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71.台無しじゃんw

 気がついた時には、薄暗いテーブルの下で汗ばんだ手のひらに包まれていた。

 目の前には、パンくずの散らばった節穴だらけの板の間。全く、人間が増えたせいか部屋が汚れるのが早いったらない。明日は念入りに掃除しておかないと……。


 ……なーんてことを考えてる場合じゃない!


【柴崎泰広!】


 送信しながら重い首をもたげると、遙か上方に堅く引き結ばれた柴崎泰広の口元が見えた。

 腰を屈めてその顔をのぞき込んでいた西ちゃんは、ニヤリと口の端を歪めると、首を右にちょこんとかしげる。


「あれれ? ひょっとしておまえ、……柴崎?」


「……そうです」


 そんな西ちゃんを上目遣いに睨み付けたまま、柴崎泰広は震える声を絞り出す。

 西ちゃんは大げさに目をまるくすると、腰に手を当てて体を起こした。


「あれぇ? どーしたのおまえ。男苦手だから、この家にいる間はアヤカにぜーんぶお任せなんじゃなかったっけ?」


 嫌みたらしくそう言うと、バカにしたようなニヤニヤ笑いを浮かべてみせる。


「いーんだよ泰広くん無理しなくても。キミはいろいろたいへんなんだからゆっくり休んでなよ。大丈夫、アヤカのことは心配しないでいいから。勉強は俺もそんなに苦手な方じゃないし、あとは俺が責任持ってぜーんぶやっといてあげるからさ☆」


 柴崎泰広は明らかにムッとした様子で、普段よりワンオクターブ低い声を絞り出す。


「……結構です。勉強なら僕が自分でできますから、西崎さんの助けは要りません」


「えー? でもさ、おまえ、ヤバいんじゃない?」


 西ちゃんはいかにも楽しそうにそう言うと、腰を屈めて柴崎泰広の顔をのぞき込んだ。


「……!」


 大きく息をのんだ柴崎泰広の体が、思いっきり後方に反り返る。

 あっと思う間もなく視界が一気に流れ、柴崎泰広は椅子もろとも後ろにひっくり返った。板の間にたたきつけられた衝撃で、大音響とともに築四十年の家全体がビリビリと揺れる。


【ちょちょちょちょちょっと柴崎泰広、大丈夫!?】


 後頭部を強打したかと思ってゾッとしたけれど、間一髪それは免れたらしい。柴崎泰広は先ほどと同様の強ばった表情のまま、床にはいつくばって体を起こした。

 西ちゃんは腕組みしながら、何とも楽しそうな笑みを浮かべてそんな柴崎泰広を見下ろしている。


「あーあ、そんなんでホントに大丈夫? だいたいさ、おまえ、男といると気持ち悪くなったり気失ったりするんじゃねえの? そんな風になったらヤバいからさ、アヤカと交代した方が身のためだって」


「大丈夫です」


「マジでぇ?」


 やっとのことで立ち上がった柴崎泰広の顔を、やり過ぎなほど顔を近づけてのぞき込む。


「……!!」


 柴崎泰広は大きく目を見開くと、弾かれたように三メートルほどあとじさった。派手な音とともに建て付けの悪い扉に背中をぶち当て、あたしつき携帯を左手でつかんだまま、耐え切れなくなったように右手で口元を押さえる。


――ヤバい! 吐くってコイツ!


 右手の隙間から吹きこぼれるゲロの滝が脳裏を過ぎり、ゾッと背筋に悪寒が走る。あわてて見上げたあたしの視界に、メガネの奥でうっすらと涙を滲ませた柴崎泰広の目が映り込んだ。

 嘔吐感をこらえるつらさからくる涙なのか、はたまたふがいない自分に対する涙なのかは分からないけれど、それを視界に捉えた瞬間、胸が抑えつけられるような感覚ともに、西ちゃんに対する怒りが瞬時に沸騰した。


――何考えてんの、やり過ぎだって西ちゃん!


