6.覚悟決めなよ
鳴り物入りで始めた、生活環境改善運動。
そう簡単な話じゃないと気づいたのは、運動開始から約一時間を経過した頃だった。
【全然減らないじゃん……】
途方に暮れて呟くあたしの横で、柴崎泰広は床にあぐらをかき、右手側に積まれた古いCDの山から一枚手に取り、ためつすがめつして眺めてから、それをぽいと左手側の山に移す動作を淡々と繰り返している。
ていうか、ぜんぜん捨ててないし。
本当に必要な分だけを残して、不要な分は真ん中に置かれたビニール袋に入れて処分するって話だったのに、捨てる分を入れるビニール袋は、いまだにすっからかんのままだ。
【ねえねえ、あんたさあ、本気で減らそうとしてる?】
柴崎泰広は黙ったまま、不機嫌そうな顔をあたしに向けた。
【全然減ってないじゃん。さっきから見てると右から左に移してるだけだし】
「……」
問いかけには答えず、手元に目線を落として黙々と作業再開。
そんな柴崎泰広の右側に回り込み、積まれているCDをしげしげと眺めてみる。
邦楽ではないのだろうか、聞いたこともない横文字のアーティスト名ばかりだ。山のてっぺんに置かれたCDを楕円形の両腕で挟み、持ち上げて裏返してみる。やはり横文字。
【こういうのってさあ、下北山あたりの中古CD屋とかにもってけば、まだいくらかにはなるんじゃん? 配信サービスに存在意義を奪われる前に、売りさばこうよ】
うるさそうに眉根を寄せて振り向いた柴崎泰広は、あたしの手元に目を向けたとたんに呼吸を止め、瓶底眼鏡の奥の目を限界まで見開いた。
「んあああああっ! Adorableのファースト!」
抱えていたCDを目にもとまらぬ速さで奪い取り、ゼイゼイ息を切らせながら瓶底眼鏡の縁をギッと光らせてあたしを睨む。
「絶対ダメ! 廃盤で入手困難なんだからっ」
【そなの? じゃ、これは?】
積まれているCDを適当に手にすると、柴崎泰広は顔を引きつらせつつ即座にそれも奪い去る。
「それもダメ! 全部ダメっ! 勝手に触んないでくださいっ!」
CDを抱えて叫ぶと、目線と落としてうなだれる。
「……そもそも、捨てられる訳がないんです。こんなの、たぶんもう買えないし」
全く。呼吸ができたらため息の一つでもつきたいところだわ。
【あんたさあ、死ぬつもりじゃなかったんだっけ?】
柴崎泰広はCDを胸に抱いたまま、ゆるゆると首だけ巡らせてあたしを見た。
【死んだら、そのアドなんちゃらも当然聴けなくなっちゃうわけだし、そういう俗世の享楽と縁を切る覚悟でああいう行動に出たんじゃないの?】
「……、そりゃあ」
【なら、別にいいんじゃん? あんたいまだに死にたいんでしょ。なら、命の砂とやらが尽きるまでの間は、死んだも同然で取りあえず生きてればそれでOKってことなんじゃないの?】
執着は捨てなさいと言っておごそかな笑みを浮かべてみせる。もちろん、編みぐるみゆえ表情は変わらないのだけど。
CDを抱えた柴崎泰広は振り返った姿勢のままで微動だにしなかったが、ややあって、ぽつりと口を開いた。
「……これ、母親の形見なんです」
そういうと、足元に目線を落とす。
「うちにはテレビも携帯もなくて、でも古いラジカセはあって、母は家事をしながらよくこのCDをかけて、アーティストについて語ったりしてて……それを聴いているうちに、僕もだんだんそういうのが好きになって。古いのなんか捨てて新しいものを知ればいいって言っても、そんなの金がなければ不可能だし、これを捨ててしまったら、僕はたぶんもう、文化みたいなものとは無縁になってしまう気がして……」
【別に、趣味広げたかったら、バイトでも何でもして金稼げばいいだけじゃん?】
柴崎泰広は肩をすくめると、ため息まじりに吐き捨てる。
「バイトなんてできる訳がないです。学校にすら行けない人間が」
【学校と仕事は全然違うよ?】
眼鏡の奥の目をまん丸くして機能停止した柴崎泰広を横目に、CDの山により掛かり、楕円の腕を無理やり組んでみる。
【学校の人間関係って特殊だからさ、かえって難しかったりするんだよね。仕事は、それとは全然違うから。やるべきことさえある程度きちんとやってれば、それなりに評価もしてもらえるし】
柴崎泰広は小さくため息をつくと、苦笑めいた笑みを唇の端に浮かべた。
「ずいぶんと知った風な口をききますね。クマの分際で……」
【あいにく、もとはクマじゃないからさ。こう見えても、四つバイト掛け持ちして生きてきた人間だし】
柴崎泰広は浮かべていた笑みを収めると、暗い表情であたしを見た。
【仕事なんか、全然たいしたことないって。思い切ってやってみればいいんだよ。そうすれば自ずと道は開けるからさ☆】
納得いかないような表情で目線を落とした拍子に、右手側のCDがビニールバッグにどんどん放り込まれていることに気づいたらしい。柴崎泰広の目が大きく見開かれた。
「……って、何やってんですか!」
【え?】
「え、じゃないです! 何勝手にやってんですか!」
【……ダメ?】
「ダメです! さっきも言ったとおり、それ全部、親の形見みたいなもんなんですから」
【えー、でもさー、男作って出て行った母親のものなんでしょ。別によくない? 決別しなよ、決別】
「そんな簡単に割り切れるもんじゃないんです!」
