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57/112

57.よろしく頼むね

すみません。はっきり言って汚いです。

汚いのが苦手な方はご覧にならないでくださいm(_ _)m

「柴崎!」

 

 須藤にはがいじめにされた夏波は、引きずられるようにしてソファの方に引っ立てられた。


「離して! 離してよもう痛いじゃないバカ!」


「いいですよいくらでも大声出してください。カラオケボックスの防音は完璧だし、何だったらお好きな曲でも大音量で流しましょうか。何にします? 麦津玄師? 女王蟻?」


「……クープランの王宮のコンセール」

 

「は? ……まあ何でもいいや。とにかくねえ佐藤さん、僕らだって、別にこんな非人道的なマネをしたい訳じゃないんですよ。佐藤さんが今すぐあの男と別れて僕と付き合うって約束さえしてくれれば、森田の貫通式はやめさせますし、あいつらには佐藤さんに絶対に手を出させません」


 須藤はその目に爬虫類はちゅうるいのような光を宿しつつ、夏波の体を上から下まで舐めるように眺めまわす。


「……ただまあ、ここまで話がこじれた以上、彼氏さんはとりあえず縛り上げて、そのへんで僕と佐藤さんが結ばれる感動的なシーンをご見学いただくことにはなると思いますけどね」


 須藤は勝ち誇ったような表情で、右手を夏波の頬に伸ばした。

 その手から逃れようとあとじさるも、背後は壁で逃げ場がない。


「……ああ、もうすぐ四年越しの思いが果たされる瞬間がやってくるんだ。何だか信じられない気分だなあ。あとすこしで、佐藤さんが僕のモノになるなんて……」


 須藤が熱に浮かされたような表情で呟きながら夏波の頬に手を添え、きめ細やかな肌の感触を堪能するように、ゆっくりと輪郭に沿って動かす。夏波は必死で顔をそむけると、耐え切れなくなったように叫んだ。


「やめて!」


 夏波の切羽詰まった叫びが鼓膜を貫く。でも、こんな危機的な状況ですら、半分飛びかけているあたしの意識にまでは届かない。

 抵抗しないのをいいことに、DQN男とチャラ男は、着々とあたしの腕をビニールテープで縛りあげて動けないようにしてる。

 仕方がない。どうしようもない。何をしてもムダ。諦めよう。あの時みたいに、少しの間だけ自分を殺してガマンをすれば、大丈夫。きっとやりすごせる。

 言い訳めいた思考が頭を占領しかけた時。ふいにある事実に思い当たった。


――でも、この体はあたしのものじゃなくて、柴崎泰広の持ち物なのに?


 その事実に思い当たった、刹那。

 途切れていた回路がつながったかのように、突然、クマるんの切羽詰まった送信があたしの脳いっぱいに響き渡った。


【しっかりして、彩南さん!】


 衝撃に、思わずハッと目を見開いた。

 その途端、ソファに押し付けられた佐藤夏波に覆いかぶさるようにして、須藤がよだれでもたらしそうなにやけ顔を限界まで接近させている様が視界に映りこんだ。ゾッと背筋に寒気が走り、思考が一気に現実に引き戻される。


「やめられるわけがないでしょ? ほら、早く、僕のものになるって言っちゃいなよ。そうしないと、彼氏さん、もうあとがないよ? 森田君、言うて結構テクニシャンだからね。彼女の前で男に突っ込まれて絶頂とか、そんな醜態、彼氏さんが見られたくないのはもちろん、佐藤さんだって見たくないでしょ? 百年の恋も冷め果てちゃうよねえそんなの見ちゃったら」


 夏波は目を固く閉じ、震えながら、数センチの距離まで接近した須藤の顔から必死に顔をそむけている。気色悪い声に、鼓膜が膿みそうだ。

 ただ、須藤のおぞましい予言は確かに現実化する可能性があるというか、そうなる確率の方が圧倒的に高いと認めざるを得ない。あたしの手はすでに、DQN男とチャラ男によって後ろ手にビニールテープで縛り上げられ、目の前には、森田とかいうゲス野郎が迫っている。夏波を助ける以前に、どうやってこの危機を回避すればいいのか、まるっきり見当もつかない。必死で打開策を考えようとするも、焦りばかりが先走り、脳が沸騰して、何が何だか分からなくなる。どうしたらいいの。誰か教えて。あたしを助けて。


【十分間だけしのいでください!】


 ふいに、あたしの切実な心の叫びに答えるように、やけに冷静な柴崎泰広の送信が脳髄を貫いた。


【僕との交代が可能になるまで、あと十分なんです。彩南さんは、その十分間を何とかしのいでくれればいい。あとのことは、僕がなんとかします。十分間だけ、あいつらのいいなりにならないで、須藤とか言うやつの気をそらして、事態を膠着こうちゃく状態で引き伸ばしてください】


――気をそらすって、どうやって?


