ多くね? そういうの。何? あいつまだ夜眠れねえの?」
「あ、ううん。なんか、この間市立図書館で借りてきた本、夜中に読んでるみたいで」
「へえ……何の本? ひょっとして、エロ本とか」
「……は? なんで」
動揺するあたしを見て、夏波がクスクス笑いながらも助け船を出してくれる。
「図書館でエロ本はないでしょさすがに」
「そうだよ。第一、借りる時はあたしもいたもん。確か、何とか建築とかいう住宅雑誌だったと思うけど……」
「へえ」
西ちゃんは黒い瞳を輝かせると、意味ありげに頬を引き上げた。
そのまましばらくは黙って弁当をつついていたが、箸の先でプチトマトを転がしながらいかにも思い出したかのように口を開いた。
「そーいえばさ、柴崎とアヤカって、本当に進学しないつもりな訳?」
「え……」
海苔巻きを片手に完全に動きを止めたあたしを、西ちゃんがチラリと横目で見る。
その視線から逃れるように、弁当箱の中に目線を落とした。
「……最初はそのつもりだった。あいつの男性恐怖症がひどかった頃は、あたしが生活の主たる部分を担うつもりだったから……でも、ここまで症状が改善されてくると、それじゃもったいないような気もしてきて」
「あいつ頭いいからねー」
夏波はウンウン頷きながらキュウリの浅漬けを一つ口に入れると、ポリリと小気味の良い音を響かせながら首をかしげた。
「でも何? あの頭脳ってのは、柴崎じゃないと開眼しないわけ?」
「うん。あたしの頭じゃ、正直南沢の勉強にはついていけない。あいつが寝てる時は、後であいつに見せるためにただひたすら教師の言ったことをノートに写してるだけ」
「そーなんだ……」
夏波は小さく二,三度頷くと、箸先を口にくわえたまま目線を中空に向けて黙り込んだ。
「奨学金申請して、大学に行く気は本当にねえの?」
畳みかけるような西ちゃんの質問に、胸の奥が重苦しくなった。
「……あたしは、行けると思ってる。あたしが判断つけられるのは家計的なやりくりの方面だけだけど、今、あいつは持ち家に暮らしてるから、奨学金もらって今のバイトを続ければ、金銭的には何とかやっていける。ただ……」
「ただ?」
「柴崎泰広自身が、その気じゃないみたいで」
夏波が目をまるくして箸を止めた。
「マジで? だって、……あの頭だよ? もったいないどころの話じゃないじゃん」
そのセリフの一語一語が、抉るように鼓膜を突き刺してくる。
「あたしもそう思うんだけど……なんか、乗り気じゃないみたいで」
「怖がってるんだよ、きっと」
夏波は断じると、ペットボトルのお茶を飲み干した。
「アヤカがいつもみたいにもう一押ししてあげればいいんじゃん? 西崎も一緒に暮らしてるんだから、協力してあげなよ」
「んー……」
西ちゃんは曖昧に返事を返すと、首を巡らせてあたしを見る。額の辺りに目線を感じて、余計に顔が上げにくくなる。
長いのか短いのかよく分からない間の後、チラリと目線を上げてみると、見事に西ちゃんと目があってしまった。
ドキッとして慌てて目線を逸らすと、視界の端で西ちゃんは小さくほほ笑んだようだった。
☆☆☆
帰宅後も、普段と何ら変わることのない時間が過ぎた。
玄関先で交代した柴崎泰広が、洗濯を取り込み畳んで米を研ぎ、炊飯器にセットしてみそ汁を作る。宿題をしている間に西ちゃんが帰宅、手早く調理された絶品おかずとともに夕食をいただき、片付け、ちょっとした攻防戦を繰り広げながらの入浴のあと、洗濯を干し、それぞれ一階と二階に別れて就寝までの時を過ごす。
その間に西ちゃんから、進路に関する話題は一度も出なかった。
いつその話題が振られるかと期待半分緊張半分で待ちかまえていたので、何だか拍子抜けしてしまった。
柴崎泰広が古くさい電灯にぶら下がるヒモを引っ張ると、数回点滅を繰り返したのち、微妙に震える白っぽい光が六畳の和室を照らし出す。
柴崎泰広はちょうつがいを軋ませながら扉を閉めると、さっそくあたしをケータイから外し、そっと畳に下ろしてくれた。
それから自分のふとんの隣に座布団を敷き、畳んだハンカチとフェイスタオルで寝床を整えると、首を巡らせてにっこり笑う。
「どうぞ彩南さん」
【あ……うん、ありがと】
もしもあたしが編みぐるみなんかじゃなくて水谷彩南の体だったとしら、相当にエロいシチュエーションなんだろうなあとときどき思う。薄暗い和室に枕を並べるうら若き男女。その先に発展しない方がおかしいくらいの。
けどまあ、いかんせん今のあたしは古くさい毛糸で編まれた黄土色の編みぐるみで。
柴崎泰広にとっては意識するとかしないとかいう以前の存在に過ぎなくて。
でもだからこそ、こんなふうに枕を並べることが可能になるって訳で。
