66.本当にそのとおりだ
奥さまは湖のほとりに咲く水仙のような佇まいで、凛と背筋を伸ばし、真っすぐに柴崎泰広を見つめている。
否応なくのしかかる威圧感に、柴崎泰広はゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
口元にふんわりとしたほほ笑みを浮かべた奥さまが、上品な口紅に彩られた唇から、鈴を転がすような美声を紡ぎ出す……。
「あー、やっと邪魔者が消えてくれてホッとしたわね」
……は?
両目を点にして機能停止するあたしと柴崎泰広を横目に、奥さまは清楚なシフォンワンピースに包まれた両腕を頭上に差し上げ、思いっきり伸びをした。
「ありがとう柴崎くん、君のおかげで話しやすくなったわ」
何と返していいやら分からず混乱しているのか、助けを求めるように自分を見た柴崎泰広に、西ちゃんは困ったような笑みを投げた。
「ゴメンな、コレがうちの母ちゃんの本性だから」
「宗一、家の外で母ちゃんは禁句でしょ。お母さまとお呼びなさいお母さまと」
「お母さまってキャラじゃないだろすでに」
鼻で笑い飛ばしてから、フカフカの背もたれに体を沈める。
「いやー、母ちゃんが来てるって呼び出された時はマジでビビったよ。一言も喋らねえで黙ってるし、怖い顔してるし、てっきり父さん側に寝返ったのかと思って焦ったけど……こうやって教師を追い出してくれたってことは、そういうわけでもないって理解でOK?」
「そう断定するのも拙速ね。あなたの方からは決意のほどをなにも聞いていないわけだし。判断するのはその後よ」
奥さまはそう言うと、背もたれにふんぞり返ってくつろぎムード全開の西ちゃんに冷たい視線を投げかける。
「……第一、家出をするならもう少し考えて行動するべきでしょ。どでかい荷物を抱えて出ていったから当座必要はものは持って行ったんだろうと思ったら、教科書は置きっぱなし、制服の替えも置きっぱなし、はては下着やあなた名義の銀行カード、預金通帳さえも置きっぱなしで。いったい何を持って行ったのかと思ったら台所は空っぽになってるし。全く、考えなしにもほどがありすぎでしょ。一週間くらい放っておこうと思ったのに、これじゃ出て来ざるを得ないじゃないの」
気迫みなぎる目で西ちゃんを睨むと、今度はガラリと表情を変えて柴崎泰広に向き直る。
「……さて、柴崎さん。このたびはウチのどら息子がご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。幾晩お世話になったかは存じませんが、野宿をしていたわけではないと知って、本当にほっといたしました。改めて、厚くお礼申し上げます」
そう言って深々と頭を下げてから、前に座る西ちゃんにギロリと鋭い目線を投げる。その視線に打たれたように、西ちゃんも慌てて頭を下げた。
二人から深々と頭を下げられてしまい、柴崎泰広は戸惑い気味に頭を振った。
「……あ、いえ、とんでもないです。全然、たいしたことはしていないです」
「お母様には日を改めてごあいさつに伺おうと思っております。お仕事でお忙しいと思いますので、ご都合のいい日を教えていただきければ……」
「あ、そのことなんですが……」
柴崎泰広は言いにくそうに口を挟んだ。
「このことは学校側には伝えないでいただきたいんですが、実は今、僕はあの家で、一人暮らしをしているんです」
奥さまはポカンとした表情で動きを止めた。
……ええええコイツなに突然カミングアウトしてんの!?
