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70.元気だしなって

 柴崎泰広が目覚めたのは授業が全て終了した後、自由が原のケーキ屋に行くという西ちゃんと別れ、近所のスーパーで買い物を済ませて家に戻る途中だった。


【……あれ? 彩南さん、学校は?】


 寝ぼけ眼を擦っているような送信の雰囲気に、思わず苦笑してしまった。


「とっくに終わったわよ。今買い物すませて家に戻るとこ。ホントよく寝てたよね、あんた」


 クマるんは言葉の意味がすぐには理解できなかったらしい。しばらく黙って左右に揺れてから、突然【ええええええええっ】とひっくり返った送信をよこした。


【そんなに寝てたんですか僕? じゃあ、彩南さん、ずっと授業一人で受けてくれたんですか?】


「そうだよ? たいへんだったんだから。五時間目の数学なんかさ、ウジ村先生ってあんたのことやたら指名したがるじゃん。必死で気配消したけど、結局一回指されちゃって、仕方がないから分からないって言ったら、明日までに解いておくように言い付けられちゃった」


【そんな……起こしてくれればよかったのに】


 その言葉に思わずムッとして立ち止まると、スーパーの袋をカバンを持っている方の手に持ち替え、ケツポケから取りだした携帯ごとクマるんを目の前にかざす。


「だって、あんた昨夜あんまり眠れなかったみたいだし、午前中結構がんばってたから起こすとかわいそうだと思ったんだもん。そりゃ、答えられずにあんたの株落としちゃったのは悪かったけど、かなり難しい問題だったらしくてクラスの誰も答えられなかったやつだし、ちょうど授業が終わってチャイムもなったところだったし、あんなの答えられなくても仕方がないと思うよ」


【あ、いや、別にそのことを責めてるわけではなくて……】


 あたしの勢いに押されてしどろもどろに弁解していたクマるんは、ふいに口をつぐんでから、怖ず怖ずとこんな送信をよこしてきた。


【……がんばってた?】


「え? あ、うん、がんばってたじゃん。須藤のとこ行ってさ」


 あたし的には誉めたつもりだったのだけれど、クマるんは肩を落とすと、自嘲気味に重そうな首を横に振った。


【いや、……全然情けなかったですよ。怖くてトイレから出られなくなって、あんなところで彩南さんに交代してもらって、しかもそのまま寝ちゃったなんて】


 そのままガックリと重い首を垂れてうなだれている。

 思わず笑ってしまった。全く、世話が焼けるなもう。


「あたしはがんばってたと思うけどな。そりゃ確かに、マンガやドラマのヒーローみたいなわけにはいかなかったけど、あんた的には上出来だったんじゃない? 自分でも言ってたけど、あんたは最初の頃に比べたらずいぶん変わってきてるんだよ。そんなすぐになんでも完璧にできるわけがないし、あそこまでやれれば十分だって。ちょっとずつでも確実に前に進んでるんだから、今はそれでいいじゃん。ね?」


 明るくそう言って黄土色の顔を覗き込んでみたものの、クマるんは納得がいかない様子でうつむいている。


「まあ、自分的に納得いかないとこがあるなら、これからなんとかすればいいしさ。あんたの人生はこの先もまだまだ続くんだから、いくらでも改善のしようはあるってことで。元気だしなって」


 左手の人差し指でうなだれるクマるんの頭をチョイとつついて、顔を上げたクマるんににっこり笑いかけてやると、ようやく少し気を取り直したのか、クマるんは重そうな頭をフルフルさせながら小さく頷いた。



☆☆☆



 西ちゃんが帰ってきたのは、家の中の仕事をひととおり終え、夕食の準備もあらかた整い、さあ今からウジ村にやるよう指示された問題を解こうかとノートを開き、シャーペンを手にしたところだった。

 玄関扉の開く音が響いた途端、テーブルの上に座っていたクマるんは、慌ててパタリと横になった。


「たっだいまー☆」


 薄暗い玄関から、西ちゃんの弾んだ声が響いてくる。


「お、お帰り。どうだった? ケーキ屋」


「取りあえずOKもらってきたよーん。バイトしたいって話は以前からちょくちょく出してたから。月曜の定休日と木曜をのぞく週五日、平日は五時七時、休日は九時五時で雇ってくれるってさ。ま、実際にケーキ作りに関わらせてもらえるかどうかは微妙だし、見習い期間の一カ月間は、時給七百円までしか出せねえって言われちゃったけど」