柴崎泰広は部屋の隅に積んであった本を枕元に持ってくると、俯せになってその中の一冊を手にした。
ちょっと興味が湧いたので、そばに行ってのぞき込んでみる。
ゴチャゴチャとした活字の中央に、古くさい木製扉のついた店舗入り口の写真が載っていた。
【……なに読んでんの? この間から】
問いかけると、柴崎泰広は本から目線を上げてあたしを見た。
「え? 店舗入口の改装実例集。ほら、彩南さん言ってたじゃないですか。あの入口、今時期は開け放しておけばいいけど、真夏の暑い時期とか冬の寒い時期は空調の関係で閉めなきゃならないから、そうなるとお客さんが入りにくくなるって……調べてみると、結構自分たちでもできそうなんですよ、改修工事。そうすれば出費も最低限で済むし、お盆休みのあたりを狙えば工事も可能だし……こんどそれを、笹本さんに提案してみようかと思って」
【へええ、驚いた! 柴崎泰広、そんなこと考えてたんだ】
柴崎泰広は照れくさいのか、しきりと鼻を人差し指の第二関節で擦っている。
「え、いや、だってほら、彩南さんもやってたじゃないですか。子どもスペースを作る時、自分から下調べして情報を集めておいたりとか。アレのマネです。それに……」
【それに?】
再び誌面に目線を落とすと、楽しそうに情報を読みながらページを繰る。
「調べてみるとおもしろいんですよねこういうの。図面の書き方も知りたくて。図面が書けると必要な材料がはっきりするし、手順も明確になる。相当に大きなモノも制作可能になる訳で……それでついつい関係ない住宅雑誌とか設計とか建築とかの本も読んでみたりしてるんです」
バカですよね、と言って恥ずかしそうに笑う柴崎泰広を、数刻マジマジと見つめてしまった。
【……ならあんたさ、そういう関係の大学に行けばいいんじゃん?】
「え?」
そんな発想は毛ほどもなかったのだろう、柴崎泰広は目をまん丸く見開いて、ポカンと口を開けた。
【そういうのって、たぶん建築とかそういう関係の学部、学科だよね。しかもさ、それって絶対文系じゃなくて理系だし。あんたにピッタリじゃない?】
「……え、でも、それは」
『アヤカがいつもみたいにもう一押ししてあげればいいんじゃん?』
昼間、夏波に言われた言葉を思い返しながら、柴崎泰広の反論をさえぎるように矢継ぎ早に送信する。
【なに怖じ気づいてんの。大丈夫だよ、今のあんたなら浪人せずに引っかかれるって。どこを受けるかはおいおい決めるとして、取りあえず明日にでもウジ村先生に相談して、理系クラスに変更してもらおう。ね?】
あたしの送信に気圧されたように黙っていた柴崎泰広は、ふと表情を緩めると、ゆっくりと頭を振った。
「僕は進学する気はないって、何回言ったら分かるんですか」
【え……】
「進学はしません」
にっこり笑うと仰向けになり、すすけた天井を遠い目で眺める。
【どうして? あんた、ウジ村先生に目をかけられるくらい凄い頭を持ってんのに、何でそんな……】
食い下がるあたしの言葉を聞いているのかいないのか、黙って天井を見つめていた柴崎泰広は、やがて目線を天井に向けたまま、静かに口を開いた。
「僕は、僕一人のものじゃない」
鼓膜を貫いたその言葉に、頭を殴られたような衝撃を感じた。
柴崎泰広はゆっくりと首を巡らせ、枕元のあたしに視点を合わせる。
そのあまりにも穏やかな目線に圧倒されて、身動きがとれなくなってしまった。
「彩南さんがいたから、僕は死なずにここまでこられた……違いますか」
メガネの奥にある切れ長の瞳が、あたしを捉えて離さない。
こんな汚らしい編みぐるみに過ぎない、あたしを。
その目が、ふいに優しく細められた。
「これからも僕は、彩南さんとずっと一緒です」
【柴……】
「だから、二人同時に満足できる将来じゃなきゃ意味がない」
柴崎泰広は体ごとあたしの方に向き直ると、左手をあたしの方に差し延べた。
動けずにいるあたしの手……単なる毛糸の塊に過ぎないソレを、こわれ物にでも触れるかのように、あのキレイな指先でそっと包む。
「ね?」
同意を求めるようにそう言って、ほほ笑んだ。
動けなかった。
本当の編みぐるみにでもなってしまったかのように、首も、手も、足も、ぴくりとも動かない。
楕円の腕を包む柴崎泰広の指先が、あんまり温かくて。
今までずっと心の中に溜め込んでいた重苦しい塊が、その温かみでたちまちのうちにとけてしまいそうで。
だけど。
目の前でほほ笑む柴崎泰広。
そのほほ笑みはどこまでも優しくて、温かくて。
どこか悲しげに感じてしまうのは、あたしの気のせいなのかもしれない。
だけど。
本当に、それでいいんだろうか。