【あいつらの気をそらすには、何か連中の予想していない、思いがけないトラブルを起こすのが効果的だと思います。ただ、トラブルを起こせば当然マイナスの反応が予想されるわけで、暴力を誘発する可能性のある大きなトラブルはNGです。十分間、状況を維持して持ちこたえられる程度の軽いトラブルを……逃げるふりをして机の上の飲み物を倒すでも、この部屋の備品をこわすでも何でもいいんで、起こしてほしいんです。すみません、さじ加減が難しいとは思うし、それでも何らかの反撃にあうかもしれないし、本当に怖いだろうと思うし、彩南さんにそんな思いをさせてしまうのはしのびないんですけど……十分間だけ、なんとか時間を稼いでもらえれば】


――思いがけない、トラブル?


 大して抵抗しなかったためだろう。森田はあたしを言いなりにできると思いこんでいるらしい。ニヤニヤ笑いながらあたしのワイシャツのボタンを外すと、あらわになった胸元を手のひらで撫でまわし、親指で乳首をいじりまわしてから、舌先でぺろりと舐め上げた。


「……!」


 おぞましい感触に全身に鳥肌が立ち、思わず息をのんで体を震わせると同時に、腹の底から嘔気が一気に膨れ上がってくる。

 あたしの反応を見て、森田は興味深げに口の端を引き上げた。


「……へえ、感じてんの? ひょっとして、乳首だけでイケるクチ?」


――この、ゲス野郎!


 怒りメーターが一気に臨界点を突破すると同時に、つい先ほどのクマるんの送信が頭によみがえってくる。


『何か連中の予想していない、思いがけないトラブルを起こすのが一番効果的だと思います』


――それなら。


「……こんなんでイけるかってんだよタコ」


「ああ?」


 予想外の攻撃的な返答に、森田は動きを止めた。眉根をきつく引き寄せて、口の端をひん曲げて顔を上げる。

 腰のあたりで、クマるんが息をのむ気配。


「今なんつった? おまえ」

 

 異変に気づいた須藤が、夏波に近づけていた顔を上げてこちらに目を向けた。


【ちょっと彩南さん、今のはまずいです。早く謝って……】


 焦りまくったクマるんの送信を無視し、森田をにらみつけながら、わざと声を張り上げて煽り立てる。


「男がいきなり乳首でイけるわけがねえっつってんだよこのタコ。処女が血流しながら絶頂できると思いこんでる二次元オタクレベルの妄言吐いてんじゃねえよクソが!」


 森田は血走った眼を大きく見開いた。こめかみの血管がみるみるうちに膨れ上がり、頬がビクビクと痙攣し始める。次の瞬間、森田は固く握りしめたこぶしをあたしの眼前に高々と振り上げた。

 これでいい。

 このくらいのことをしなければ、状況を止めることなんかできない。柴崎泰広の体に傷をつけるのは申し訳ないし、歯の二、三本折れるかもしれないけど、そのくらいの危険を背負わないとダメなフェーズだってのは、そういう経験をそれなりにしてきたあたしには、わかる。


【彩南さん!】


 ごめん、クマるん。

 絶望的なクマるんの叫びに手を合わせつつ、息を詰めて目を閉じ、きつく歯を食いしばって衝撃に備える。


「あ、あーっと、ダメダメ、ダメだよ森田くん!」


 ふいに裏返ったような須藤の声が響き、空を切りかけた森田の拳が中空でピタリと停止した。


「言ったよね、傷害事件だけは絶対に起こすなってパパから厳命されちゃってるって。このところ警察からも目をつけられてて、傷とかの明らかな証拠が残ると、かばい切れないんだって。こんなやつらに示談金をふんだくられてもしゃくでしょ? レイプが一番ごまかしが効くからさ、悪いけど、今日のところはぶち込むだけでがまんしてよ」


