73.柴崎泰広、あんたさ……
「……と表されるので、n(≧2)回目で初めて合計が1を超える事象Cnは……」
静まりかえった教室に淡々とした柴崎泰広の説明と、カツカツとチョークが黒板を打つ硬質な音だけが響いている。
あたしはそれを机の上から、筆箱に寄りかかった姿勢で眺めていた。
黒板いっぱいに連ねられていく呪文の如きシグマやインテグラルをクラス中の生徒が口を半分開けて見つめている中、ただ一人ウジ村教諭だけは苦虫をかみつぶしたような表情で奥歯を噛みしめている。
一番最後の「=e」を書き終えると、柴崎泰広はさすがに少し疲れたのか小さく息をつき、それからウジ村教諭に向き直った。
「以上です」
クラス中の生徒たちの目が、一斉にウジ村教諭に注がれる。
ウジ村教諭は口中で微かにキリリと歯がみをし、鼻で小さくため息をついた。
「正解だ」
クラスのそこかしこから「おおおおお……」と地の底からわき上がるような歓声が響いてくる。
ウジ村教諭は禿頭の表面に毛細血管を青く浮き上がらせながら、柴崎泰広を三白眼で睨みあげた。
「柴崎、おまえ、これを解答するのにどのくらい時間がかかった」
柴崎泰広は怯えるように目線を泳がせながら、早口でその問いに答える。
「八分です」
再びクラス中から「ええええええ……」と、先ほどより少し周波数の高いどよめきが上がる。
「八分、か……」
ウジ村教諭はフッと鼻で嗤うと机に寄りかかっていた体を起こし、先ほどよりもさらに鋭い目線でギッと柴崎泰広を睨み付けた。
気迫に押されたのか、柴崎泰広は背を反らせて息を呑み、たまらず一歩あとじさる。
ウジ村教諭は自分より十センチメートルほど背の高い柴崎泰広を睨みあげながら、地を這うような声音を絞り出した。
「おまえ、何でこんなところにいる」
「……え?」
「何でこんなクラスにいるんだと聞いているんだ」
「……こんなクラス?」
ウジ村教諭の発言に、そこかしこから疑問と不審のざわめきが起こる。
柴崎泰広は引きつった笑みを浮かべながら、首をかしげてみせた。
「な、何でって……僕は進学の予定はないんで、ここが一番妥当な選択かと……」
「何だとぉ!?」
ウジ村教諭の血走った両眼が、カッと見開かれた。
「おまえ、文系にすら進学するつもりがないって言うのか!?」
「え……あ、は、はい。か、家庭の事情で……」
曲がりなりにも男であるウジ村教諭に怒声を浴びせかけられ、このヘタレが平静でいられる訳がない。柴崎泰広は三歩ほどあとじさりつつ必死で言葉を返すと、額にビッシリ浮かんだ汗をワイシャツの袖で拭った。
ウジ村教諭はそんな柴崎泰広の様子に気づくそぶりもなく、イライラと吐き捨てるように言葉を継ぐ。
「家庭の事情と言ってもだな柴崎、奨学金という手もあるし、もう少し考えてみる気はないのか。本当なら今からでも理系クラスに変更して、理系の大学を目指すのが筋だと思うのだが……おまえが文系進学を強く希望する理由があるのならそれはそれで致し方ないが、家庭の事情でそれすらできないとなると……」
ウジ村教諭は青筋をモリモリ膨らませながらブツブツ呟いていたが、ふいに勢いよく顔を上げると、血走った目で柴崎泰広を見据えた。
「柴崎、何だったら、私がおまえのご両親に話をしてやってもいいぞ」
「えっ? ウジ……いえ、藤村先生、そ、それは結構ですので」
「遠慮せんでもいい。今日にでも行ってやろう。ご両親は何時頃帰宅されるんだ?」
「いえいえいえいえそそそそそんな、とんでもないです藤村先生にご足労いただくなんてそんな……だ、第一ウチの親はいつも遅くまで仕事してますんで、いらしていただいても会えないと思います。親もびっくりすると思いますし……」
柴崎泰広の必死の弁明に、ウジ村教諭はいささか残念そうな表情を浮かべた。
「……そうか? なら仕方がないが……おまえの方からも、少し親御さんを説得しろ。この問題は、東大を目指す生徒でも難儀するレベルの難問だ。わずか八分でこれを解くやつなど、例年より出来がいい今年の理系クラスにもおらん。クラスの変更も含め、少し自分の将来を冷静に考え直してみてくれ。いいな」
