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60.甘いな

 総調理時間、わずか四十五分。

 米を研いで炊飯器に入れ、お急ぎモードで炊飯のスイッチを入れてから、全ての準備が整うまでに要した時間だ。

 もちろんあたしもある程度は手伝ったけれど、おかず二品にみそ汁を作り、使用した鍋や調理器具は全て洗い、野菜クズもきちんと片付け、台所をおおよそ使用前の状態に戻した上での時間だから、やはり相当にレベルは高い。


「あんた、マジで料理うまかったんだね……」


 箸を並べながら感心しきって呟くと、西ちゃんはご飯をよそいながら苦笑した。


「そういうことは食べてから言ってくれよな」


「いや、どう見てもうまそうだって。あり合わせの材料でよくここまで作れるよ。これって自分で考えた料理?」


 テーブルの上には、きゅうりと豚肉の炒め物に、キャベツとジャコとゴマのサラダ、ジャガイモとインゲンのみそ汁がおいしそうな湯気を立てている。冷蔵庫にあった残り野菜や肉だけでこれだけの献立が組めれば、十二分に主夫合格だ。


「いや、全部母親が作ってた料理の劣化コピー。ケーキとかお菓子だったら自分でアレンジできるけど、普通の料理はだいたいそんな感じ」


「ふーん、お母さんの味か……ちょっと羨ましいかも」


 みそ汁をよそって席に着き、二人そろって「いただきます」と手を合わせる。

 相当に腹が減っていたらしく、しばらくは無言でひたすら料理を口に詰め込んでいた西ちゃんだったけれど、半分以上食べたあたりでようやく落ち着いたらしく、ふと思い出したように口を開いた。


「柴崎、まだ寝てんの?」


「……ん、まだ寝てる。まあ、またおかしな状態になっても困るんで、寝ててくれた方がありがたいっちゃありがたいんだけど」


「今までにも、ああいうことってあったりした?」


 ご飯を口に運びながら、小さく首を振ってみせる。


「初めて見た。あたしが知ってるコイツの病的な部分って、例えば電車に乗れなかったりとか、密閉空間に男と一緒にいられないとか、男に接近されると吐くとかせいぜいそんなくらいで、しかもこれまでに克服できてるものが多かったから、あたしはてっきり改善してるとばっかり思ってたんだよね。まだあんな症状が隠されてたとか、正直いって驚いてるっていうか」


「家っていう場所がネックになってるとか言ってたけど、どういうことなんだろうな」


「分からない……あたしも実を言えば、コイツが男性恐怖症になった根本原因を知らないし」


「そっか……何とかしてやりてえな」


 みそ汁の椀を左手に持ったまま、西ちゃんはため息まじりにつぶやいた。

 

「柴崎って、マジでもったいねえと思うんだよな。頭は滅茶苦茶いいし、見てくれもそこそこだし、あの走りからしてたぶん運動神経も悪くねえし。その上、優しいし真面目だし素直で一生懸命。いいとこ挙げたらきりがねえじゃん」


 手放しの誉め言葉の羅列に、思わず苦笑してしまった。


「いや……ちょっと誉めすぎじゃない? 悪いとこだって挙げたらきりがないのに」


 西ちゃんは大まじめな顔で首を振ってみせる。


「人間なんてそんなもんだろ。いいとこと悪いとこって裏返しだから。優しいの裏返しは気弱、真面目の裏返しは融通が利かねえ、素直の裏返しはバカってか。要はバランスの問題。だから悪いところばっか気にして縮こまってねえで、もっと自信持っていいと思うんだよな」


 そう言うと、飲みほしたみそ汁の椀をテーブルに置き、やけに真剣なまなざしをあたしに向ける。


「なあ、アヤカから見て、柴崎の特色って何だと思う?」


「え?」


 思いがけない質問に、思考が一時停止してしまった。

 西ちゃんは右手に持った箸を上下に振りながら言葉を継ぐ。


「特色っつーか、特技っての? 俺なんかは、あいつの数学的能力とかクソやべえと思ってんだけど、一番間近で見てるアヤカ的には、その辺がどう映ってんのかなって思ってさ」


