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72.……うそ

 結局、柴崎泰広はその後一度もあたしと交代することはなく翌朝を迎えた。

 入浴の際は例によって一悶着あったものの、自分が体に入っている方が柴崎泰広的には落ち着くらしい。夜も前日よりはかえってよく眠れたようだ。

 朝方交代を申し入れてみたものの、ウジ村教諭の数学が一時間目にあるから、それまでは自分がやるとすげなく断られてしまった。


 てなわけで、今、柴崎泰広は西ちゃんと並んで台所に立っている。一緒に弁当を作ろうと西ちゃんが誘ったのだ。

 例によってプライドをチクチクするような物言いにのせられた訳だけれど、柴崎泰広が了承した時には正直言って驚いた

 西ちゃんは、隣に立つ柴崎泰広に遠慮会釈もなく顔を近寄せ、コツをあれこれ伝授したり、時には包丁を一緒に握ったりもする。

 柴崎泰広はそのたび息を呑んだり体を硬直させたり飛び退ったりしてはいるものの、今のところ吐いたり気を失ったりする様子は見られない。

 

 丸テーブルの上に寝そべり、たどたどしい手つきでカボチャを切る柴崎泰広の後ろ姿をぼんやりと眺める。


 なんだかんだ言って、柴崎泰広は西ちゃんのことを信じているんだと思う。

 あたしに対してはあれこれ不安がったり心配したりしてみせても、根本的なところで深い信頼をおいている気がする。


 柴崎泰広の手元にチラリと目線を送った西ちゃんが、もう少し薄めに切らないと火の通りが悪いからと、キャベツを湯通ししながら声をかけた。

 そうなんですかとか何とか言いながら、柴崎泰広が隣に立つ西ちゃんに目を向ける。

 揺れる前髪の隙間からのぞく、険のない穏やかなまなざし。


 そうだよね。

 これでいいんだよね。


 柴崎泰広は、ようやく一人で歩き出そうとしている。

 すがりつくように握っていたあたしの手を、少しずつ、少しずつ離しながら。

 そんなに遠くない将来、彼は完全にあたしから手を離して、どこへでも一人で歩いていけるようになるに違いない。

 自分の足で。


 これは確かにあたしの望んでいたことだったはず。

 だから嬉しいことだし、歓迎すべきことであるはずで。


 だけど。


 ゆだったキャベツをザルにあけながら、西ちゃんが何か冗談を言って笑いかけた。

 柴崎泰広はカボチャを切る手を止め、こらえきれないようにクスクスと肩を震わせる。


――それが実現した時、あたしは。



☆☆☆



 学校に着き、教室に足を踏み入れた途端、窓際に寄り集まった女子連中が固まってきゃいのきゃいの大騒ぎしてる様子が目に入り、定刻どおりに余裕で登校してきた西ちゃんと柴崎泰広は怪訝そうに眉根を寄せた。


「なにあれ」


「……さあ?」


 廊下側に近い席に座る柴崎泰広は、首をかしげつつ自分の席に荷物を置く。

 運悪くちょうど騒ぎの中心付近に自分の席がある西ちゃんは、ウンザリしたように肩をすくめたものの、席に着かない訳にもいかないため、仕方なくそちらに歩み寄り、騒ぎの中心にいる人物に鬱陶しそうな目線を投げ……

 その目が限界まで見開かれた。


「……えええええええええっ⁉」


 クラス中に響き渡るひっくり返った雄たけびに、柴崎泰広はドキッとして手にしていた教科書を取り落とした。


「な、何ですか西崎さん、そんな声を出して……」


「ちょっとちょっと来いよ柴崎、おまえもこれ見たら叫びたくなるっての」


 西ちゃんはそちらの方に顔を向けたまま、忙しく手のひらを上下させて柴崎泰広を呼び寄せようと懸命だ。

 机の上に置かれたあたしと顔を見合わせ、柴崎泰広は肩をすくめてみせてから、あたしつきケータイを手に席を立つ。

 女子集団の圧力にいささか気圧されつつも、唇を震わせてたちすくんでいる西ちゃんの隣に立ち、その目線を追う。

 その動きが、西ちゃん同様かっきりと凍りついた。

 

 ……うそ。


 そこに立つ人物の姿を視界に捉えた瞬間、あたしの思考も完全に停止した。

 女の子集団の中心に立つその人物は、立ち竦む柴崎泰広の姿に気づくと、大輪のバラのような笑みを浮かべながら寄りかかっていた窓枠から体を起こして、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。