「は……はい」
ようやく視線の圧力から解放された柴崎泰広は、ホッと息をついて額の汗を拭うと踵を返した。
「では次は、先週行った小テストを返す。六十点以下は明日再テストをするから、しっかり復習してくるように。安西、石川、今村……」
よろめく足を踏みしめながら座席に戻ってきた柴崎泰広に、夏波が苦笑まじりに声をかける。
「大丈夫? 柴崎。顔青いんだけど」
「だ……大丈夫です、何とか」
弱々しい笑みを返すと、椅子に座り机に突っ伏して、肺中の二酸化炭素を残らず絞り出す。
【ご苦労さま】
黒板の方を向いた状態で声をかけると、柴崎泰広はあたしを手に取り、自分の方に体を向け直してくれた。
「いや……何なんですかねあれ。やめてほしいですよねホント」
突っ伏していた顔を上げ、同意を求めるように疲れ気味の笑みを浮かべてみせるも、すぐには言葉が返せない。
沈黙するあたしを訝しむように、柴崎泰広は少しだけ首をかしげた。
「どうかしました?」
切れ長の瞳にひそむ、あたしの態度に対する純粋な疑問と、ほんのわずかな構え。
その構えの正体を確かめたい、そんな気がした。
【……そういえばさ柴崎泰広、昨日、校長室で言ってたよね。自分の将来について考えてることがあるって】
「え」
小テストの返却は淡々と続く。呼名され席を立つ者、返却されたテストを見て雄たけびをあげる者、ほっと胸をなで下ろす者……ザワザワと落ち着きなく騒がしいので、小声で話している分には気づかれそうにない。
「……言いましたっけねそんなこと」
【言った言った。何なら西ちゃんに確認とってもいいけど……ねえ、柴崎泰広が考えてる将来って、いったいどんな感じなの? 聞こう聞こうと思ってたんだけど】
「それは……」
柴崎泰広は言葉を濁すと、切れ長の瞳に微かな戸惑いをにじませてあたしを見た。
あたしもその瞳を、黒いビーズに精いっぱいの目力を込めて見返してやる。
「柴崎」
ウジ村教諭の不機嫌そうな声が響き渡る。
「はい」
柴崎泰広は立ち上がると、あたしを机上に残したまま通路を抜けて歩いていき、間もなく一枚の紙片を手にして戻ってきた。
【どうだった?】
すぐさま紙片を机の中にしまおうとしていた柴崎泰広は、あたしの送信に手を止めると、しまいかけた紙片を取りだしてチラリと見せた。
紙片の右上に躍る、「百」の数字。
その数字を見た途端、胸の奥にわだかまっていた言葉を吐き出したい衝動に、どうしようもなく駆られた。
【柴崎泰広、あんたさ……】
「前に言ったとおりですよ」
その衝動をさえぎるように差し挟まれた言葉は、やけに明快だった。
【え、前って……】
「いつか同じような事を聞かれましたよね、新宿に行った時でしたっけ。あの時に答えたことと、基本的には変わってないです」
紙片を机の中にしまうと、穏やかな表情で付け足す。
「ただ、死にたいってことだけはなくなりましたけど」
あの時の言葉。
やけに恬淡とした柴崎泰広の表情を眺めながら、あの時の言葉を反すうしてみる。
『僕は基本的に死にたいんですから、この先の生き方にあれこれ口を出せるわけがないじゃないですか。生き方は、生きたい人が決めるべきです。僕はそれに従って、命の砂が尽きるまでじっと待つだけです』
【……死にたくなくなったんなら、あの時の言葉自体が成立しなくなるんじゃない? 生き方は生きたい人が決めるべきなんだったら、あんたもそこに加わる義務が発生する訳でしょ】
「だから言ったじゃないですか、基本的にって」
柴崎泰広は困ったように笑うと、声を潜めて周囲を見渡した。
「テスト返却が終わっちゃったから、もう喋るのやめましょ。気づかれる」
半ば強引に会話を打ち切ると、柴崎泰広はノートと教科書を広げ、目線を黒板に向けた。
ウジ村教諭の説明を聞きながら時おり長い睫毛を伏せ、ノートにすらすらと数式を連ねるとまた目線を上げ、じっと説明に聞き入る。
あたしの方に、再びその視線が向けられることはなかった。
だけどあたしの視界は、数学の授業が終わるまでの間中、反復運動を繰り返す長い睫毛を捉えたまま、動けなかった。