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64.何言ってんのこのおばさん

 柴崎泰広は上履きのかかとをつぶしたまま、人気のない廊下を早足で進む。

 すでに呼名が始まっているらしく、姿勢を低くして通り過ぎた前扉の小さな窓からは、黒い出席簿を手にして立つ担任の姿がチラリと見えた。 

 なるべく音を立てないようにそろそろと後ろ扉を開き、かがみ込んだ姿勢のまま教室内に忍び込む。


「笠原さん」


 すぐ目の前に座っている女子が「はい」と返事をした。担任教師の目線がちらりとこちらに向けられる。


【ヤバ、柴崎泰広、もっと姿勢低くして】


 柴崎泰広は慌てて床にへばり付くと、ほふく前進のような格好で自分の席を目指して進む。

 

「剣持さん」


 間もなくカ行の呼名が終わる。サ行に移る前に、できれば席に着きたいところだ。


【急いで柴崎泰広】


「急いでますって」


 呼気たっぷりのささやき声で応じると、柴崎泰広は少し姿勢を高くしてスピードを上げた。全く。余裕の時間に登校した西ちゃんとはえらい違いだ。

 ぶら下がった体が床にこすれそうになりつつ、座席の隙間からチラリと西ちゃんの席の方を盗み見る。


 ……あれ?


 もっとよく見ようと意識を凝らした瞬間、ブワッと体が持ち上げられ、椅子の背もたれと尻の間に挟み込まれてしまった。

 呼名は淡々と継続される。


「佐藤さん」


「はい」


「柴崎さん」


「は……はい」


 呼名が止まった。

 担任教師は視線を上げ、金縁メガネの縁を冷たく光らせながらブリッジをツイと押し上げた。


「ギリギリ過ぎますよ。もう少し余裕を持って家を出てくださいね」


 ……気づかれてた。


「……はい。す、すみませんでした」


 呼名が再開された。柴崎泰広は腹の中の二酸化炭素を絞り出すようにため息をついてから、ようやく思い出したようにケツと背もたれの隙間からあたしを救い出した。

 ようやく自由になった首を伸ばして西ちゃんの席を確認していると、柴崎泰広は怪訝そうに首をかしげた。


「どうしたんですか彩南さん」


【……西ちゃんがいない】


「え?」


 柴崎泰広もあたしの目線を追って窓際方面に顔を向ける。

 その時、タイミング良く西ちゃんの名前が呼ばれた。


「西崎さん……は、今ちょっと所用で校長室の方に行っていますが、出席はしています」


 ……校長室?

 嫌な予感が編み目をかすめる。

 柴崎泰広も緊張をにじませてあたしを見た。


「彩南さん、校長室って……」


【うん、ヤバイやつだね。柴崎泰広、コレが終わったら行ってみよう】


「え? 行くって……」


 聞き返した柴崎泰広に、斜め前の席に座る佐藤夏波がチラリと視線を送る。


【あんまり大きい声出さないでよもう、決まってるじゃん。ホームルームが終わったら、次の英語はサボる。いいね】


 柴崎泰広は目を丸くしたが、慌てたように二、三度大きく頷いてそれに応えた。



☆☆☆



「行くって、西崎さんのところ……校長室、ですよね」


 あたし付き携帯を右手に握りしめた柴崎泰広は、廊下を早足で歩きながら小声で問いかける。


【うん。思ったより展開が早かったね。まあ、学校に連絡が行くのは当然だし、予想してたことではあるんだけど……この行動の早さから考えると、西崎家としても西ちゃんが必要で、絶対に諦める気はないってことなのかもね】


「それって、かなり厄介じゃないですか?」


【でもまあ逆に言うと、交渉次第では、むちゃな要求も通せる可能性があるってことになんじゃない?】


 つまり、ある程度西ちゃんの要求をのませて、以前よりいい条件で家に帰れる可能性がゼロではないということ。

 柴崎泰広を助けてもらいたいあたしからしてみれば、ウチにこのままいてもらった方がありがたいのは確かだけれど、西ちゃん個人の人生と幸せを考えた時、安心安全志向派のあたし的には、やはりそんな危険な賭けはお勧めできない。柴崎泰広のことは、今までどおり親元から学校に通いながらでも協力してもらえばなんとかなるけれど、西ちゃんが親元を離れるかどうかは、彼の人生設計の根幹に関わるかなり大きな問題なのだ。

