58.どうしたらいいんだろう
「い……家出?」
「そ。家出」
巨大スポーツバッグを足元において玄関脇に立っている人物……西ちゃんは、屈託のない笑顔でにっこり笑ってうなずいた。
「昨日、おまえのバイト先から帰ったら、珍しくオヤジが家にいやがってさ。試験はどうだっただの、勉強もしねえでどこほっつき歩いてただの、まじめに勉強しなきゃ難関合格は無理だのあんまりうるせえから、俺は検察官になんかならねえパティシエになるんだって、ついキレて本心ぶちまけちゃったんだ。いやー、もうそっからは阿鼻叫喚。ふざけたことは言うな、西崎家にはおいておけない、改心しない限りウチの敷居をまたぐなだのなんだの言うんで、わかったっつって速攻で荷物まとめて家を出てきたってわけ」
……それはまあ、確かに父親もパニくるだろうな。てっきり自分の思いどおりの道に進むとばかり思っていた息子に、何の説明もなくいきなり百八十度方向転換された訳だから。
「昨夜は駅で寝たんだけど、寒いし情けねえし駅員には蹴散らされるしで、今夜は場所をかえなきゃって思ってたところに、ふと一戸建てで優雅に一人暮らししてるおまえのことが頭に浮かんでさ。ケータイで連絡しようと思ったけど充電器持って出るの忘れて電源も切れちゃってたんで、クラス名簿に書いてあった住所を頼りにおまえン家探し当てて、植え込みにしゃがんで一人さびしくお帰りをお待ちしてたというわけ」
待ってたって……いったいいつから待ってたんだコイツは。
「頼む! 夕飯でもなんでも俺が作るから、一晩だけ泊めてくんないかな……昨夜から何も食ってないんで、腹減っちゃってフラフラでさ。行き倒れ寸前なんだ、マジで恩に着るから、一生のお願い!」
捨てられた子犬さながらの哀れな声で言いながら、両手を合わせて拝み倒す。
細かいことはおいおい話し合うとして、とりあえず相当にギリギリの状態なのは確かだし、昨夜もまともな場所で寝ていないようだし、それなりに仲良く(?)しているクラスメートなわけだし、先日は職場で助けてもらってもいるわけだから、一夜の宿を貸すくらいのことはしても罰は当たらないというか当然そうすべき場面だろう。普通に考えれば。
だから、考えるまでもなく、柴崎泰広もそういう判断をくだすだろうと思っていた。
でも、どういうわけか、いつまでたっても柴崎泰広から了承の返答がない。
不審に思って見上げると、道端の街路灯に照らされた柴崎泰広の顔は、なぜだか紙のように真っ白だった。見れば、表情はこわばっているし、汗がダラダラたれているし、怯えているかのように背中を玄関扉に密着させているし、呼吸がやけに浅いし早いし、明らかに様子がおかしい。
一抹の不安がよぎったものの、たぶん西ちゃんの密着に対する不安だとか、金銭的な心配だとかが強めに体に出ているだけだろうと思って、軽い調子で言葉をかけた。
【不安になるのはわかるけど、大丈夫、あたしもいるし、なんとかなるよ。西ちゃんも行くあてがなくて困ってるみたいだし、こんな状況でめったなことはしないって。一人食いぶちが増えるくらいなら何とかできる程度の実入りはあるし、取りあえず、今日は泊まらせてあげて、詳しい事情を聞いてみようよ】
フォローを確約することでプラスの変化を期待したのだけれど、柴崎泰広は態度を軟化させるどころか、瞳孔全開の勢いで激しく首を横に振った。
「ダ……ダメ、です!」
思わず耳を疑った。
明白な拒絶に、西ちゃんの表情が悲しげに曇る。
「……マジで? やっぱ俺のこと、嫌いだからとか?」
【ちょっと柴崎泰広、学校で犬猿の仲だからって、いくらなんでもそれはどうかと思うよ。バイト先のトラブルでも世話になったんだし、飯食わせて一晩泊めてやるくらい、どうってこと……】
「そんなんじゃないですっ!」
柴崎泰広は、半分裏返った声で叫んだ。
同時に、ケツポケに伝わってくる微かな振動。
血の気のない顔に、異様に浅く早い呼吸。
額を幾筋も流れ落ちていく、大粒の汗。
そこにきてあたしもようやく、ただ事じゃない柴崎泰広の様子に気がついた。
「本当に、ダメ、なんです……」
かすれた声でそう言うと、柴崎泰広ははっきりわかるほど震える両手で頭を抱える。
「……柴崎? 大丈夫か?」
西ちゃんも異変に気がついたらしい。腰を屈めると、俯いている柴崎泰広の顔をのぞき込む。
「近寄るな!」
刹那、柴崎泰広は右手で西ちゃんを激しく払いのけた。
その荒々しい反応に、西ちゃんは目を丸くして立ちすくむ。
柴崎泰広は震えながら目線を落とすと、かすれた声を絞り出した。
「……それ以上、近寄らないで……お願いします……」
わななく唇から絞り出される震える声と、苦し気な呼吸。傍目にもはっきり分かるほど震える両手。
