67.うっわ、なにそれ
まだ授業中とあって、薄暗い廊下には人気もなく、前をゆく奥さまのスリッパが廊下をたたく音と、その後ろを歩く西ちゃんと柴崎泰広、さらにその後ろに続く校長の足音が重なり合いながら響き渡っている。
職員玄関できゃしゃなヒールの靴に履き替えると、奥さまは柴崎泰広に向き直り、居住まいを正した。
「じゃあ柴崎さん、しばらくの間、このバカ息子をよろしくお願いします」
「あ……ハイ、分かりました。でもどうかお気になさらずに」
恐縮する柴崎泰広に深々と頭を下げてから、隣に立つ西ちゃんに鋭い視線を投げる。
「宗一、くれぐれも言っとくけど、一日でも生活費を滞納したり、ちょっとでも柴崎さんのカンに障ることがあったりしたら、即座にウチに戻ってお父様の意向通りに進路変更ですからね」
「あーはいはいわかりましたって」
かれこれ五回以上繰り返されたその言葉に、西ちゃんは苦笑混じりの笑みを浮かべながら面倒くさそうに頷いてみせる。
「柴崎さん、宗一絡みでなくても、生活でお困りのことがあったら遠慮なく仰ってくださいね。われわれの方でも、できる限りのことはさせていただこうと思っておりますから」
「あ、は、はい。ありがとうございます」
やはり五回以上繰り返されているそのセリフに、柴崎泰広も曖昧な笑みを浮かべながらうなずく。
「父親の説得は……善処してはみますが、いい結果が出せると確約はできません。父親も父親なりに考えていることがありますし、社会的な立場もありますから。いつまでお世話になる、というお約束ができなくて、本当に申し訳ないのですが」
「いえ、本当に気になさらないで下さい。空いている部屋を一部屋貸すだけの話ですから、うちの方には何の負担もないです」
丁寧に頭を下げると、奥さまはパンパンに膨らんだ通学カバンを西ちゃんの鼻先に突きつけた。
「宗一、残りの荷物は宅配便で送るけど、取りあえずこれ。教科書類、詰められるだけ詰めておいたから。まさか今日の今日会えるとは思ってなかったから、お弁当は入ってないわよ」
「あ、それなら大丈夫。ピンクの弁当箱だけは持ってきてあったから、柴崎んちで作ってきた」
「全く、そういうところだけはぬかりがないんだから……」
肩をすくめてから、後ろに立つ校長に向き直り、深々と頭を下げる。
「それでは校長先生、いろいろとお騒がせして申し訳ありませんでした」
「あ、いや、とんでもないです。取りあえず話がまとまってよかったです」
刹那。ヒゲ校長を見つめる奥さまのまなざしに、ほんの一瞬だけ鋭い気迫がみなぎる。
「先ほども申し上げましたとおり、主人はもめ事が外部に漏れますと非常に厄介な立場におります。今回の件は、なにとぞご内密にお願いいたします。なにかありましたら、私どもが責任をもって対処いたしますので」
「わ、分かっております。今回の件は内密に処理いたしますので」
ヘビに睨まれたカエルのごとく身を縮めて頭を下げるヒゲ校長に、奥さまは余裕の笑顔で頷き返すと、柴崎泰広に再度目礼してから、優雅な足取りで学校をあとにした。
ぼんやりその後ろ姿を見送っている柴崎泰広に、ヒゲ校長は渋い表情を浮かべながらチラリと目線を流した。
「……ま、とにかくまるく収まってよかったが……柴崎くん、本当に大丈夫なんだろうね。あとで親御さんと話がこじれるなんてことになると、学校側としても内密には済ませられないんだが」
「大丈夫です。心配いりません」
「西崎くんも、いくらお母さんが了解してくれているとはいえ、君のやっていることは本来なら黙認できない類のことなんだからね。もし万が一、お父さんの方から問い合わせがあれば、学校側としては君のフォローは一切できない。ありのままをお伝えするから、そのつもりで」
「分かってます。母も言っていたとおり、この件に関して、学校側の責任は一切問いませんので」
西ちゃんがそういって頭を下げると、校長はまだ何か言いたげに口の中でブツブツやっていたが、やがて頭を振り振り校長室の方へ歩き去った。
「……ま、こんなむちゃができんのも、オヤジのおかげっちゃオヤジのおかげだかんな。おまえが言ってたことも、あながち間違っちゃいねえってか」
西ちゃんの自嘲気味な呟きに、校長の後ろ姿を見送っていた柴崎泰広は、首を巡らせて西ちゃんを見上げた。
その視線に応えるように、西ちゃんもポケットに両手を突っ込んで柴崎泰広を見下ろす。
「結構グサッときたんだぜ、おまえの発言。ああやっぱ、俺ってそういう風に見られてんだなって」
……え?