焦りまくって体を起こしかけたあたしの内心に構うことなく、柴崎泰広は淡々と言葉を続ける。
「実はそのことをお伝えしたくて、先生方には退席していただいたんです」
「……どういうことなのか、詳しくお聞かせ願えるかしら」
奥さまが促すと、柴崎泰広は目線を落としてこくりと頷いた。
「僕の母親は三月末、突然行方不明になりました。たぶん付き合ってた男の所に行ったんだと思いますが……それで今、僕はあの一軒家で一人で暮らしをしています。貯金もありませんでしたし、家財を売ってバイトをしながら何とか食いつないでいる状態なので、とてももう一人を養う余裕はないです。なので、西崎さんには本当に寝る場所をお貸しするだけで、西崎さんは西崎さんできっちり自活してもらって、生活費を入れていただければと思っています。家事も分担してもらいます。つまり負担は折半ですから、ウチに滞在するのに申し訳ないとか、お世話になってるとか、そんな風に思っていただく必要は一切ありません。雨露しのいで寝る場所を提供してるだけです。親もいませんから、あいさつの必要もありません。それをお伝えしたくて」
語り終えてしばらくの間奥さまの反応はなかったけれど、ややあって、困り果てたような雰囲気の小さなため息が唇から漏れた。
と、それまで黙って聞いていた西ちゃんが、重い口を開いた。
「俺も、最初はこいつの世話になるつもりなんてなかったんだ。自由が原のケーキ屋にかけあって、住み込みで働かせてもらおうって考えてたから。高校も通うつもりはなかった。そうしたらコイツの別人格……あ、いや、コイツにそんなんじゃ甘いって諭されて。ケーキ屋のオヤジさんだって自分の生活がかかってる訳だから、俺なんかに転がり込まれたら迷惑だし、確実にその道でものになるとも限らないんだから、最低限高校くらいは出ておいた方がつぶしが利くって……それを聞いて、確かにそうだなって思いなおしてさ」
その言葉に、奥さまは深々と頷いた。
「そうね。ケーキ屋さんだってご自分たちの生活がある。いきなりそんなこと言われても迷惑でしょう。たとえ支えてあげたい気持ちを持ってくださったとしても、どうしたってムリがかかるわ」
西ちゃんは頷くと、心なしか自嘲気味の笑みを浮かべた。
「誰にも迷惑かけないでがんばれれば格好いいかもしれねえけど、現実問題、俺は誰かに迷惑をかけなきゃ今のところ一人で生活を成り立たせることなんかできない。それなら、できるだけ実現可能な方法を選択して、かける迷惑は最低限になるようにして、一日でも早く自立して、迷惑かけたヤツに恩返しをするのが筋だと思った。だから学校にも行きながら、コイツにはマジで申し訳ないけど、卒業するまでの間だけ世話になることに決めたんだ」
言葉を切って目線を落とす西ちゃんを、奥さまは長い睫毛に縁取られた大きな瞳でじっと見つめた。
「……他人様に迷惑をかけないですむ方法も、あるのよ」
西ちゃんは、黒光りするテーブルの表面をじっと見つめて黙っている。
「お父さまの言うとおり法科大学院のある大学に行って、修習生になる。検事でも弁護士でも、あなたの能力なら十二分に可能性がある。誰に迷惑をかけることもなく、一番確実で、一番実現可能な道。この安心安全な道を捨てて、あえて不安定で可能性の低い道を選択するなんて……先生もおっしゃっていたけど、お父さまや私じゃなくても、誰だって心配になるわよ」
「……母ちゃんは、応援してくれてるんじゃなかったのかよ」
「応援してるなんて言った覚えはないわよ」
奥さまはピシャリとそういうと、冷めたお茶で喉を潤す。
「反対するつもりがないだけ。あなたの人生なんだから、あなたの選択に任せて然るべきだもの。ただ、そこに潜むマイナス要素は、きちんと認識した上で選択してほしいと思ってる。親の意向に沿うのがイヤだ、なんていう子どもじみた理由だけで他人様に迷惑をおかけすることもできないしね」
ゆっくりとした動作で湯飲みを置くと、俯いている西ちゃんに視点を合わせる。
「一つだけ感心していることはあるわ。柴崎さんの助言を素直に受けて、高校に行き続ける道を選択しなおしたこと。頑固に自分の計画を押し通そうとせず、他人の助言を聞き入れて柔軟に対応したのは評価できるわね。でも、柴崎さんの状況を聞いた以上、あなたのワガママを押し通すのもどうかと思ってるのが正直なところね。この年で一人暮らしをしているだけでもたいへんなのに、その上、あなたみたいなやっかい者まで背負いこませるなんて、……」
