59.そうだったんだ、ヤバ
街路灯に明るく照らされた商店街を抜け、駅に続く道を全速力で駆けぬける。
振動に伴って大きく左右に揺れながら、あたしも必死で前方の駅前広場に視点を合わせた。
駅には大きな商業施設が併設されていて、この時間も明るく人通りも多い。スーパーも深夜まで営業しており、未だ大勢の買い物客で賑わっている。
人波に遮られるように足を止めると、柴崎泰広は肩を大きく揺らしながら駅前広場を見渡した。
あたしもケツポケから柴崎泰広とは反対側に意識を凝らし、巨大スポーツバッグを抱えた男子高校生の姿を捜す。
コンコースには大型バスが数台とタクシーのが停車していて、乗降客が行き交っているが、その中に西ちゃんらしき姿は見当たらない。
「……いませんね」
【来る途中でも見なかったってことは……もう、改札の方に行っちゃてるのかもしれない。柴崎泰広、定期持ってるよね】
柴崎泰広は携帯が入っている方とは反対側のポケットから定期をとり出し、駅階段の方に体を向けた。柴崎泰広の体が九十度回転し、コンコースの向かい側が目に入ってくる。
その途端。駅前ロータリーを挟んだ向かい側にある歩道に立つ、見覚えのある男子高校生の姿がうつり込んだ。
彼は、小太りで背の低い中年男性と向き合っていた。何か話をしているようだ。足元には、体と不釣り合いなほど巨大なスポーツバッグが置かれている。
思わず夢中で柴崎泰広のシャツを引っ張った。
【柴崎泰広、あそこ!】
「え?」
振り返った柴崎泰広の目に、中年男性が右手を差し伸べて、男子高校生の前髪をサラリとなでる怪しげな光景がうつり込む。
柴崎泰広は息をのむと、まじろぎもせずその光景を凝視した。
男子高校生は自分より背の低いその男のために、まるでかしずくように軽く腰を屈めている。中年男の右手が男子高校生の頬に添えられ、いつの間にやら差し出された左手が、肩から腕のラインをゆっくり滑り降りていき……。
柴崎泰広の足が、弾かれたようにアスファルトを蹴った。
ロータリーの向こう側に行くには、駅前広場の端にある横断歩道を渡るために大きく迂回しなければならない。そんなことをしている暇はないと判断したのだろう、柴崎泰広はガードレールを意外なほど軽い身のこなしで飛び越えると、そのまま車道に走り出た。
急停止したタクシーのブレーキ音と、けたたましいクラクションが、夜のロータリーに響き渡る。
騒ぎに気づいた男子高校生が、訝しげにロータリーの方に目を向けた。
「西崎さん!」
タクシーとバスを止めてロータリーを突っ切りながら、柴崎泰広は男子高校生……西ちゃんに向かって叫んだ。
「……柴崎?」
西ちゃんは走り寄ってくる柴崎泰広の姿に、大きくその目を見開いた。
柴崎泰広は背中にタクシー運転手の罵声を浴びつつ再びガードレールを飛び越えると、あっけにとられて棒立ちになっている西ちゃんには目もくれず、その向かい側に立つ中年男の胸をめがけて頭から突っ込んだ。
「うわぁぁぁっ!?」
中年男の情けない叫び声が夜のロータリーに響き渡り、なぎ倒された自転車の上に倒れ込んだ中年男の胸に、柴崎泰広も折り重なるようにして倒れ込んだ。
西ちゃんはぼうぜんとその場に立ち尽くしていたが、自転車の倒される騒々しい音でハッとわれに返ると、突っ伏している柴崎泰広におずおずと目を向けた。
「柴崎、おまえ……」
「に……西崎、さん」
柴崎泰広は、衝撃で目を回している中年男の上から体を起こすと、よろよろと立ち上がった。
「西崎さん……行きますよ」
「え? 行くって……」
「僕は、大丈夫なんで……」
「……うーん……いたたたた……なんだ? いったい……」
気がついた中年男が、よろよろと上体を起こして頭を振る。柴崎泰広は言いかけた言葉を飲み込むと、やおら西ちゃんの手首をわしづかみにした。
何だか知らないけど、これにはあたしの方がドキッとしてしまった。
「とにかく、逃げますよ!」
なにやらもの言いたげな西ちゃんに構わず、柴崎泰広は西ちゃんの手を引くと、自宅の方に向かって走り出した。
西ちゃんはあわてて足元に置いてあったスポーツバッグを引っつかむと、引きずられてつんのめりそうになりながら、柴崎泰広といっしょに走り出す。
「○×△□……」
何か騒いでいるらしき中年男性の声が後ろから追いかけてきたけれど、路面を蹴る足音と激しい息づかいにかき消されて、何を言っているのかまではよく分からなかった。
☆☆☆
踏切のあたりまできたところで、ようやく柴崎泰広は走るのをやめた。ゼイゼイと息を切らしながらスピードを落として歩き始める。
気づいているのかいないのか、相変わらず西ちゃんの手首はしっかりとつかんだままだ。
「柴崎……」
後ろを歩いていた西ちゃんが、荒い呼吸の間から声をかけてくる。柴崎泰広は肩で息をしながら、小さく頭を下げた。