【ふーん……】
CDの山に覆いかぶさって捨てられまいと必死に叫ぶ柴崎泰広を、楕円形の腕を組んであきれ半分に眺めやる。
【じゃ、それの代わりにこっちを売りに出そうか?】
「……え?」
楕円の腕が指し示す先に目を向けた柴崎泰広は、表情を凍らせた。
そこにあったのは、ブリキのおもちゃやプラモデル、怪獣のフィギュアやウルトラマン人形など、昔日の思い出たちがぎっしり詰められた段ボール箱だった。
【あんたケータイ持ってないらしいからオークションは無理だとしても、こういう古いおもちゃって案外高く売れるんだよね。見たところ状態もいいし、アンティークショップとかにもってけば、マニアな人々には喜ばれると思うな】
この男、口を開けば「金がない」とばかり言っている。つまり、程度はどうあれこの家は財政的に余裕がないってことだ。となれば、生活費確保に思考が傾くのは当然の理。
あたしの言葉に、柴崎泰広は顔面蒼白になって口をモガモガさせている。
「いや、でも、これは、父の……」
【あのさあ柴崎泰広、いい加減覚悟決めなよ。うちらは取りあえず、命の砂が尽きるまでは生きなきゃならない。生きなきゃならないってことは、食べなきゃならないってことなの。戸棚の中にあった最後のカップ麺はさっき食べちゃったし、この先食つないでいくには先立つものが必要なんだよ】
「で、でも、何も……」
【あ、でもまあ、他に持ち合わせがたんまりあるっていうんなら、別に売らなくてもいいけどね。預金通帳とか見せてくんない? この家の総資産がいかほどか確かめておきたい。それによって、これからの行動を決めればいいから】
柴崎泰広は口ごもった。目線を忙しく左右に泳がせ、それから手元に落とすと、口の中でごにょごにょと何か言っている。
「……」
【え、何? 何て言ったの?】
「……ない」
【は? 全然聞こえないんだけど。はっきり言って】
ふいに柴崎泰広は立ち上がった。
しばらく黙って背後にあるゴミ山をかき分けていたが、ゴミの山の奥にある戸棚の引き出しから黒い巾着袋を取り出すと、無言でそれを放ってよこした。
巾着袋はジャリンという重い音とともに、あたしの目の前に転がった。
【何? これ……】
「全財産」
全財産?
……いやーな予感。
【悪いけどさ、あたし、この手じゃ開けられないんだ】
柴崎泰広の意外にきれいな指先が、目の前に置かれた巾着袋の口をつまむ。口を開け切ると、柴崎泰広は固唾を呑んで見守るあたしの目の前で、袋を逆さにして振った。尖った重い音とともに幾枚かの紙幣と硬貨が目の前に転がり出、四方八方に散らばる。
これが今現在手元にある資金ってことだろうか? とりあえず額を確認してみる。
【えっと、一万円札が一,二,……二枚? 千円札が一,二,……七枚と、硬貨が……】
視界の端の柴崎泰広にチラッと目をやる。腕を組み、やけに厳しい表情で、金を数えるあたしを黙って見ている。
【百円が八枚、五百円が三枚、十円が十二枚、一円が九枚……総額、】
二万九千四百二十九円。
にまんきゅうせんよんひゃくにじゅうきゅう?
「それが、うちの全財産」
抑揚のない柴崎泰広の声が頭上を通り過ぎる。
……ぜんざいさん?
ゆるゆると首を巡らせると、柴崎泰広は先ほど同様に暗い表情で、散らばった紙幣や硬貨をじっと見ている。
【ぜんざいさんて……いや、たまたま手元にある現金ってことだよね? 普通は貯金とかが、ちゃんと別に……】
「ないです。預金は母親が出て行く時にほとんど下ろしてったんで」
【……え、いや、だって、これからも食費とか光熱費は普通に必要だし、万が一病気や事故にでも遭ったりしたら一発でアウトだし、っていうかその金額じゃ生きられる期間があまりにも短いというか】
えええええええ。
死ねと言う?
「仕方ないですよ、死ぬ気だったんだから」
柴崎泰広は肩を竦め、悟りきったような顔で鼻から空気をふうと吐いた。
「これからも死ぬ気だし」
口の端をゆがめて小さく笑う。
朝の光に照らされたほこりが、緩やかならせんを描きながらあたしと柴崎泰広の間を横切っていく。
【……代わって】
「え?」
【交代して。早く】
ただならぬあたしの雰囲気に本能的な危機を察知したのか、柴崎泰広は慌てたように両手を後ろに回した。
「いや、まだ交代の時間じゃ……っていうか、まさか……」
無言で楕円の腕を突き出しているあたしの様子に、柴崎泰広の顔から音を立てて血の気が引く。
「だ、ダメですって! CDもアンティークおもちゃも、親の……」
【いいから代われ! 禁忌犯すよ!】
強烈な送信に体を震わせて息をのむと、柴崎泰広は怯えたような顔で視線を合わせた。
あたしもクマるん顔面の黒いビーズに全精神力を傾ける。
柴崎泰広の額にじんわりと滲んだ汗が互いに寄り集まって滴を作り、頬を伝って滑り落ちる。
体表から放射されるオーラがもし見えたとしたら、凄まじい光景が繰り広げられていたに違いない。何も見えないけど。
ややあって、柴崎泰広はあたしから視線をそらすと、観念したようにおずおずと後ろに回していた右手を差し出した。
――勝った。
勝利の快感に打ち震えつつ、あたしは差し出された柴崎泰広の右手を、楕円形の両手で逃がさないようにしっかりと包み込んだ。