西ちゃんが何に対してそう言っているのかさっぱり分からなくて、思わず首をひねった。
今回、柴崎泰広は全面的に西ちゃんを擁護した。あたし的にもそれは相当に意外なことで、どうして突然そんな態度をとったのか問い糾したいくらいだったけれど、西ちゃんに対して不当な発言をしていた記憶は特にない。
そんなあたしとは対照的に、柴崎泰広は何か思い当たることがあったのか、気まずそうに目線を落として小さく頭を下げた。
「すみません。思ってることをストレートに口にし過ぎたってあとで気づいたんですけど……なんか、あの時はそんなことまで考えてる余裕がなくて」
「いいよ。別にホントのことだから」
西ちゃんは肩を竦めてちょっと笑うと、教室方面に向かって歩き出した。
柴崎泰広もその斜め後ろに黙ってついて歩く。
「そういう見方から解放されたかったってのもあるんだ、パティシエを目指したのは。小さい頃から、いつでも何でもなにしても、オヤジの影がついて回ってさ。すごいお父さんね、さすが優秀な検事さんの息子さんねとか言って……それがイヤで、徹底的に自立した人間になりたくて、掃除でも洗濯でも料理でも、身の回りのことは全部完璧に自分でできるようにしてみたりとか。ま、確かに今は大不況だし、くだらねえプライドを振りかざしてること自体が人生に対する甘えであって、利用できるコネは最大限利用して生きのびるすべを手に入れるべきって考え方があるのも分かってる。分かってっけど、そんなことをしたら、マジで自分の人生にはこの先一生、いつでもどこでもオヤジがセットでついてまわることになる。自分で自分を信用できなくなる。それがどうしてもイヤでさ」
そういうことか。
西ちゃんが、柴崎泰広のどの発言に引っかかっていたのか、やっとわかった。
『西崎さんならご家庭の後ろ盾という強力な安全ネットがある』
『使えるものはなんだって使えばいい。それが可能な環境にあるんだから、恥じることなんて何もない』
あたしらみたいになにも持たない人間からしてみれば、コレはある種の賛辞に値する。でも西ちゃんにとっては、いたくプライドを傷つけられる発言だったんだ。
西ちゃんは頭の後ろで両手を組むと、自嘲気味な笑みをこぼした。
「ま、そんなことを気にしてること自体、おまえらからしてみれば甘いって言われそうなんだけど」
「いえ、僕ももう少し言葉を選ぶべきでした。とにかくさっきまではなんというか、……頭にきてて」
「そーそー。おまえ、珍しくガチギレしてたよな」
嬉しそうに振り向いた西ちゃんの目線から逃げるように、柴崎泰広はますます目線を落とした。心なしか、首筋が赤い気がする。
「……だ、だって、人のいないところで勝手に人の名前を出して、不幸だの弱者だのって連呼してんですよ。頭にこない方がどうかしてます」
「よーするに、おまえもプライドを傷つけられたってわけだ」
そう言うと西ちゃんは、俯いている柴崎泰広の顔を楽しそうに覗き込んだ。
「おんなじじゃん、俺たち。ひょっとしたら、これからもっと仲良くなれるかもよ?」
柴崎泰広は飛び退ると、接近してくる西ちゃんを三白眼で睨み付ける。
「……それとコレと話が別です。西崎さんに言いたいことはたくさんあるんですから」
「あ、そーいやさっきもそんなコト言ってたっけ。なに? 俺に言いたいコトって」
「……西崎さん、アヤカさんに失礼なこと言いましたよね」
……え?。
「は? 俺アヤカになんかヘンなこと言ったっけ」
「確かに女の子なんだ、とか何とか……」
しばらくは何のことだか分からなかったらしくしきりに首をひねっていた西ちゃんだったが、ややあって「あ」と小さな声を上げて目を見開いた。
柴崎泰広はそんな西ちゃんを睨み上げながら、半オクターブ低い声で言葉を継ぐ。
「アヤカさん、結構傷ついてたんですよ。女の子なのに男の体しか持てなくて、一番つらい思いをしてるのはアヤカさんなのに……あとで交代したら、ちゃんと謝っといてくださいね」
柴崎泰広が吐き捨てると、西ちゃんは決まり悪そうに頭をかいた。
「悪かった。確かにそうだよな。俺って自分がわりと何言われても平気なせいか、けっこう失言が多いのが玉にきずで。あとでちゃんと謝っとくし、これからは気を付けるから」
いいんだよ別に気にしてないから。
西ちゃんが自分の非をすんなり認めたことで精神的に優位に立ったのか、柴崎泰広はいくぶん強気の態度で言葉を継いだ。
「僕、今回の件では、西崎さんにわりと大きな借りができたと思うんですけど、違いますか?」
「んー……まあ、そーとも言えるかな」
西ちゃんは嘯きつつ、楽しそうにそんな柴崎泰広を眺めやる。
「今回、西崎さんをウチに置くにあたって、ひとつだけ絶対に飲んでほしい条件があるんです」