――へえ、それはいいことを聞いた。


 クマるんが一気に脱力する気配を腰のあたりに感じつつ、気づかれないように口の端で小さく笑う。

 拳を振り上げた姿勢のまま、憤怒の形相で固まっていた森田だったが、荒い呼吸を整えながら震える拳を収めると、血走った目であたし――シバサキヤスヒロをにらみつけた。

 森田はシバサキヤスヒロより数センチ背が低い。必然的に軽く見上げるような姿勢になりながら、すっかり後ろ手に縛られて自由を拘束されたあたしの襟首を荒々しくつかみ上げると、顔を至近距離まで近寄せて、敵を威嚇する小動物さながら黄色い歯をむき出した。タバコと酒の混じった生臭い口臭に、再び強い嘔気が込み上げてくる。


「……須藤の頼みだからガマンしてやるけどな。ホントだったらおまえ、半殺しじゃ済まねえんだからな? 歯なんか全部なくなる勢いで殴り倒して、内臓グチャグチャになるまで蹴りつぶしてやっから。運がよかったな、貫通式程度ですんで」


 全身全霊をかけたであろうその脅しの言葉を、わざと怒りを煽るように鼻で嗤いとばしてみせる。


「は? おまえらの都合なんか知ったことかよ。あれこれすごんでみせたところで、どうせたいしたことはできやしねえんだろ?」


「……んだと!? おまえ、自分の立場がわかってんのか⁉」


 森田は悪鬼のごとくに顔をゆがめると、あたしの襟元をさらにきつく掴み上げた。再び、クマるんが息をのむ気配。


【彩南さん、やりすぎですって! いくら縛りがあるからって……】


 大丈夫。いいんだよこれで。

 首がきつく締め上げられて呼吸がしにくくなると同時に、嘔吐感と頭痛がさらに強くなった。顔をゆがめて息を詰めたあたしを見て、森田はバカにしきったように鼻で嗤う。


「おまえの方こそいくら喚いたところで、できることなんかなーんもねえだろうがよ。佐藤ちゃんの前でカッコつけたいんだか何だか知らねえけど、なんもできねえくせに、いかにもなんかできそうな風で無駄なイキりかましてんのマジで空しいしクソだせえからな?」


 森田の酒臭い息とタバコと汗の混じった臭気にあてられ、怒涛のように突きあげてくる嘔気に耐えながら、かすれた声を絞り出す。


「……マジでなんにも出せねえと思ってんの?」


「はあ? 出せねえだろ普通に考えて。両手縛られてるくせになに言ってんの? できるってんなら今すぐなんか出してみろよ。なんも出ねえくせに、口先だけでイキってみせてんじゃねえよクソが!」


 時は満ちた。しなびたトウモロコシのような歯を剥き出している森田の顔を真っすぐに見据え、あたしは大きく息を吸う。


「……じゃあ出しますよっ!」


 叫ぶと同時に、喉を駆け上がってきた嘔吐物を、森田の顔目がけて盛大にぶちまけた。

 吐しゃ物特有のあのえた臭いが一瞬で部屋中に充満し、頭から嘔吐物を浴びせかけられた森田は、すぐには事態が把握できなかったらしく目を点にして数刻立ちすくんでから、地獄の底から響いてくるような、絶望の雄たけびをあげた。


「……うわあああああああああああああああああああああああああああああっ」


 口や目に吐しゃ物が入ったのだろう、狂ったように顔についた嘔吐物のカスを手や腕でこそぎ取っている森田の様子に、須藤はもちろん、DQN男もチャラ男も真っ青になって立ちすくんだ。


「も、……森田!? おい、おまえ、いったいどういう……う!」


 こういうお下劣な事態に全く慣れていないのだろう、お育ちのいい須藤は、そのあまりにも醜悪で凄惨せいさんな光景に、突き上げてくる吐物を抑えることができなかったらしい。気配を察知した佐藤夏波がソファから飛び降りた次の瞬間、ソファの上に盛大に噴出した。