 間に立つ女の子たちが、モーゼの祈りで真っ二つに割れる大海さながらに道をあける。

 その人物は西ちゃんと柴崎泰広の前まで来ると、大きな瞳で数刻探るように柴崎泰広を見つめてから、少し残念そうに呟いた。


「……なんだ。アヤカじゃないんだ」


 その一言でようやくあたしは、目の前に立つその人物が夏波であることに確信が持てた。

 恐らく、西ちゃんも柴崎泰広も同じ気持ちだったと思う。それほど、夏波の姿は様変わりしていた。


 顔の造作は、もちろん以前と変わりない。スッと通った鼻筋に、長い睫毛に彩られた黒目がちな目。柔らかそうな唇はいつものようにグロスをのせて、薄桃色に輝いている。

 否、その顔の周囲を縁取る髪形が、まるっきり変わっていたのだ。

 良くも悪くも目立たない、でも大人しげで可愛らしい雰囲気を醸し出していた一般的ミディアムヘアが、斬新でおしゃれなショートヘアに変貌している。目もとを覆う重い前髪と、対照的にすっきりと刈り上げた襟足。柔らかなパーマで動きを出した毛先とあらわになった細い首筋やアゴのラインがセクシーで、強い輝きを放つ瞳をキリリと引き立たせる、何とも格好いいスタイルだ。


「な……夏波、おまえ、失恋でもしたっての?」


「はぁ? 何言ってんの西崎。んなわけないでしょ相手もいないのに」


 西ちゃんの問いを一蹴すると、夏波はクスッと笑った。


「知り合いの美容師さんに頼まれたの。ウエブカタログに載せるんで、カットモデルになってほしいって。なんかこの夏はショートがくるらしいっていうから、じゃあそれでお願いしますってお任せしたらこうなっただけ」


「お任せって……えええええ。俺、前の髪形、結構好きだったんだけどなあ」



「なにそれ。西崎、そういうこと普通言う? 女の子たちからは絶大な人気を得てるのに」


 夏波はギロリと西ちゃんを睨み付けると、柴崎泰広にクルリと向き直る。


「じゃさ、柴崎はどうよ」


「え」


 口を半分開けて放心状態だった柴崎泰広は、いきなりふられて目を丸くした。


「あんたは率直にどう思う? ……ていうか、あたし、ホントはアヤカの感想が聞きたいんだよね。ねえ、そこにアヤカがいるんなら聞いてくれない? この髪形どう思うって」


 柴崎泰広は困ったように右手のあたしをチラリと見た。


【滅茶苦茶いいって言ってやって。サイコーだって。今度、一緒にあのジーンズ履いてどっか遊びに行こうって】


「あ……えっと、滅茶苦茶いいです。サイコーです。今度一緒に、あのジーンズ履いてどっか遊びに行きましょうって……」


 周囲を取り巻いていた女子連中から、「えーっ」とか「キャーッ」とかいう嬌声がわき起こった。

 何が起きたのか分からずキョトンとした表情で周囲を見回している柴崎泰広に、夏波はクスクス肩を震わせながら頷いてみせる。


「OKOK、行こうね柴崎。ほらぁ、柴崎にだって好評だよ。不評なのは西崎だけだって」


 西ちゃんも苦笑しながら肩をすくめた。


「なことねーって。男ってなんだかんだ言って大人しげでカワイイのが好きだから。ま、見慣れてきたらそれも悪くねえけど」


「西崎に男がどうとか言われても説得力ないんだけど」


 苦笑しながら言いかけた夏波の目に、フッと寂しげな色が過ぎった。


「……ま、確かに男って保守的なのが好きだよね。おとなしめで控えめで可愛らしい、毒にも薬にもならない雰囲気がさ」


「何その意味深発言。やっぱ夏波失恋したんじゃねえの?」


 夏波は馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに肩をすくめると、目線を落として吐き捨てる。


「死んだオヤジのことだよ」


 柴崎泰広の右手がピクリと震えた。

 あたしも思わず意識を尖らせる。

 女の子連中の何人かは相変わらず周囲にいたけれど、西ちゃんと夏波の会話よりも、先ほどの柴崎泰広の発言の方に興味があるらしく、いくつかのグループにまとまって勝手にその話題で盛り上がっている。いつも側にはべっている狛犬二人組も、夏波に聞かれたくない話題に興じているのか、少し離れた場所にいた。

 夏波は目線を落とすと、低めのトーンで言葉を継いだ。


「オヤジも保守的なタイプが好きでさ。女の子は断然ショートよりロング、パンツよりスカート、足を出すのも肩を出すのも腹を出すのも御法度って感じで。オヤジの好きな格好しとくとなーんか機嫌良かったから、それであたしもずーっとあの当たり障りのない髪形で通してたけど……オヤジも死んじゃったことだし、いい加減、自分の好きなようにやっても許されるかなって思ってさ」


 西ちゃんは驚いたように目を見開いた。


「意外……夏波がオヤジさんに気遣ってあの髪形にしてたなんて、初耳かも」


「まあね。あたしも今初めてこんなこと話してるし」


 夏波はどこか自嘲気味に笑うと、両手を頭上に差し上げて思い切り伸びをした。


「いい加減ふっきらないと、先へ進めないしさ」


「吹っ切るって……吹っ切ってなかった訳?」


 小さく頷いた夏波を、柴崎泰広は黙ってじっと見つめている。

 間もなくチャイムが鳴る時刻だからか、いつの間にか周囲に集まっていた女子連中はそれぞれにばらけて、通路を隔てた斜め後ろの席で笑い合う女子連中の他は、周囲に人影はなくなっていた。