「それは仕方がないよ。最低賃金割り込むけど、不況だから文句言えないし。でも良かったじゃん、おめでと西ちゃん」


 ニコニコしながら古くさい木製扉を開けて台所に入ってきた西ちゃんは、途端に鼻をひくつかせた。


「お? なんかいい匂い。この匂いはもしかして」


「そ。夕食の王様カレー。グラム八十八円で肉が手に入ったからさ。でも悪いけど、基本そのまんまで作るからね。タマネギじっくり炒めてるとガス代かさむし、トマトだって果物だってヨーグルトだって味出しに使ってる余裕ないから」


「いーよ別に。基本で作ったってうまいモンはうまいから……」


 機嫌良く頷いた西ちゃんは、調理台に置かれている物体を目にした途端、目を丸くして固まった。


「……ア、アヤカ、あれ何?」


「ん? あれって?」


「あの、なんかバスタオルでグルグル巻きにされてるヤツ……」


 脱力したクマるんを左手で弄びつつ、どうやったら不自然でなく問題を見せられるか考えながら答えを返す。


「カレーの具だよ。今、保温しながら煮てるとこ。グツグツ火つけて煮てるとガス代かかるじゃん。新聞紙でくるんでからバスタオル巻いとくと、二十分位で火が通るからさ」


 西ちゃんはまん丸く見開いた目でグルグル巻きの鍋を見、それから首を巡らせてあたしを見て、感心しきった様子でため息をついた。


「……すげえな。俺ひととおり料理はできっけど、節約法とかは全然知らねえもんな」


「別にたいしたことじゃないよ。こんなん誰でも知ってるって」


 そんなことよりこの問題を何とかしないことには明日学校に行けない。

 手元のクマるんを座らせてみたり斜めにしたりしているあたしに、西ちゃんがうろんげな目線を投げる。


「……何やってんの? アヤカ」


「え? あ、いや、難しい問題とかって、こう、何かさ、いじりながら考える事ってない? クセなんだ、クセ」


 西ちゃんは手を洗うと、ワイシャツのボタンを外しながらあたしの手元を覗き込んだ。


「あー、ウジ村に出されたヤツか……しっかしあいつもひでえよな。何かって言うと柴崎目の敵にしてさ。その問題だって、解けたヤツ他に誰もいねえんだろ。何だって柴崎にだけ宿題で出すんだよ」


「知らないけど、なんかあいつ学校に来た当日からウジ村先生に気に入られてるっていうか目つけられてるっていうか。いじめたくなるタイプなんじゃん?」


 何気なく返したその言葉に、西ちゃんは二,三度大きく頷きながらクスクス笑った。


「分かる分かる、確かにあいつってなんていうか、いじめたくなるタイプだよな」


 言いながら、胸元を第三ボタンまではだけた状態のままで、その手をズボンのポケットに突っ込む。


「いつもオドオドビクビクしててさ、視線とか一定しねえし、目合わせられるとすぐに逸らすし、いやなことからは逃げようとするし」


 あたしの左手に包まれているクマるんの四肢が、ピクリと震えて突っ張るのがわわかった。

 ちょちょちょちょっと何言ってんの西ちゃん。

 あたしの焦りなどどこ吹く風といった様子で、西ちゃんは苦笑まじりに言葉を継ぐ。


「おまけにめちゃくちゃビビリだし、すぐ気とか失うし、吐くし、ホントしょうがねえよなーw」


 クマるんの強ばった体を左手に感じながら、慌てて西ちゃんの言葉をさえぎる。


「で、……でもさ、今日はあいつも相当がんばったじゃん。屋上で話したでしょ、須藤たちのこと……」


「でも結局は、精神の容量オーバー起こして機能停止しちゃったわけでしょ」


 クスクス笑いつつ「全くしょうがねえよなー」などと呟いてから、あたしを見つめてやけに優しくほほ笑んでみせる。


「取りあえず、着替えたら俺が料理の続きはやるから、ゆっくり考えなよ。どうしても分かんなきゃ、俺も一緒に考えてやるからさ」


 西ちゃんにしてはやけに貴公子然とした爽やかな笑顔に、何だか知らないけど心臓が大きく跳ねた。


「あ……ありがとう」


 ドギマギしてうつむくあたしの脇を通り抜け、西ちゃんは着替えを取りに奥の居間へ入っていった。

 ドキドキうるさい鼓動を鎮めようと深呼吸しているあたしの脳を、クマるん刺々しい送信が容赦なく突き刺す。


【彩南さん、ボーッとしてないで今のうちに問題見せてくださいっ】


「え? ……あ、ああ、ゴメン」


 慌ててクマるんを問題の書かれたノートの上にかざす。

 クマるんはじっと問題を見つめながら、小さく二,三度頷いた。


【区間 0<x<1 からランダムに数を一つ選ぶという試行を繰り返し,n回目に選んだ数を a[n] とする……このランダムって言葉はきちんと定義しないとまずいでしょうけど、要するに「(0,1)上の一様分布」ってことだから、そうするとa[1] + a[2] + … + a[n] が初めて1を超えるようなnの期待値は……ああこれ、できますよ。実際に式を書いてみないと考えがまとまらないけど、たぶん分かる】