 さらに濃い臭気が部屋を覆い尽くし、あまりの事態に、カラオケルームはパニックに陥った。 

 ぼうぜん自失している須藤の吐物処理をギャル男が必死になってやろうとするものの、部屋に備え付けられていた箱ティッシュはあっという間に底をつき、あたりはゲロまみれのティッシュでたちまちいっぱいになった。目の中や口の中に吐しゃ物が入り込み、自分も嘔吐しながら半泣きで叫び続けている森田の顔を、DQN男が自分のポケットティッシュで拭きとろうとするが、その程度では到底ふき取りきれる量ではなく、また、拭き取ったところで臭いが消えるわけでもなく、あっという間にティッシュは底をつき、森田もDQN男もティッシュの端切れを手やら顔やらに纏い付かて、ぼうぜんと途方に暮れている。

 周囲が阿鼻叫喚に陥っている隙に、夏波はハンカチで鼻を抑えながら、縛られているあたしのそばに駆け寄ってきた。


「大丈夫? アヤカ。にしてもあんた、ものっすごいことやらかしたね……」


「うん。なんかあいつら、あたしたちに暴力は振るえないらしいんで、じゃあ思いっ切り混乱させちゃおうかと思って。ていうか、夏波の方こそ大丈夫だった?」


 夏波はこくりとうなずくと、苦笑めいた笑顔を浮かべた。


「アヤカがいろいろ妨害入れてくれたおかげで大丈夫。マジでギリギリだったけどね」


「少しは役に立ったみたいでよかった。したら、この混乱をうまく利用して逃げるよ。このあとの動きを伝えるから、ちょっと耳を貸してくれる?」


「わかった」


 あたしたちの存在など、須藤たちの頭からはもはや完全に消えているらしい。部屋の隅でコソコソと話をしているあたしたちに注意を払う者は皆無で、一番近い位置にいるDQN男も、泣き叫ぶ森田をどうすることもできず、途方に暮れたような顔で須藤に泣きついた。


「ダメだ須藤、俺もうこれ以上こんな臭え部屋にいんの耐えらんねえよ。店員に連絡して、部屋を変えてもらおう。こいつらは逃がさないように俺らが気をつければ大丈夫だし、森田だってこんなの洗い流さなきゃどうしようもねえし、俺も顔とか洗ってこねえと、マジで……おぇ」


 部屋中に充満した臭気にあてられて口もとを押さえるDQN男の様子に、憔悴しきってぼうぜんとしていた須藤もようやく正気を取り戻したらしい。慌ててうなずくと、電話型のインタホンを手に取った。


「わ、わかった。今から連絡するけど、じゃあ、光村くんが僕と一緒に佐藤さんのそばについて。笹原くんは森田くんを介抱しながらになっちゃうけど、逃げださないようにそいつのこと見張れる?」


「あ、ああ。わかった。手縛ってあっから大丈夫だろ」


 DQN笹原がうなずくと、光村と呼ばれたギャル男は須藤の言葉にしたがい、あたしの隣に寄り添っていた夏波の腕を乱暴に掴んで、須藤の方に引きずっていく。


「夏波!」


 慌てて声をかけると、ギャル男に引っ立てられながらも夏波はちらりとあたしに目配せをし、左手で小さくOKマークを作ってみせた。

 小さく息をついて背中を壁にもたせかけると、クマるんが控えめな送信をよこしてきた。


【はあ……とりあえず、なんとかなりましたね】

   

「うん。ありがとクマるん、あたしあの時、完全に思考停止してたから、あんたに助言もらってマジで助かったよ」


 素直に感謝したつもりだったのだけれど、クマるんはジトッと横目でにらむようにあたしを見た。


【僕の助言なんか、全力で無視されてませんでした? あれほど煽るなって言ったのに……いつ殴られるかって、ヒヤヒヤしっぱなしでしたよ】


「ごめんごめん。だって、そのくらいしないと連中の動きを止めらんないと思ったんだもん。でもそのおかげで、須藤がオヤジさんから暴力禁止で縛られてるってのもわかったし、そのおかげであんな思い切った行動もとれたわけだし、結果オーライってことで☆」


 クマるんは苦笑めいた雰囲気で首をかしげた。


【それにしたって、ここまで思い切ったことをするとは思いませんでした】


「このくらいしないと脱出のチャンスなんか生まれないって。あんたのおかげでゲロ臭にはある程度慣れてたし。で、このあとはあんたの提案どおりにやるんでいいよね。夏波にも、もう指示は伝えてある。あともう一息、がんばろう」