西ちゃんはスポーツバッグを担ぎ上げると、目線を落として小さく頭を下げた。
「……わかった。俺、もう行くから。ゴメンな、柴崎。無理言って」
西ちゃんが傾きかけた門扉をくぐり、暗い通りの向こうに消えてしまうと、柴崎泰広は足の力がなえたかのように、玄関扉に背中を擦りつけながら座り込んだ。
【柴崎泰広、あんた……】
「ごめん……彩南さん……」
柴崎泰広は膝を抱えた。その両手は、相変わらず病的に感じられるほど激しく震えている。
あたしにだけでも事情を説明しておきたかったのだろう、柴崎泰広は、とぎれとぎれに言葉を絞り出した。
「僕……男性が、この家の、敷地に入るのが……何でだか分からないけど、昔から、本当にダメで……だから、業者だろうが、セールスだろうが、誰が来ても、ドアもあけられなくて……母親が出て行ったのも、たぶんそのせいなんです。僕が暴れたりひきつけを起こしたするんで、付き合ってる男性を、家に連れてこられなくて、それで、……」
やっとのことでそこまで言うと、柴崎泰広は顔をひざにうずめた。茶色い髪が、街路灯の淡い光を反射しながら細かく震えている。
あたしは冷たいコンクリートのたたきに転がった状態で、そんな柴崎泰広を半ばぼうぜんと眺めやっていた。
コイツの抱えているトラウマ。
その正体を、あたしはまるっきり知らない。
知らないまま、コイツと一緒に暮らして、知らないなりにフォローして、そうしたら以前よりはコイツも多少社会復帰できて、というか、できたような気がしてて。
それでいいと思ってた。
でも、それじゃダメだったんだ。
トラウマの詳細を問いただしても、恐らく柴崎泰広は答えることはできないだろう。トラウマっていうのはそういうものだから。記憶から葬り去ることでしか、精神の平衡を保てないほどの苦しみだから。
あたしにもトラウマはあるけど、あたしは自らの意思でああいう行為をしたし、その見返りも多少は手にしている。だからこそ記憶から完全に葬り去らなくても、ある程度精神の平衡は保っていられる。
でも、柴崎泰広のトラウマは、たぶんそれとは全く性質が違う。
目の前で細かく震えている、茶色い髪。
膝を抱えている指先が、頼りないほど白くて細くて。
どうしたらいいんだろう。
あたしは、どうしてやればよかったんだろう。
【……大丈夫だよ、柴崎泰広。あんたは何も悪くない】
とりあえず、現時点であたしがこいつにしてやれるのは、今のコイツを全肯定してやることくらいしかない。
【突然誰かが植え込みから飛び出してくるとか、普通の人だってびっくりするよ。ましてやあんたはやっと男性恐怖症がよくなってきたかどうかってところだったわけで、夏波の一件で疲れてたし、精神的に不安定になっても仕方がないよ。西ちゃんも、たぶんそのへんはわかってくれてると思う。まあ、腹減ったとか言ってたけど、若いんだから二日やそこら食べなくても死にやしないし、駅で寝たって今時期なら凍死することもないし、それにあいつ、やたらコミュニケーション能力だけは高いから、今夜の寝床くらい自力で何とかできるって。泊めてくれる友だちくらい、連絡とればいくらでも……】
「ケータイの電源、切れてるって言ってませんでしたっけ……」
顔を膝に埋めたまま、柴崎泰広がポツリと問う。
【え? あ、……でもまあ、うちを見つけられたんだから、他の家だって見つけられるよ。別に学校の友だちじゃなくてもいいんだし。いざとなったらそのへんでナンパでもして、女の家にしけこむって方法もあるし。……まあ、逆パターンだとちょっと怖いかもだけど】
「……逆パターン?」
柴崎泰広が、膝にうずめていた顔を少しだけ上げてあたしを見る。
【え、……あ、ほら、そっち系の趣味のオヤジにナンパされて、ホテルに連れ込まれてとかだったら、まあ、ちょっとヤバイかな、とか……でもまあ、あいつならたぶんその辺もうまく切り抜けられるよ。大丈夫、心配ないって……】
できるだけプラス思考で明るく流そうとしているのに、それなりに社会の暗部をのぞいてきてる分、つい話がマイナスの方向に流れてしまう。これじゃ安心させるどころじゃないよと焦っていると、ふいに、柴崎泰広が青ざめた顔を勢いよく上げた。
ドキッとして言葉を止め、様子をうかがってみるも、そのまま何を考えているのか、西ちゃんが去った暗い通りの方を黙ってじっと見つめている。
【あの……】
「……彩南さん、西崎さんって、どっちの方向に行きました?」
【え? えっと……たしか、突き当りを、左……駅の方向に向かったと思うけど……】
柴崎泰広は弾かれたように立ち上がった。
突然の行動に面食らって言葉を飲み込んだ、次の瞬間。
傾いだ門扉を吹っ飛ばす勢いで開け放つと、柴崎泰広は全速力で駅方向に走り出した。
――え?