 夏波は足元に目線を落とすと、静かに言葉を継いだ。


「オヤジが死んだって聞いた時、どうしてって思った。家にもまともに帰らないで、休みの日にも仕事して、話する機会なんか全然ないままで……悲しいっていう前に、もの凄く腹が立った。そんな理不尽な話があるのかよって。オヤジ好みの髪形をして、オヤジが行かせたがった高校に行って、オヤジが喜ぶような服装をして、あたしはずっとオヤジが望んだ娘でいたのに、結局最期まで、オヤジはあたしのことなんか全然見ようとしなかった。家族の方なんか一度も見ないまま、一人で勝手に逝っちゃったんだ」


 吐き捨てた言葉の語尾が、微かに震えている。

 かけるべき言葉が見つからないのか、西ちゃんも珍しく沈痛な面持ちで黙っている。

 あたしつきケータイを握りしめる柴崎泰広の右手が、何をか思い定めたようにきつく握りしめられた。ストラップが軽く引っ張られ、少しだけ体が揺れる。


「……お父さんは最期まで、ご家族のことを心配していました」


 ……え?


 思わず大っぴらに首を巡らせて柴崎泰広を見上げてしまった。

 夏波も大きなその目をさらに見開き、瞬ぎもせず柴崎泰広を見つめている。

 柴崎泰広はメガネの奥にある切れ長の瞳に悲し気な色をにじませながら、静かに言葉を続けた。


「どうしてそんなことを知っているかは、すみません聞かないでください。でも、僕は知ってるんです。お父さんは自分が家族のためにしてきたことに、最期まで揺るぎない自信と誇りを持ってらっしゃいました。実際、佐藤さんのご家族はお父さん亡き後も、暮らしに困っている様子はありません。お父さんのされてきたことは、お父さんの信じた形で確かに実を結んでいるんです。だから……」


「……だから?」


 呟くように繰り返した夏波に、柴崎泰広は口元を緩めて、ほんの少しだけ切なげな笑みを投げた。


「認めてあげてください。お父さんがご家族のためになさってきたことを。佐藤さんのしてほしかったことと、それは少しずれていたのかもしれない。でも確かに、お父さんはご家族のことを思っていたんです。お父さんなりに、ご家族の幸せを願っていたんです……」


 柴崎泰広は右手でメガネを外すと、左手で目元を擦りながら、震える声で言葉を継いだ。


「僕は……佐藤さんが羨ましい。たとえどんなにすれ違っていても、憎しみを抱くことの方が多くても、何かしらお父さんとの思い出を持っていることが。僕は逆立ちしたってそんなものは持ちようがないから。いつか佐藤さん、アヤカさんに言ってましたよね。『自分と比べてしかモノが言えない』って……たぶん、僕もそうなんです。どうしたって父親の記憶なんか持ちようがない自分と比べているから、佐藤さんが羨ましくて羨ましくて仕方がない。でも、その記憶のせいで、佐藤さんはそこまで苦しんでいた訳で……だから、どっちがどうなんてことは僕には分からないけど、でもとにかく、僕は佐藤さんが羨ましくて仕方がないんです……」


 嗚咽にかき消され、最後は言葉にならなかった。

 夏波はしばらくの間、そんな柴崎泰広を黙って見つめていたけれど、やがて静かに口を開いた。


「……あたし、今でもはっきり覚えてるんだ」


 メガネを右手に持ったまま、柴崎泰広は目元を擦る手を止めて夏波を見た。


「高校に入学して、あたしが初めてあの髪形にした時。年に数回あるかってくらい珍しくオヤジが家にいたんだ。美容院から帰ってきたあたしを見るなり、オヤジなんて言ったと思う? 『大人っぽくてびっくりしたよ、凄くよく似合ってる。高校生になったんだなあ、おめでとう』って……笑っちゃうよね。その時は入学式なんかもうとっくに終わっちゃってた頃なんだよ。でもさ、もっと笑っちゃうのは、それ以来ずっとその髪形してたあたしの方だってウワサもあるんだけどさ」


 自嘲気味に肩をすくめた夏波の頬を、瞬きとともに涙が一筋伝い落ちた。


「……オヤジ、幸せだったのかなあ」


「幸せだったと思います、たぶん」


「あたしは、……幸せだったのかな」


「幸せだったんだと思います」


「そっか」


 窓からの光を背中に受けながら、夏波は涙に濡れた頬を引き上げた。


「ありがとう、柴崎」


 その言葉が耳に届くと同時に、朝の空気を震わせながら気の抜けたチャイムの音が鳴り響いた。

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