『……俺はたぶん大して役に立たないし、アヤカが思ってるようには動けないと思うし、俺のやり方で柴崎に接すれば、アヤカの意図とくい違って不満に感じることもあるかもしれない。それでも、いいの?』


 あの時、西ちゃんがあたしに言ったあの言葉が頭を過ぎる。

 西ちゃんが何を意図してこんな態度をとっているのかは、何となく分かっていた。西ちゃんなりに目的があってあえてこうしているんだろうということも。

 だからといって、これほどまでの身体的苦痛を味わわせることが果たしてプラスになるのかどうか、あたしには全く分からない。

 ていうか、見ているのがつら過ぎる。

 西ちゃんの態度が、真剣っていうよりはどこか遊んでいるような雰囲気にとれるのが、余計に。

 西ちゃんなりに考えた上での行動だろうと理性では理解できても、感情がそれを許容してくれない。


【柴崎泰広! 外に出よう】


 柴崎泰広は口元を押さえたまま、目線をチラリと携帯の先にぶら下がるあたしに向けた。


【西ちゃんから離れさえすれば症状は治まるんだから、外に出よう。何も好きこのんでここまでキツイ思いをすることなんかない。こんな急激なやり方をしなくても、徐々に慣らしていけばいいんだから……】


「いいんだよぉ、逃げて」


 まるであたしの送信が聞こえたかのようなそのセリフに、ドキッとしてしまった。

 西ちゃんは先ほど同様ニヤニヤ笑いを浮かべながら、斜から柴崎泰広を見下ろしている。


「外でも何でも行って取りあえず逃げなよ。そーしないとおまえ、ゲロ吐いたり気失ったりしちゃうだろ? 俺もそんなのの後始末させられんのはいやだしさ。おまえが外に出ている間に、家の仕事は俺が完璧にやっといてやるからさ、安心して行ってきなよ。あ、その問題も、その間に解いておくよ。おまえはなーんも心配しないで、安心していーからさぁ……」


 言いながら、西ちゃんがテーブルの上のノートに手を伸ばした、刹那。

 柴崎泰広の背中が、弾かれたように扉から離れた。

 さっきまで吐き気をこらえて動けなくなっていた人間とは思えないほどの俊敏な動きで、西ちゃんが取ろうとしていたノートを横合いから奪い取る。

 西ちゃんが面白そうに目線を上げると、柴崎泰広は右手にノート、左手にあたしつきケータイを握りしめながら、その目をギッと睨み返した。


「あれぇ、どーしたの? 吐きそうなんじゃなかったの?」


「……吐きませんよ、意地でも」


 肩で呼吸をしながら、呟くように言葉を返す。


「じゃあ気失っちゃったりとか」


「しません」


「へええ、凄いじゃん柴崎、でもさー、マジで無理しなくていいよ。耐えらんなくなったら、いつでも逃げていいからさ。あ、夕飯も無理しないで、アヤカと交代してからゆっくり食べてもらいなよ。悪いけど俺は先に食べっけど。あー、楽しみだなーアヤカ特製節約カレー。ワ・ク・ワ・クw」


「……食べますよ僕だって」


 押し殺したような声で柴崎泰広が言うと、西ちゃんは大げさに眉を上げた。


「えええー、でもさー、モノ食べるのって吐き気こらえてたら不可能じゃね? いいよいいよ、酸っぱい胃液とアヤカのカレーが混ざったら最悪だし、目の前で吐かれたら俺だって気分ぶちこわしだからさ。おまえはあっちの居間にでも引っ込んで、大人しくウジ村の問題でも解いてなさい☆」


 バカにしたような笑みを浮かべつつ、柴崎泰広の額を人差し指でチョイとつつく。

 息をのんで背中を反らせた反動で、柴崎泰広の眼鏡が思い切り斜めにずり落ち、あたしまでドキッとして思わず四肢を突っ張ってしまった。

 開放感のない密室という苦手なシチュエーションまっただ中での、あからさまな接触。ある程度開放感があった学校の廊下とはわけが違う。

 息を殺して動向を見守っていると、柴崎泰広はノートを手にしたまま、震える人差し指でずり落ちたメガネを直した。


「……引っ込みませんよ、僕は」


「えー、じゃあ何? ここで問題解くの?」


 西ちゃんはオーバーリアクション気味に目を見開き、柴崎泰広の顔を覗き込む。

 柴崎泰広は一瞬引き下がりかけたが、額に汗を滲ませつつ何とか体をその場に残した。


「そっかー、ま、やせ我慢だけはしないでくれよな。問題が終わったら、さっさと違う部屋に行って休んでくれていいからさ。飯の支度とかは俺がぜーんぶ完璧にやっといてやるから、心配しなくていいよ☆」