「ですから僕はなにもしていないです。普段どおりに生活して、自分の分しかお金も出さない。西崎さんには毎月、食費と光熱費を二万円入れていただきます。それが滞ったときはご実家に連絡をさせていただきますが、家事を分担してもらえればその分楽もできますし、迷惑でもなんでもないです」
奥さまは、柴崎泰広に目を向けた。
柴崎泰広奥さまの視線を正面から受け止めつつ、静かに言葉を続ける。
「……僕は、先ほども言いましたが、西崎さんのことを凄いと思っています。自分の思うとおりに生きてほしいし、ぜひその夢を実現してほしいとも思ってます。失敗したっていいじゃないですか。もし万が一崖から落ちたとしても、西崎さんならご家庭の後ろ盾という強力な安全ネットがある。取り返しのつかない事態には絶対にならないと思うんです。使えるものはなんだって使えばいい。それが可能な環境にあるんだから、恥じることなんて何もない」
複雑な表情を浮かべる奥さまに、ほんの少し口角を上げて笑いかけてみせる。
「人は平等じゃありません。与えられる能力も、生きる環境も、見てくれだって千差万別です。それは仕方のないことです。僕たちは与えられた能力と立場で生きていくしかないし、不当な差別がもってのほかなのは当然として、生まれつきいいモノを持っているからといって必要以上に縮こまる必要も全くない。与えられているものを存分に生かして、好きなように生きればいいと思います。ノブレス・オブリージュじゃないですが、大成した暁にでも、その恩恵を社会全体に返していただければそれで十分です。もし、僕らみたいな人間に気を使って縮こまられるんだとしたら、それは逆に不愉快です。僕らだって僕らなりに、精いっぱい生きてるんですから」
『人は平等じゃありません』
膝の上に寝ころんで柴崎泰広を見上げながら、噛みしめるようにその言葉を繰り返してみる。
本当にそのとおりだ。
貧乏一家に生まれ、両親に自殺され、売春まがいの行為をしてまで何とか生きようとしたけど、あっけなく車に轢かれて短い一生を終えた、あたし。
早くに父親に死なれ、原因不明で修復困難なトラウマに悩まされ続け、母親に捨てられて生活が立ちゆかなくなり自殺未遂をした、柴崎泰広。
確かにあたしたちは運がなかった。不幸といってもいいかもしれない。でも、広い世の中を見渡せば、あたしらなんかよりさらに「不幸」な人はごまんといる。
先天的な病気で、生後すぐに死んでしまう赤ちゃん。
苛烈な貧困で食べるものもなく、絶望しながら餓死する子ども。
国外に目を向ければさらに、飢えや病気、戦争なんていう本当にどうしようもない事態に直面している人が数え切れないほど存在するわけで。
人生なんていろいろで。
一個人には抗いようも選び取りようもなくて。
だからといって、幸せな人をうらやんで、ねたんで、絶望しても、なにも事態は変わらない。
確かに西ちゃんは、両親がそろっていて、社会的地位の高い裕福な家庭という、あたしらなんかから見たら涎が出るほど羨ましい環境で育ってきている。
だけど、西ちゃんだって自分の性向や将来について真剣に悩んでいたし、苦しんでもいた。
夏波だってもしかしたら、学校を休みがちになったのには、何か理由があったのかもしれない。
みんな生きている限り、それぞれが与えられた環境の中で、それぞれの人生を思い悩む。
『僕らみたいな人間に気を使って縮こまられるんだとしたら、それは逆に不愉快です。僕らだって僕らなりに、精いっぱい生きてるんですから』
柴崎泰広は柴崎泰広なりに。
そしてあたしは、あたしなりに。
たとえどんな苦境に追い込まれたとしても、そういう小さなプライドだけは絶対に捨てずに、精いっぱい前を向いて毅然と生きていければそれでいい。そんな気がした。
黙って柴崎泰広の言葉に耳を傾けていた奥さまは、つややかな頬を引き上げてほほ笑むと、柴崎泰広に向き直って居住まいを正した。
「ありがとう、柴崎さん」
「あ、いえ……」
深々と頭を下げられてしまい、柴崎泰広は目線をさまよわせながら言いよどむ。
奥さまは体を起こすと、今度は西ちゃんに真っすぐ向き直った。
それに応えるかのように、西ちゃんも背もたれに寄りかからせていた体を起こす。
芝居がかった重々しさすら漂わせながら、奥さまは静かに口を開いた。
「宗一」
「はい」
「聞かせてちょうだい。あなたがこの先どうしようと思っているのか。あなたなりの展望を、できるだけ具体的に」
西ちゃんは奥さまの視線を真正面から受け止めながら、真剣な表情で頷いた。
「……まず、高校はきちんと卒業しようと考えてる」
自分の思いを確かめるようにゆっくりと紡ぎ出される息子の言葉を、奥さまは身じろぎひとつせず、一心に聞きいっていた。