「すみませんでした、いきなり……でも、あのままだと、西崎さんが……」
「いや、謝った方がいいのは俺じゃなくて、たぶん向島センセの方にだと思うよ」
「……え?」
柴崎泰広はピタリと足を止めると、つかんでいた西ちゃんの手を離して振り返った。見ると、西ちゃんは堪えきれないとでも言うように、クスクス肩を揺らして笑っている。
……もしかして。
「あの……西崎さん、向島先生って」
「さっき俺と喋ってた、あのきったない中年。小学校時代の担任でさ、歩いてたらいきなり声かけられて、旧交を温めてたとこだったんだ。いやあ、先生ビビッたと思うよ。小学校時代の教え子に声かけたら、いきなりロータリーを突っ切ってきた見知らぬ男子高校生にタックル喰らわされたんだからさ」
うっわ……そうだったんだ、ヤバ。
柴崎泰広の顔からも、音を立てて血の気が引いた。
「ぼ……僕、謝ってきます!」
きびすを返して走り出しかけた柴崎泰広を、西ちゃんは苦笑まじりに引き留めた。
「いいよ。実を言えば、話がいつ『何でおまえ、こんな時間にこんなとこをウロウロしてんだ』ってな雰囲気に流れるかと思ってドキドキしてたから。ある意味助かったよ、あんがと、柴崎」
神妙な顔で自分を見つめている柴崎泰広に、ま、あれはちょっとやりすぎだったけどと言って笑ってみせてから、少し表情を改めて問いかける。
「……で、俺、マジでおまえン家に行っても大丈夫な訳?」
柴崎泰広は小さく頷いた。
「さっきは少し動揺していて……すみませんでした、あんな言い方をして」
「いや、さっきのアレは、動揺とかいう軽いもんでもなかった気がするけど」
柴崎泰広は目をそらすと、少し間をおいてから、言いにくそうに語り始めた。
「家っていう場所が、僕の病気にとってはかなり大きな意味を持つらしくて……敷地内や家屋に男性が入り込むと、強いパニック症状が出るんです。暴れたり、物を破損したり、相手を傷つけたこともあったりして、……さっき、あんなキツイ言い方をしたのは、もしそういう症状が出たらまずいと思って、焦っていたからなんです。本当に、すみませんでした」
そう言って頭を下げた柴崎泰広を、西ちゃんは何とも言えない表情で見つめた。
「でも、よく考えたら、今はアヤカさんがいてくれることに気がついて。西崎さんがいる間は、アヤカさんに交代してもらうようにします。そうすれば大丈夫だと思うので」
「ああ、そっか。アヤカは男性恐怖症じゃねえから……」
西ちゃんはそう呟いてから、何に思い当たったのか目を見張ると、その目線を中空に投げた。
「え? ……と待てよ。てことは俺、これからおまえン家でアヤカと二人っきり……つまり、半同棲状態になれるってこと?」
【は?】
「は?」
思わず、二人同時に聞き返してしまった。
西ちゃんは柴崎泰広の反応に構うことなく、興奮気味に言葉を継ぐ。
「てことは、アヤカと一緒に飯も食えるし、協力して家事なんかやっちゃったりもして、で、そうやって充分に二人の距離を縮めたあと、その後にはフロっていう一大イベントが控えてたりするわけだろ?」
西ちゃんが言葉を連ねるたびに、柴崎泰広の顔からどんどん血の気が引いていく。
「でもってそのあとは、二人枕を並べての長い夜に、あんなことやらこんなことまで……って、うわちょっと待って滅茶苦茶ヤバくね? 俺、そんな盛りだくさんにおいしい思いしちゃってマジでいいわけ?」
「い……いいわけがないですっ! あの家でアヤカさんに触れるのは絶対に禁止ですから! 指一本でも触れたら、その時点で即刻出ていってもらいますからね!」
案の定、噛みつかんばかりの勢いで食ってかかってきた柴崎泰広を、西ちゃんは不必要にキラキラ輝くまなざしで見つめ返した。
「えー、なにその冷たい態度。俺を必死で追いかけてきてくれたあの優しいおまえはいったいどこにいっちまったの? 俺、あの時、実はかなり感動したんだよ? 向島センセを突き飛ばして俺の手を握ってくれた時なんか、マジでトゥンクものだったもん☆」
「え」
その言葉に、柴崎泰広の動きがピタリと止まった。
「僕……西崎さんの手、握った……んですか?」
「うん」
西ちゃんは満面の笑顔で深々と頷いてみせる。
「握ったよ。俺の手首をさ、こんな感じで、ギュギューッと、力強く☆」
言いながら、西ちゃんは柴崎泰広の手首をつかみ、再現するかのようにギュギューッと握ってみせる。
その手を瞳孔全開の勢いで見つめていた柴崎泰広の目から、ふっと生気が抜けた。
同時に膝から力が抜け、上体がガクリと崩れ落ちる。
「しばさき!?」
【……柴崎泰広!?】
あたしと西ちゃんは二人同時に叫ぶと、西ちゃんが倒れかける柴崎泰広の体を支え、あたしは柴崎泰広の意識を強引に押し出して体の主導権を奪い、間一髪で事なきを得た。
交代が可能な時間帯にギリギリ入ってて、マジで良かった……。