「こんなもん五分で終わらせて、すぐに支度も手伝いますよっ」


 いきり立って叫ぶと乱暴に椅子を引いて座り、あたしつきケータイをテーブルの上に放り投げてシャーペンを手にする。


「まーまー無理しないで。間違えちゃったら意味ないんだし、ゆっくりじっくり考えなよ。分からないところは、俺が後で全部何とかしてやるからさ☆」


 柴崎泰広はもう答えなかった。

 凄まじい速さで数刻ノート上に目線を走らせていたかと思うと、今度は猛スピードでシャーペンを動かし始める。

 そっと首を巡らせて見ると、まるで呪文のような数式の列がすでにノートの三分の一を埋め尽くしているのが見て取れた。


 ときおり上下に動く長い睫毛。

 一心不乱に書き連ねられる数式の列。

 西ちゃんはフンフン鼻歌を口ずさみながら鍋の中を確認し、グルグル巻きのバスタオルをほどきにかかった。


 微かに部屋の空気を揺らす、規則的な振り子時計の音。

 漂ってくる、温かなカレーの匂い。

 薄暗い台所を照らす、白熱球の優しい光。


 柴崎泰広の額にビッシリ浮かんでいた汗は、いつしかすっかり乾いていた。



☆☆☆



「できた!」


 柴崎泰広の明るい声に、サラダを盛り分けていた西ちゃんは目をまんまるくして振り向いた。


「うっそぉ、マジで!? まだ八分しか経ってねえじゃん」


「え」


 その言葉に柴崎泰広は慌てて柱時計を振り仰ぎ、表情を曇らせた。


「なんだ、五分以上かかっちゃったのか……」


「でもすげえって。なーなー、どうやって解いたの? 教えてくれよ」


 西ちゃんは手を拭きながら興奮した様子で歩み寄ると、腰を屈めてノートを覗き込む。


「えっと……まず、k=1,…,nに対して、k回目に選ばれた実数をXkとし、(X1,…,Xn∈(0,1)nを考えるんです。これは……」


 頭上を通過するお経のごとき数式の羅列より、あたし的にはたった今目の前に展開している光景の方がミラクルだった。

 仲良く並んだ西ちゃんと柴崎泰広の距離、約十五センチメートル。ヘタをしたら息がかかりそうなくらい顔を近寄せているにも関わらず、説明に夢中の柴崎泰広は全く気にする様子がない。西ちゃんの存在すら感知していないかに見える。