「えっと……そーだな……確かに頭は滅茶苦茶いいと思う。数学だけじゃなくて、発想が意外に柔軟で、思わぬ機転が利くというか。あとは……」


 そのときふと、タイルカーペットの敷き込みの際に見せた、あの見事な手際が頭を過ぎった。


「……そういえばコイツ、日曜大工的作業も意外に得意かも」


「へえ、それは初耳」


 西ちゃんも目をまるくして身を乗り出す。


「あと、中学時代は美術部だったって言ってた」


「へええ」


 感心したように頷くと、腕を組んで考え込む。


「数学と日曜大工と美術……うーん、あまりに関連性がなさ過ぎてすぐには思いつけねえけど、そういうの、絶対になにか生かす道はあるよな、……」


 ブツブツ呟きつつ、腕を組み首をひねって考え込んでいる西ちゃんを、盛られた飯に手をつけるのも忘れてぼんやり見つめていると、視線に気づいたのか西ちゃんがふいに目線を上げた。


「何?」


 慌てて目線を逸らす。


「え? あ……いや、人の心配してる場合じゃないよな、って思ったりしてさ」


「なんで?」


「なんでって……あんた、家出してきたんでしょ。普通に考えて、それどころじゃない状態のはずだよ?」


 西ちゃんはキョトンとした表情で首をかしげてから、「あそっか」と言って屈託のない笑顔を浮かべた。


「そーいえばそうだった。柴崎のことですっかり忘れてた」


 忘れんなって。

 きゅうりをつつきながら、上目遣いにじとっと睨んでみる。


「言っとくけど、ウチを永遠の根城にできると思ったら大間違いだかんね。ウチらはウチらでギリギリの生活してるんだし、生活のめどをできるだけ早くつけて独り立ちしてってよ」


「分かってます。明日、自由が原のケーキ屋に行って住み込みの件を掛け合ってみるつもりだから。泊めてもらうのは今夜限りってことで」


 そう言って笑うと、西ちゃんは一気にみそ汁を飲み干した。


「……勝算は?」


「さあ。すんなりいく可能性は低いと思うけど、がんばれば何とかなるんじゃん?」


 甘いな。

 どんなに頭が良くてしっかりしているようでも、しょせんこいつはいいところのお坊ちゃん。常に背水の陣を敷きながら生きてきたあたしのような人間からすれば、世間に対する甘えが透けて見える。

 話しぶりや今までの経緯を考えると、事前の根回しは一切行っていない。だとしたら、ケーキ屋さんにありのままの事情を伝えたが最後、住み込み修業はほぼ百パーセント拒否されるだろう。大人しく帰宅することを促され、家に連絡されたり、最悪、警察に連絡される可能性すらある。

 いくら懇意にしている相手だとて、高校生なんていうのは基本的に厄介な保護対象。社会人に比べたら、本人が自己決定できる範囲なんてあまりにも小さい。秀でた特殊技能があってマスコミに注目されているわけでもなし、うっかり親切心で世話をした結果、保護者に犯罪者扱いでもされたらたまったものではない。学生は親元で大人しくツメを研いでいてもらうのが、誰にとっても一番無難で安全なのだ。

 というか、本気で親元を離れて自活するつもりなら、他人の庇護を当てにして安易に夢を語る前に、自分の力で安定して生きていける手段を見極めて、それを手に入れる策を講じるのが筋だろう。親の理解が必要というなら、今やるべきは親元を逃げ出すことじゃなくて、肝を据えた徹底的な話し合いなんじゃないのか。それで交渉が決裂したら、選択可能な別のルートを考えるしかない。場合によっては、潔く諦めることだって必要だ。生きていかねばならないんだから。

 現に、あたしはそうやっていろんなことを諦めてきた。実現可能な必要最小限の夢を、せめてひとつだけでも守るために。そうしなければ生きられなかったから。


「使ってくれるって言ってもらえるまで、店の前に土下座でも何でもして粘るつもり。一週間でも十日でも。したら、絶対に話くらいは聞いてくれると思うよ。オヤジさん、そこまで無慈悲な人じゃねえもん」


