68.……ご苦労さま
校長室のあるA校舎と教室のあるB校舎をつなぐ渡り廊下を、柴崎泰広は走るに等しい速さで進む。
【ねえねえ柴崎泰広どこに行くの?】
柴崎泰広はチラリと大きく左右に揺れるあたしに目を向けると、ケツポケから携帯を取りだした。
「理系クラスの教室です。どの教室かまでは分からないから探しますけど」
【何それ。そんなに急がないとまずいの?】
「そうですね。教室から出られちゃったら会える確率が低くなるんで。まあ、そうなったら昼休みでもいいんですけど」
【会うって……人?】
「人ですね一応」
なんだそれ。
よく分からない返答をしたきり口を噤んだ柴崎泰広を見上げているうちに、さっきの西ちゃんとのやり取りが頭によみがえってきた。
【にしてもさ、あんた凄い約束したよね】
「え?」
【西ちゃんと、とんでもない約束してたじゃん】
前方を見据える柴崎泰広の眉根に深いしわが寄る。
【あれ、マジでやってやんの? ご褒美の、キ……】
「実現する訳がないじゃないですかそんなもん」
吐き捨てるような言葉に送信をぶった切られた。
【実現する訳がないって……西ちゃん、パティシエにはなれないってこと?】
「そうは言ってません。この状況がそんなに長い間続く訳がないと言ってるだけです。西崎家側が、いつまでもこの状況を放置しておくはずがない。家を出ても安定して暮らせる環境があって、放っておいたら戻ってこないと分かれば、いくら頭の固いお父さんでも何らかの譲歩はしてくるはずです。歩み寄りがあれば、西崎さんだって家に戻った方が生活しやすい。冷静に将来を見据えた時、このまま高卒で通すことに揺らぎが出てくる可能性もないとは言えない。いずれにせよ、双方に歩み寄りが見られて、かなり高い確率でこの状況は解消されるはずですよ」
へえええ驚いた。
コイツ感情に流されないで、結構冷静に事態を分析してるんじゃん。
『学歴なんか関係ないですよ。本人の能力があれば……』
高校に通い続けることを勧めたあの時、柴崎泰広が口にしたあの甘い言葉が頭を過ぎる。
あの頃、あいつはやることなすこと甘すぎて、そのたびにあたしが現実を認識させて軌道修正に努めなければならなかった。結構たいへんだったんだけれど、そういえば最近は、そんなぶつかり合いをすることもなくなってきている気がする。
ふふふ。だいぶあたしの考えに毒されてきたのかもしれないな。
なんて思いつつも、ちょっと意地悪くこんな質問をしてみたり。
【でもさ、万に一つってコトはある訳じゃん。その時はさ、約束は守るんでしょ?】
柴崎泰広は眉根に深い縦皺を寄せて手元で揺れるあたしを睨み付けた。
「……あり得ませんよ。万に一つどころか、一億分の一の確率です」
【ふーん、でもゼロじゃないんじゃん。あたし的には、ちょっと見てみたい気もするなw】
柴崎泰広はピタリと歩みを止めると、右手でつかんだあたしを目の高さまで持ち上げ、唾を撒き散らしてがなり立てた。
「なんなんですかそのお気楽な言い種は! いったい誰のためにこんなとんでもない約束をさせられたと思ってんですか!」
【誰のためって……誰?】
「そんなの決まって……」
小首をかしげてじっと見つめてやると、柴崎泰広は気圧されたように言いかけた言葉を呑み込んだ。
【別にあたしは西ちゃんとスキンシップするくらい全然平気だし、最後までなんか絶対やらせない自信もあるし、そんなにビクビクしなくても大丈夫だよ? 第一、西ちゃんて口ではあんなことを言ってるけど、案外その辺の大事なラインはきっちり守ってくれる人だと思うし】
「……そんなこと分かりませんよ。男なんて、カッとなったら理性なんか軽々吹っ飛ぶんだから」
【へええ、そうなの? てことは、あんたも吹っ飛ぶ時があるってこと?】
「ぼっ、……僕は」
叫びかけた刹那、前方から女子二人連れが歩いてきた。あわててささやき声までボリュームを絞る。
「……と、とにかく今はやることやっちゃわないと。無駄口たたいてるヒマなんかないんだった」
【だからさ、理系の教室にいったいなんの用が……】