疾走の勢いで、重力に引かれていたはずの体が、たちまちのうちに地面と水平に浮かび上がる。
あまりのことに動転して何も言えずにいるうちに、柴崎泰広は薄暗い路地を抜けて大通りに出た。左に曲がると、すぐに踏切が見えてくる。
と、運悪く警報機が点滅を始めた。遮断桿がゆっくりと下りてきて、柴崎泰広の行く手を無慈悲に遮る。
イライラと足踏みしながら、柴崎泰広は不安げに呟いた。
「……間に合いますかね」
思わず、まじまじとその顔を見つめ直してしまった。
【あんた、まさかって……西ちゃんを追いかける気?】
柴崎泰広は踏切に目を向けたまま、小さくうなずいた。
「あと一時間くらいで彩南さんと交代できますよね。交代してクマるんに入れば、たぶん何とか耐えられると思うんで……それまでは家の外で待ってもらうことになるとは思うんですけど、それで西崎さんが構わないかどうか、聞くだけで聞いてみようと思って……というか、いくらいっぱいいっぱいだったからって、あんなキツイ言い方をしなければよかった。解決策なんてよく考えればいくらでもあったのに、なんであんなひどい言い方をしちゃったんだろう……」
そう言うと、柴崎泰広は悔し気に唇をかんだ。
相手のことを思いやれる程度には、病的な緊張状態が緩和されているらしい。ホッと胸をなでおろしつつ、西ちゃんの動向を考えてみる。あの家から駅までは、走れば五分、歩けば十分、重い荷物を持っている西ちゃんなら、十二,三分はかかる。出だしの遅れと踏切のタイムロスを考えると、ギリギリ追いつけるかどうかといったところか。
銀色の車体に青いラインの電車が、轟音を立てて目の前を通過する。
【これで踏切が開けば間に合うけど、そうじゃなければ、タッチの差で電車に乗っちゃうかもね。追いつけるかどうかは、ちょっとギリギリのラインかな……】
長ったらしい車両の最後部がようやく行き過ぎると、警報音が途切れ、遮断桿が上がり始めた。柴崎泰広がほっと表情を緩めて足を踏み出しかけた、刹那。運悪く下側の矢印が点灯し、上がりかけた遮断桿が再び下がり始めた。下り電車も通過するらしい。
柴崎泰広はきつく唇を引き結ぶと、やおら遮断桿を持ち上げた。
――え⁉
戸惑うあたしに構わずその下をくぐり抜け、警報機がリズミカルに点滅する踏切を突っ切り、全速力で走り始める。
――マジ?
思わず、その横顔を二度見してしまった。
校則その他、社会の基本的なルールには特段の抵抗を示さず従順に従ってきた柴崎泰広にして、こんな明確なルール違反は恐らく初めてと言っていいだろう。そうせざるを得ないくらい強い思いに突き動かされてるってことなんだろうけれど、ついさっきカラオケボックスで見せたあの頼もしい表情といい、今まで見たこともない柴崎泰広の新しい面がここにきて次々に現れ始めている気がして、嬉しい反面、なぜだか寂しいような心もちを覚えて、そんな気持ちになる理由がよくわからなくて、あたしは内心戸惑っていた。