「え……じゃあ言われたとおりに書くよ」


 慌ててシャーペンを握ってスタンバイする。


【いいですか、k=1,…,nに対して、k回目に選ばれた実数をXkとし…………】


「ちょちょちょちょっと待って、何? kイコール1……」


 正直、クマるんが何を言っているのか全然分からないので、書くのにすんごい時間がかかる。

 手間取っているうちに、着替えをすませた西ちゃんが居間から戻ってきてしまい、クマるんは慌ててパタリとノートの上に倒れ伏した。


「どぉ? 分かりそう?」


 通り過ぎざま、西ちゃんがひょいとノートを覗き込む。

 倒れたクマるんの下に、先ほどあたしが書いた文字がチラリと見える。


「お、書いてんじゃん。柴崎に教えてもらったの?」


「あ、う……うん、ちょっと書いたんだけど……し、柴崎泰広もさすがに難しいらしくて、ちょっと考えさせてくれって……」


 クマるんを動かす訳にもいかないので仕方なくそう答えると、ノート上に倒れ伏したクマるんがピクリと楕円の腕を震わせた。

 西ちゃんは「ふーん……」と呟くと、クマるんを邪魔そう押しのけて問題に目を通し始めたので、テーブルの端から落ちそうになったクマるんを携帯ごと慌てて抱き上げてやった。

 しばらくそうして問題とにらめっこしてから、西ちゃんはパッと表情を輝かせた。


「これ、もうちょっと時間もらえれば解けるかも。あとでさ、一緒に考えようよ」


「え、でも……」


 それだと、クマるんもとい柴崎泰広の立場が。


「いいっていいって、飯食ったあと、片付けしたら一緒にやろ。ね?」


 かがみ込んで顔を覗き込み、屈託なくにっこり笑う。

 その距離、およそ二十センチメートル。

 またもや血流が顔面に集中し、トカトカ火照ってくるのが分かる。 

 途端に、クマるんの裏返った送信が脳神経を震わせた。


【断ってください彩南さんっ、僕、この問題ほぼ解けてるんですからっ】


 キツイ送信に思わずこめかみを押さえ、キリで抉られるような感覚に耐えつつ、必死で曖昧な笑みを浮かべてみせる。


「に、西ちゃん、なんか柴崎泰広、これ分かってるみたい。大丈夫だって……」


「分かってるわりに解答遅いじゃん。ホントは分かってねえんじゃねえの?」


 西ちゃんはニヤニヤしながら、斜から疑いを含んだまなざしを投げてくる。

 クマるんのピキピキした感情をビリビリ感じるので、慌てて首を振った。これ以上あんなキツイ送信を叩きつけられたらたまったもんじゃない。


「あ、いや、マジで大丈夫だって。遅かったのは要するに、書き取るあたしが全然理解できてないから、言われた式を書くのに時間がかかってるだけで……」


 クマるんの面目を保つために正直に事情をうちあけたのだけれど、西ちゃんはそれを聞くなり勝ち誇ったように口の端をニヤリと引き上げた。


「なあんだ。そんなんなら、やっぱ俺とやった方がいいじゃん。俺なら式くらいすぐに書いてやれるもん。あっという間に終わらせられるよ?」


 そう言うと、半オクターブ声を低める。


「だいたいさー、分かってるとか言うなら、柴崎本人が出てきて書けばいいだけの話じゃね? それなのに、アヤカを間にはさんで七面倒くさいマネしかできねえとか、マジで使えねえし。そんなヤツ放っといていいよ。俺がいれば大丈夫だからさ」


 確かにそのとおりなんだけど、柴崎泰広には持病があるからそんなのは無理で……って言ってやりたかったけれど、なぜだか超至近距離でくるくる動く黒い瞳に魅入られてしまって、頭が思うように働いてくれない。

 

「ね、ア・ヤ・カ」


 念を押されて、思わず頷きそうになってしまった、刹那。

 強制的に意識が押し出される感覚とともに、三半規管を揺すぶられるような酩酊感を覚えて、あたしは思わず目をつむった。

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