柴崎泰広は無言であたし付き携帯をケツポケにねじ込むと、再び飛ぶように歩き始める。
廊下にたむろする生徒たちの間を縫うように歩き、各教室をのぞいてまわる。
【ねえねえ柴崎泰広ってば、いったい誰を捜してんの?】
キツイ送信を叩きつけた途端、E組の教室を覗き込んだ柴崎泰広の動きが止まった。
体をねじって回転させ、柴崎泰広の視線の先を追う。
柴崎泰広の視線は、窓際でたむろする数人の男子生徒を捉えていた。
……というかあの顔、つい最近どこぞで見た覚えがあるような。
柴崎泰広は呼吸を整えると、意を決したようにその男子生徒の方へ足を踏み出した。
五人はキャハキャハ言いながらなにやら歓談していたが、ちょうどこちらを向いて座っていたツンツン頭の男子生徒が、近づいてきた柴崎泰広を見て訝しげに眉根を寄せた。
柴崎泰広はしかし、その男子生徒には目もくれず、その右隣で携帯に目線を落としている整った顔立ちの男――須藤にじっと険しい視線を注ぐ。
その熱い視線に気づいたのか、須藤はチラリと目線を上げ……表情をかっきりと凍りつかせた。
「ちょっとお話させていただいてもいいですか」
須藤が言葉もなく顔を引きつらせていると、後ろ向きで座っていた男……あの時のチャラ男だ……が不機嫌そうに振り返り、須藤と同様に息をのんで固まった。
「すみません。三分間だけお時間をください」
柴崎泰広が慇懃無礼に頭を下げると、須藤はいまいまし気に奥歯をきしませ、椅子を鳴らして立ち上がった。
「あ、別にいいですよここで。たいした話じゃないんで」
須藤をその場にとどめると、柴崎泰広は口の端で笑いかけた。
「なー須藤、コイツ誰?」
須藤の右隣に座る男子生徒が、不審そうに問いかける。
須藤は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかったのか、開きかけた口を閉じた。
「実はあの時、警察は呼んでいません。なので昨日のことは、まだ誰にも知られていないです」
「は? 警察って……なにそれ。なあ須藤、なんのこと?」
窓側に座る男子生徒が首をかしげて問いかけてきたので、須藤は目を見開いて息を詰め、慌てて大きく首を横に振った。
「いや、知らない。何のことだか、意味が……」
「僕や佐藤さんに今後一切関わらなければ、公にするつもりはありません」
ギャル男は柴崎泰広を見上げ、それから首を巡らせて恐る恐る須藤を見やる。
「約束していただけますか?」
「なあなあおまえ、何の言いがかりをつけてんだか知らねえけど、須藤は知らねえっつってんだろ? こいつが警察沙汰になるようなマネするわけがねーし、俺たちは今楽しく休憩時間を満喫してんの。どっか行ってくんない? 邪魔されっと、うぜえ……」
須藤の向かい側に立っていた強面の男子生徒が凄みをきかせるも、柴崎泰広は平然とした態度で頭を下げた。
「すみません、あと二分だけ待ってください」
それから、底光りする目を須藤に向ける。
「実は僕、あの時の出来事を携帯で録音してあるんです」
須藤は大きく目を見開いて息をのんだ。ギャル男も、驚愕とも畏怖ともつかない表情でかじろぎもせず柴崎泰広を見つめる。
柴崎泰広はその視線を静かに受け止めながら、おもむろにケツポケのあたし付き携帯を手にとった。
「情報は別の場所に保存済みで、僕や佐藤さんになにかあれ自動的に学校と警察に送られるようにしてありますが、録音内容を確認したければ、今ここで確認することも可能です。……確認しますか?」
柴崎泰広の指が携帯に伸びると、須藤は真っ青になって手を振り回した。
「や……やめろ! 分かった! 分かったから……」
柴崎泰広は携帯をケツポケにしまうと、ゆったりと須藤を見下ろした。
「僕にも佐藤さんにも、今後一切かかわらないでくださいね。約束ですよ。今ここにいる皆さんが証人ってことで、よろしくお願いします。あとのお二人にも、そのことはきっちり伝えておいてくださいね。彼らが勝手なことをした場合でも、情報は自動的に送られるので」