 それはそうかもしれないけど。

 そういえば、昭和のドラマとかマンガには、よくそういう場面が描かれていた。で、主人公はたいていそういうむちゃをやっても受け入れてもらえて、最終的にその道で大成して、感謝感激めでたしめでたしで終わるのだけれど。

 でも今は、現実社会が厳しすぎて、そんな甘い描写はリアリティがなさすぎて受け入れられなくなっている気がする。

 無言でおかずをつついていると、西ちゃんは視界の上端でクスッと笑ったようだった。


「不可能だって言いたげだな」


「……別に。思ったようにやってみればいいじゃん? はっきりいってその考えはケーキ屋のおじさんに甘えてるし、今はそんな甘えが通用するほど余裕のある社会とも思えないけど、おじさんが滅茶苦茶いい人なら、自分が犯罪者になる危険性とか、自分たちの暮らしを犠牲にする負担を度外視して、あんたの面倒を見てくれる可能性はゼロじゃないだろうから」


 つい、突き放したような冷たい言葉が口をついて出る。

 西ちゃんは茶碗についた米粒をかき集めながら苦笑した。

 

「うっわ……そこまではっきり言う? 冷たすぎて草」


 悪かったね、冷たくて。

 だって、羨ましいんだもん。

 あたしだって一度くらい、そんなふうに周りに甘えて、自分の気持ちに素直に生きてみたかったよ。


 ほんのわずかな可能性に賭けて無謀な行動を押し通せるのは、気持ちや生活にゆとりがあるからできることだ。

 ギリギリに張られた遊びのない糸は、ちょっと負担がかかっただけであっけなくプツリと切れてしまうけど、適度に遊びのある糸は、少しくらい過重がかかってもその遊びを生かして耐えられる。  

 あたしはいつも、ギリギリに張られた糸の上を歩いてきた。

 冒険や挑戦は、たとえそれが普通の人にとっては大した負担でなくとも、あたしにとっては即座に糸を断ち切る超重量級のナイフに等しかった。

 だから細心の注意を払ってそうした危険を排除して、絶対に実現可能で安心安全な道しか選べなかった。

 自分の思うままに冒険や挑戦をしながら、自由に自分の人生を切り開ける西ちゃんが、羨ましい。

 羨ましすぎて、たぶん心の奥底では、一度くらい失敗して痛い目にあえばいいとさえ思っているかもしれない。

 そんなことを考える自分が最低だってことはわかってはいるけど、意識の奥底にすり込まれた羨望せんぼうと嫉妬は、たぶん一生抜けない刺だ。


 でも。

 柴崎泰広コイツは、どうなんだろう?


 携帯にぶら下がっているクマるんに、ちらりと目を向ける。

 コイツもあたしと同様、キツキツに張られた糸の上を歩いてきた人間で、それが断ち切られる恐怖に耐えきれず、一度はそこから飛び降りもした。

 今は辛うじて糸の上に這い上がり、あたしが落ちないように並走フォローしながらなら何とか歩けるまでにはなったけど、やっぱりまだ糸はピンピンに張られた状態で、コイツもあたしと同じように、絶対に安心安全な道しか通ろうとはしなくて。


『僕は基本的に死にたいんですから、この先の生き方にあれこれ口を出せるわけがないじゃないですか。生き方は、生きたい人が決めるべきです。僕はそれに従って、命の砂が尽きるまでじっと待つだけです』


 あの時、新宿で柴崎泰広が口にした言葉が頭を過ぎる。

 そんな生き方を強制しながら、コイツへのフォローを言い訳に、あたしはコイツの命を食べ続けている。

 でも本当に、そんな人生でいいんだろうか?

 思うがままに自分の人生を切り開いている西ちゃんとの落差がありすぎて、なんだかひどく胸がざわつく。

 

 考え込んでいると、ふいに西ちゃんがおかずを突つく手を止め、遠い目をしてつぶやいた。


「そーゆーシビアなとことか、ホント似てんだよな……」


「え、……誰に?」


 思わず問うと、西ちゃんはあたしに心なしか切なげな目線を向けて、思いがけない名前を口にした。


「アヤカって、水谷彩南のこと知ってんだよね」


 いきなりだったので、思わず手にしていた箸を取り落としてしまった。

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