 柴崎泰広の説明を黙って聞いていた西ちゃんの目が、驚きと興奮で大きく見開かれた。


「ああそっか! てことはn回目で初めて合計が1を超える確率はCnのn次元体積Vn(Cn)になるわけか」


「そうです。だから、合計が初めて1を超える回数の期待値Eはこうなる訳で。あとはこれにVn(An)を求めて代入すればおしまいですよ」


「はあああ……すげえなおまえ」


 西ちゃんは体を起こすと、細く長いため息を吐いた。


「それってのは、漸化式を作って求めればいいんだよな」


「そうです。簡単でしょ」


 当たり前のように言い放つ柴崎泰広を、じとっと横目で睨み付ける。


「……どこが。根元事象の数が有限じゃない時点で高校数学の域超えてるだろ」


「そうですか? でも、ビュフォンの針の問題だってやろうと思えば高校数学の範囲で解けますし、それと同じですよ。だいたい、西崎さんだって解けてたんでしょ、コレ」


「まさか。頭のてっぺんから爪先まで純粋培養の文系人間に、こんなモン解ける訳がないじゃん」


「は?」


 あっけらかんと言い放つ西ちゃんを、柴崎泰広は完全に動きを止めて見つめていたが、ややあって、かすれた声を絞り出した。


「……いや、だって西崎さん、さっきアヤカさんに解けそうだって……」


「ウソに決まってんじゃんそんなの」


 完全に機能停止した柴崎泰広を横目に、西ちゃんはさも嬉しそうに言葉を継いだ。


「そー言ったら、おまえがどんな反応するのかなーと思ってカマかけただけ。でもさー、出てきてくれてマジで良かったよ。もしあのまんまおまえが出て来なかったら、アヤカの前で俺、大恥かくとこだったもん。サンキュな、柴崎。愛してるぜw」


 出そうとした声が、すぐには音声になり得なかったらしい。数刻ワクワクと無意味に口を動かしていた柴崎泰広は、ややあって、機関銃のように捲したて始めた。


「にににににに西崎さんっ、全部ウソとか何考えてんですか! やっていいことと悪いことが……」


「やってよかったじゃん」


「え?」


 詰め寄ろうとして一時停止した柴崎泰広の鼻先を、西ちゃんはニコニコしながら人差し指でチョンとつつく。


「おまえ、今さ、この家で男と二人きり、超至近距離で話してんだぜ。しかも吐きもせず、気も失わないでさ」

 

 言われて初めて気がついたらしい。柴崎泰広はメガネの奥にある切れ長の瞳を大きく見開いた。


「その気になればできるんだよ、おまえは」


 西ちゃんはぼうぜんと立ち尽くす柴崎泰広の頭をポンポンと軽く叩くと、再び調理台に向き直り、ボールに入ったポテトサラダを盛り分け始めた。


「思い出してみなよ。初めて俺と会った頃と比べたら、おまえ、ずいぶんいろんなことが平気になってんじゃねえの? 電車に乗るのも、教室にいるのも、男と接触すんのもさ。慣れなんだよ要するに。そうやっていろんなことに慣れていけば、苦しい思いをすることも少なくなるし、必要以上にオドオドすることもなくなるし、自分に自信だって持ててくるんじゃねえの?」


 ぼうぜんと立ち尽くしている柴崎泰広に向き直り、にっこりと笑う。


「自信持っていいんだよ。おまえ、十分すげえんだから」


 柴崎泰広は、その笑顔を見つめたまま身じろぎもしない。

 西ちゃんはサラダを置くと、器やスプーンをテーブル上にセッティングしながら、独り言のように言葉を継ぐ。


「自信持って、苦手を克服してってくれよ。そーすれば……」


「……そうすれば?」


 おずおずと繰り返されたその言葉に、西ちゃんは皿を並べる手をピタリと止めると、その目に何やら得体の知れないモノを熱くたぎらせながら柴崎泰広を見つめた。


「キスが現実のものになる」


「……!」


 お約束どおり息をのんであとじさった柴崎泰広に、怪しい笑みを顔中に満載しながらにじり寄る。


「いくら約束してたって、実現しなきゃなんの意味もねえからな。約束が果たされるその日までに、おまえを俺のキスに耐えられる体にしてやること、それが目下の俺の最大目標なわけよ☆」


「そそそそそそそんなん無理です絶対無理! 半径三メートル以内に近寄らないでくださいっ! 顔近づけたら吐きますからね!」


「んもーつれないなぁ柴崎くぅん。んなこと言わないで、練習のために今日は一緒にフロ入ろうよ。背中流してあげるよ、背・中♡」


「けけけけけけけ結構ですっ」


 ――全く、せっかくいい感じだったのに、台無しじゃんw


 テーブル上に転がったあたしの視界を、追いかけっこする二人の姿が右から左に移動する。全く、笑いをこらえるのがたいへんだってば。

 それにしても、家中に響き渡るにぎやかな笑い声のせいだろうか。すすけた天井の中央からぶら下がる照明の黄色い光も、調理台から漂うカレーの匂いも、古くさい振り子時計が時を刻む規則的な音も、何もかもがやけに優しく温かく感じられる。

 それが何だか不思議で、なぜだかやたらと嬉しくて、どういうわけだか少しだけ、切なくなった。

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