 そう言って努めて明るく笑いかけるも、なぜだかクマるんは、あたしを探るようにじっと見つめて黙っている。


「……クマるん?」


【大丈夫ですか? 彩南さん】


「え? 大丈夫って……」


【僕も同じような症状もちだからわかるんですけど、ああいう症状が出たあとって、そんなすぐに普段通りに戻れるわけじゃないですよね。気丈にふるまってますけど、顔色も悪いし、まだそんなに気分がよくないんじゃないですか?】


 思わず、クマるんの顔をまじまじと見つめ返してしまった。


「……あ、うん。まあ、実を言えば、頭痛とかは、まだそれなりに……。でもまあ、一人のときはこのくらいの不調でも普通に動いてたし、別に心配しなくても、全然……」


【一人じゃないです】


 遮るようにさしはさまれたその言葉に、思考が一瞬停止してしまった。

 クマるんはやけに真剣な雰囲気で、あたしを正面から見つめている。


【彩南さんはもう一人じゃないです。つらいときはつらいって言ってください。そういう時は、僕が代わりになんとかします】


 あまりにも思いがけない言葉すぎて、何を言っていいかわからなくなって、しばらくはただぼうぜんと黒いビーズの目玉を見つめ返してしまった。


「……え、あ、いや、でも、なんとかするって言ってもさ……この狭い密室に、あんたの苦手な男が四人も詰まってるわけで、この状況って、あんた的にもかなり厳しいシチュエーションじゃないの?」


 クマるんは決然と重い首を横に振った。


【彩南さんがあそこまでがんばったのに、僕がなんにもしないとかありえないです。学校や仕事でこういう状況にはだいぶ慣れましたし、吐き気が出たら、それこそまたあの連中にぶっかけてやればいいんで】


「……あ、でもさ、臭いは大丈夫? はっきり言って、今この部屋の臭い、地獄だよ。吐き気はそのせいでもあるんだけど」


【問題ないです。三途の川から戻ってきた時もそうだったんで】


 こんな頼もしい回答、今までのクマるんからは想像もつかない。なにがクマるんをこうまで変えたのかはわからないけど、なんだかウルウルきてしまって、思わず腕で目元をゴシゴシこすってしまった。


「……いやあ、なんていうか、成長したねクマるん。負うた子に教えられじゃないけど、まさかあんたに助けられる日がくるなんて、こっちに来てすぐのときには思ってもみなかったよ」


 クマるんは楕円の右手を差し出しながら、恥ずかしそうに首をかしげた。


【どんだけ僕の信頼薄いんですかって感じですけど……まあ、頼りないのは確かなんで、なくした信頼はこれから取り戻せるように頑張ります】


「期待してる。じゃ、あとは頼むね」


 あたしがクマるんの楕円の手を握った、その時。


「失礼します。いかがされましたかぁ?」


 ノックの音が響いて、野々村くんの間延びした声とともに、カギの外されるガチャガチャという音が聞こえてきた。

 扉を開けた野々村くんは、目と鼻に襲いかかってきたこの世のものとも思えない惨状に言葉を失って立ちすくんだが、すかさずその胸に、ゲロまみれの須藤が走り寄ってすがりついた。


「野村くぅん、聞いてよぉ。あのバカがいきなりゲロ吐きやがって、僕までもらいゲロしちゃって部屋が滅茶苦茶になっちゃったんだよぉ。てことで、急いで別の部屋を用意してもらえる? 僕たちがトイレで顔とか洗ってる間に、お願いね。あ、あと、森田くんに何か着替えも持ってきてくれる?」


 野々村くんは顔をこわばらせながら、引き気味にうなずいた。


「わ、……分かりました。今すぐお持ちしますので……階段脇にあるトイレの方にお持ちすればよろしいですか?」


「うん、そうして」


「わかりました。すぐにご用意しますので、少々お待ちください」


 野々村くんは引きつった笑顔で一礼すると、そそくさと廊下を走り去った。


「じゃ、全員でトイレに移動するけど、光村くんは僕と一緒に、佐藤さんが逃げないように見張って。笹原くんはさっきも言った通り、その男と森田くんを……」


 そう言って須藤が柴崎泰広の方を振り向いた、刹那。

 柴崎泰広の口から滝のようなゲロが、キラキラ輝きながら床をめがけて一直線にほとばしった。

 四人の男たちは、顔を引きつらせて凍り付く。


「ご……ごめんなさい、やっぱり僕も、耐えられなかったみたいで……」


 柴崎泰広が、とても演技とは思えないような……実際、半分以上本気なんだろうけれど……青ざめた顔でそう言うと、いつ吐くか分からない状態の人間を二人も介抱しなければならなくなったDQN笹原は、うんざりした顔で大きなため息をついた。