 校長室前の廊下に、幸い人の気配はなかった。

 柴崎泰広は入口の扉の脇にしゃがみ込むと、横開きの戸をそろそろと数センチ開ける。

 

「何度も言っているとおり、家に帰る気はないっすから」


 その途端、吐き捨てるような西ちゃんのセリフが響いてきた。

 柴崎泰広は隙間に額をめり込まるようにして中の様子をうかがっている。

 あたしも重い携帯を引きずりながら、柴崎泰広の下あたりに同じ格好で張りついた。

 部屋の真ん中に、古くさい応接セットのテーブルが見える。

 扉に顔をこすりつけながら視点を左にずらすと、壁側のソファに足を組んでふんぞり返っている西ちゃんの不遜な姿が見えた。


「西崎さん、それはないでしょう? お母様だってあなたのことを心配して、こんな朝早くから学校に足を運んでくださってるんですよ」


 西ちゃんの対面に、三人の人物が座っている。一番戸口に近い位置に座っているのは、さきほどまで出席をとっていたわれらがクラスの金縁メガネな担任。その隣には、担任教師の言葉に腕組みしながらウンウン頷いている口ひげのオヤジ――この学校の校長だ。さらにその向こう、一番奥に座っている人物の姿は校長の影に隠れてあまりよく見えないけれど、細い腕を包む淡い色合いの生地と、後ろで一つにまとめられた長い髪、そして先ほどの担任教師の言葉から推察するに、西ちゃんの母親なのだろう。

 

「俺のことを考えてるわけじゃないっすよ、たぶん」


 西ちゃんはせせら笑うような調子で吐き捨てると、奥に座るその人物を鋭い視線で一瞥する。


「西崎の家の行く末を考えて……違います?」


 奥に座る人物は無言だった。

 黙って、西ちゃんの視線を静かに受け止めている。


「とにかくね、君はすぐに家に戻るべきだ」


 ヒゲ校長が途中経過をざっくり省略して断じると、担任教師もそれに大きく頷いて賛意を示す。


「たいした所持金もないのにどうやって二晩過ごしたのか知らないが、このまま路上生活を続けるなんて危険なことを、学校として見過ごす訳にはいかないからね。おおかた、駅や川べりで寝てるのだろうけど……」


「ご心配なく。生活の見通しはある程度たってます」


 西ちゃんの言葉に、ヒゲ校長は口元に侮蔑の混じった笑みを浮かべて肩を竦めた。 


「ある程度立ってるって……あのねえ君、生活するって、そんな簡単なもんじゃないんだよ。何をするにも金がかかるし、金を得るには仕事が必要だし、仕事をするには身元が保証されてる必要がある。もちろん、非合法な仕事や手段を選べば話は別だろうが……」


 ヒゲ校長はそこまでいうと、一気に青ざめた。


「もももしそういう非合法な仕事に就くつもりなら、われわれも絶対に見過ごす訳にはいかない。警察に連絡してでも家に送り返すからそのつもりで」


 「警察」という言葉に、西ちゃんは息をのんだ。


「まっとうな方法で生活が成り立つ見通しが立ったからこそ、危険を承知で学校に来たんじゃないすか! 詳しく知りもしないで決めつけて、そんなに自分の学校の生徒が信用できないんすか!?」


 西ちゃんのけんまくに、ヒゲ校長も担任教師も気圧されたように黙り込んだ。

 その奥に座る女性は、相変わらず一言も言葉を発しようとしない。ただ黙って、事の成り行きを見守っている。


「友だちの家に、最低限の出費で滞在させてもらえることになったんです。ソイツにだけは確かに迷惑はかけちまうけど、家事をある程度引き受けてバランスは取るつもりだし、バイトして生活費はきっちり入れるし、高校は必ず卒業するつもり。違法なことなんか何ひとつしていないのに警察とか、マジでふざけんじゃねえとしか言いようがないっすよ!」