「条件? どんな?」
「あの家にいる間、この体には指一本触れないこと」
「へえ」
西ちゃんはわざとらしく目を見開いてみせた。
「昨日も見ていたら、アヤカさんがこの体に入ってるのをいいことに、必要以上に近づいたりベタベタ触ったりなんだり……僕ならまだしも、アヤカさんはガードが緩すぎる。あの家にいる間は、僕の体には指一本触れないでくださいね。この条件が飲めないなら、即ご自宅に連絡して共同生活の契約は破棄しますから」
「ふーん……」
西ちゃんは横目で柴崎泰広を見やりながら、口の端をつり上げた。
「不安だからあらかじめ予防線張っとくって訳? ちょっとずるくない?」
柴崎泰広はドキッとしたように動きを止めた。
「ず、……ずるくなんかないです。だって、アヤカさんと交代したら僕は手も足も出せないわけだし、この程度の縛りがあったって、別に……」
「つかさ、一番初めの時、俺、おまえに宣言してたはずだよね? 俺がアヤカに何をしようとそれは俺とアヤカの問題であって、おまえは関係ないから口出すなって。あの約束が破棄されるってことは、例の夏波の件に関しては警察に垂れ込んでもいいってことになるわけ?」
「いや、それは……」
言い返しようがなくなって口ごもりながら目線を落とす柴崎泰広を、西ちゃんはニヤニヤしながら眺めやった。
「でもまあ、いいよ。確かに今回、ひとかたならぬお世話になってるのは確かだし。その条件、のんでやっても」
「……ホントですか?」
突然の承諾にパッと顔を輝かせかけた柴崎泰広のアゴを、西ちゃんの右手がすかさず捉えて俯かせないように固定する。
唐突でダイレクトな接触に、柴崎泰広は息を呑んで固まった。
「その代わり、俺にもなんか、ごほうびちょーだい」
「ご、……ごほうび?」
「そ。おまえとの約束を守りきった、ご・ほ・う・び☆」
そして西ちゃんは、なんとも無邪気な笑みを浮かべながら、恐ろしい言葉を口にする。
「卒業まで約束が守れたら、ごほうびに、キスしてw」
……は?
「……⁉」
柴崎泰広は瞬きも呼吸も停止して固まった……いや、ひょっとしたら、心臓の鼓動すら一瞬停止したかもしれない。
……うっわ、なにそれ。マジで?
千々に乱れるあたしたちの内心にお構いなく、西ちゃんはいかにも楽しそうに言葉を継ぐ。
「今の話からすっと、俺、これから先も一つ屋根の下でずーっとお預け状態でガマンしなきゃならない訳でしょ。俺の子犬ちゃん元気よすぎるし、そんなにしつけがなってないから、ダメダメ言ってるだけじゃすぐに限界が来てリードぶち切って暴走しちゃうかもしんないじゃん。そうならないために、ゴール地点に何かどでかいご褒美がほしいわけ☆」
「ゴ、……ゴール地点?」
うつろな表情で繰り返す柴崎泰広に、にっこり笑顔で頷いてみせる。
「そ。俺がおまえとの約束守りきって、自由が原のケーキ屋に就職するっていうのがゴール。もちろん約束を破ったり、親の意向に負けて違う道に流れたり、ケーキ屋に就職できなかった時は破棄していいからさ☆」
そうして、強引に上向かされて引きつっている柴崎泰広の顔に熱いまなざしを注ぎながらささやく。
「……そーしないと、俺のカワイイ子犬ちゃん、欲求不満でおかしくなって何やらかすか分かんねえよ?」
柴崎泰広の顔から、音を立てて血の気が引いた。
「わっ……分かりました、約束します! 約束しますから……は、離してくださいっ」
ちまちまと前髪をいじくる西ちゃんの左手を柴崎泰広が決死の形相で振り払うと、西ちゃんは言質をとったとばかりにサッと手を引いた。
「OK」
溜めも逡巡も一切なくあっさりと手を引かれた反動で、柴崎泰広は廊下に倒れ込んだ。そのまま両手を床につき、がっくりとうなだれて、蚊のなくような声で呟く。
「……今、僕は猛烈に反省しています。何でさっき校長室で、あんな仏心を西崎さんみたいな相手に見せてしまったのかって……」
「今更反省しても遅いのよ柴崎くん、ま、そーゆーことで、今後ともヨロシクw」
その時、やけに軽やかなチャイムの音が二人の頭上を駆け抜け、人気のない廊下いっぱいに響き渡った。
「お。二限終わった」
へたり込んでいた柴崎泰広は、その言葉にはっと顔を上げた。
「中休みですか?」
「そー思うよ、時間的に」
腕時計を見た途端に柴崎泰広が勢いよく立ち上がったので、西ちゃんは目を丸くして仰け反った。
「うぉ、何? なんかあんの?」
「ちょっとやっとかなきゃならないことがあって……すみません西崎さん、僕もう行きますね」
「へ? 行くってどこへ……」
そう言って西ちゃんが振り返った時には既に、柴崎泰広の姿は渡り廊下の向こうに消えていた。