ぼうぜんとした様子で固まっている須藤とギャル男、そして、なにがなんだかわからない様子であっけにとられている三人に軽く会釈すると、踵を返して悠然と立ち去る。
ケツポケで揺れながら、窓際にとり残された須藤たちの様子をそっとうかがった。
半分口を開けてぼうぜんと天井を眺めている須藤の隣では、ギャル男が引きつった表情で凍りついている。残りの三人はそんな二人に、今の怪しげな会話についてあれこれ問い糾している風だ。
連中の姿が見えなくなってから、無言で廊下を進む柴崎泰広に、興奮気味に言葉をかけた。
【いやいやいやちょっとなんなの柴崎泰広。あんた、いつ録音なんかしてたわけ?】
柴崎泰広は言葉を返すこともなく、より一層足を速める。
【いやー、マジでびっくり。須藤とかいうあの男の顔ヤバすぎだし。てかあんた、あの時録音してたなんて、あたしも全然気がつかなかったよ。いやー、なんかちょっとマジで見直しちゃったかも☆】
興奮気味の送信を送り続けるあたしに構わず、柴崎泰広は廊下の突き当たりにあるトイレにそのまま真っすぐ突き進む。
【……え? あれ? ちょっと柴崎泰広、トイレならあたしを外に置いてってよ……って、ちょっと!?】
制止の声も聞かずに一番奥の個室に入ると、勢いよく扉を閉めて鍵をかける。
【ちょっとってば!】
蓋の閉まった便器の上によろよろと腰を下ろすと、両手で顔を覆い、体全体の空気を全て吐き出すようなため息とともにつぶやく。
「……怖かった」
……へ?
【いや、……何? あんたさ、さっきまでの元気はいったい……】
便器の蓋の上によじのぼって横合いから見上げると、顔を覆っている柴崎泰広の手が、細かく震えていることに気がついた。
「……いや、ああいう時って、ビクビクしたり弱気だったりしたら逆に付け込まれてヤバいじゃないですか。そのくらい僕も知ってたから、必死でハッタリかましてただけで……」
野獣の襲来に怯える小動物のようなその態度に、思わず吹き出しそうになってしまった。
【やだ……ちょっと柴崎泰広、さっきまでの態度とギャップありすぎで草。そのくせ冷静に録音してたとか言うし、マジで意味分かんない】
「録音なんかしてないです」
【は?】
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
一時停止ボタンを押されたかのように動きを止めているあたしを尻目に、柴崎泰広は体中の二酸化炭素を絞り出すようなため息をついた。
「あの状況でそんな気の利いたこと、やれてたわけがないじゃないですか。ただ、ウソでも何でも釘を刺しておかないと、またいつか絶対に手を出してくると思ったから……」
【え? ちょっと待って。じゃ……じゃあ、さっきあいつらに言ってたことは、なにからなにまで全部、ハッタリだった……ってわけ?】
柴崎泰広は青ざめた顔を手で覆ったまま、こくりと頷く。
……ええええええええええっ!?
「だからドキドキしてたんですよ……録音を聞かせろって言われるんじゃないかって。自宅のパソコンに取り込んであるって言うだけでも良かったのかもしれないですけど、それだと説得力がないし、今この場での暴力を抑止する力も弱くなると思って……まあ、その緊張があったせいか、吐き気の方はあまり感じずに済んだんで、それはよかったんですけど……」
そこまで言うと、柴崎泰広は再度大きなため息をついた。
柴崎泰広の顔は、顔を覆っている両手と髪に隠されてほとんど見えない。ただ、手の届きそうな位置に垂れ下がっている茶色い前髪が、光を反射しながら細かく震えているのがはっきりわかる。
録音もなにもない状態での、犯罪者を目の前にした百二十パーセントのハッタリ。こんなこと、普通の人がやったって十分に怖いのに、男性恐怖症で引きこもりだったコイツのヘタレな精神にとっては、想像を絶する負担だったに違いない。
でも、コトを起こす前、コイツは一言もそのことに対する不安や弱音を吐かなかった。たぶん、自分がやらなきゃならないって、覚悟をきめていたに違いない。
【……ご苦労さま】
もろもろの思いを込めて声をかけると、柴崎泰広は顔を覆ったまま、無言で小さく頭を下げた。