 そうか。だから積極的にいろいろしてくれてたのか。西ちゃんてば、ちゃらんぽらんなようでいて、しっかり考えてくれてるんじゃん。

 感心して頷くあたしの頭上で、柴崎泰広は相変わらず真剣な表情で中の会話に耳を尖らせている。


「……そんな簡単なモノじゃないんですよ、人生って」


 担任教師はため息まじりにそう言うと、金縁メガネの縁を光らせながらブリッジを人差し指で押し上げた。


「ウチのクラスにいる柴崎泰広さん、……あなたもよく話しかけているようですから、知ってるでしょう?」


 突然名前を出されて、柴崎泰広はドキッとしたように息を詰めた。

 あたしもギョッとして、思わず頭上にある彼の顔を見上げてしまう。


「あの子は小さい頃にお父さんを亡くして、お母さまが女手一つで育てておられましてね。入学時の成績はトップクラス、十二分に名のある大学にも合格できる能力があるのですけれど……二年の担任によると、対人関係面で問題がある上に、経済的な問題もあるので進学は難しいと、お母さまがおっしゃっていたそうです。私なんかからしてみれば、彼のようなタイプこそ大学に行って高度な知識を身に付けるべきと思うのですけれど、家庭の事情で諦めざるを得ないんですよ」


 担任の口ぶりから判断するに、どうやら学校側には母親が失踪中ということは知られていないらしい。まあその事実を知られたところで、さらに進学が難しいという判断が強化されるだけなのだけれど。

 西ちゃんは険しい表情で、担任教師のよく動く薄い唇をにらみつけている。

 柴崎泰広も無言だった。扉の隙間に額を押しつけ、じっとして動かない。


「彼だけじゃありません。高い能力がありながら、家庭的経済的理由で進学が果たせない子が、進学校であるこの学校ですら何人もいます。あなたの家庭環境は、ほんとうに恵まれているんですよ。能力だって十分に高い。それなのに、……」


 担任教師は言葉を切るとツイと目線を上げ、メガネの奥から射るように西ちゃんを睨み据えた。


「今年の高卒の求人倍率は〇.七一倍。昨年度よりさらに厳しくなっています。進学できるだけの素晴らしい家庭環境が整い、ご両親の理解も十分に得られているにも関わらず、そのアドバンテージをかなぐりすてて、なぜわざわざ厳しい道を選択する必要があるんです? このご時世に、少し世の中を甘く見すぎているんじゃありませんか? きっとお母様も、そのあたりを心配されているんだと思いますよ」


 まあ、正論だな。全面同意。

 あたしも正直、それは思ってる。

 というか、担任教師の考えはあたしの考えに近い。


 ただ、あたしは昨日、西ちゃんの思いを知ってしまった。彼が、あたしとは全く違った角度から人生ってものを眺めていることも知った。

 あたしやこの担任教師の考え方でも、ある程度安定した将来が約束されるのは事実だし、食いっぱぐれることもないだろうし、平均的で予測済みの幸せは確実に手に入れることができる。

 でもだからといって、そういう道を選択した結果、西ちゃんのような、あたしたちとは全く違った角度から人生を眺めている人たちが、本当に納得して幸福を感じられるかどうかはわからないのだ。

 だから、どちらが正しいかなんてことは、簡単に言い切ることはできない。

 それは昨夜、すでに確認済みの事実。


 西ちゃんは黙っている。

 硬い表情で唇を引き結んだまま、担任教師を見据えている。

 西ちゃんが反論しないとみるや、自分の論理的優位性を確信したのか、担任教師はさらに畳みかけるように言葉を継いだ。


「しがないお菓子職人と検察官、将来的に見て、どっちの方が生活が安定して、大きな社会的成功が手に入れられるかなんて自明の理でしょう。あなたも、いいかげんフワフワと夢みたいなことばかり言っていないで、柴崎さんのように地道に人生を歩んでいる人を見倣って、もう少し冷静に現実を見つめるべきです」


 ……は? 何言ってんのこのおばさん。

 柴崎泰広のいったい何を見倣えばいいと言うんだ。不登校か?

 だいたい、何でさっきからやたらと柴崎泰広ばかり引き合いに出すんだ? たぶんコイツの中で柴崎泰広は「かわいそうな境遇の教え子」ナンバーワンなのだろうけれど、不愉快なこと極まりない。


「ホント、柴崎さんが聞いたらきっとあきれますよ。そんな恵まれた生活を手にしていながら、何て甘ったれたことを言ってるんだって……」


 ムカつきが最高潮に達しようとした、そのとき。

 突然頭頂部が強く引っ張られ、視界が流れた。柴崎泰広が立ち上がったらしい。

 

 ……え?


 ケツポケの定位置にぶら下げられながら、慌てて柴崎泰広に何事か問い糾そうとした、刹那。


「失礼します」  


 やけにきっぱりと言い放ちながら、柴崎泰広が校長室の扉を勢いよく開けた。

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