「……わかった。さっさと移動しようぜ、須藤。早くなんとかしねえと、こっちまでどうにかなりそうだ」


 荷物はてめえで持てと言われて、カバンを突っ込まれてさらに膨らんだ夏波の紙袋を縛られた後ろ手にぶら下げられた柴崎泰広は、部屋を出たところで隣を歩くDQN男に遠慮がちに問いかける。


「あ……あの、廊下でまた吐いたらまずいんで、手の縄を切って、ビニール袋か何かを持たせてもらうってのは……」


 笹原は魂胆は分かってるとでも言いたげに、ピアスだらけの顔を柴崎泰広の方に突き出す。


「んなこと言って縄を切らせて逃げるつもりなんだろ? そんな見えすいた手に乗るかよ、ヴァーカ!」


 笹原が酒臭い息を吐きかけながらそう言った途端、息をのんだ柴崎泰広の口が、嘔吐物で満タンに膨らんだ。それを見た須藤の顔から、音を立てて血の気が引く。


「ああああああああああっ、ダメダメダメ、こんなところで吐かせないでよ笹原くんっ、いくらなんでも怒られちゃうって。森田くんは僕たちと一緒に行くから、そいつだけ早いとこトイレに連れてって!」


「わ、わかった。おいおまえ、こんなところで出すんじゃねえぞ! 荷物はもってやるから、トイレまで全速力で走れ!」


 泡を食って走り始めるあたしたちを見送りながら、夏波が須藤に問いかける。


「ねえ、あたしもトイレに行きたいんだけど……まさかって、誰かついてくるとか言わないよね?」


 須藤は首を振ると、ずるがしこいキツネのような目で夏波を見た。


「言いませんよ。トイレの外は光村君に見張ってもらいますがね。残念ながら、あのトイレには人間が出入りできるような窓はないですから。あるのは換気扇だけなんで、逃げようなんて考えても無駄。ごゆっくり、出すものを全部出してきれいになって、僕との初夜を迎えてください☆」


 気色の悪い発言に吐き気を覚えつつも心の中でガッツポーズを決めていると、男子トイレの個室に駆け込んだ柴崎泰広は、便器に覆いかぶさるようにして盛大に吐き始めた。扉をあけ放った個室の外に立っている笹原は、気色悪そうに顔をそむけていたが、出入り口さえ押さえていれば安心と思ったのだろう、柴崎泰広から目を離すと、あとからやってきた須藤と森田の世話を、見かけによらずかいがいしく焼き始めた。隣の女子トイレからは、扉の閉まる音と、鍵をかける音がかすかに響いてくる。夏波の方も、準備が整ったようだ。あとは手を縛っているビニールテープを何とかするだけだ。

 さきほど、ポケットの中に夏波がそっとしのばせてくれたカッターナイフを楕円の手にとり、柴崎泰広の背中によじ登って、後ろ手に縛られている柴崎泰広の手にそれを握らせる。柴崎泰広は吐き戻すフリをしながら、そのカッターの刃を出して、手首のビニールテープにあてる。あたしが刃を当てるポイントを微調整し、時にはテープを引っ張りながら、苦労しつつも無事に数分でテープを切ることができた。柴崎泰広は自由になった両手で、連中に気づかれないようにそっとトイレの扉を閉め、鍵をかける。

 そこまでの作業を何とか終了させることができて、柴崎泰広とあたしは思わずハイタッチをしたけれど、大事な仕事がまだ残っている。柴崎泰広は携帯を開いて、しっかりと旗が立っているのを確認すると、大きく息を吸い込んで、わざとらしく大声で喋り始めた。


「あ、もしもし、北山署ですか? お願いです、助けてください! 僕、今居酒屋で、同級生にカラオケルームに監禁されて、暴行されそうになってトイレに逃げ込んだところなんです。場所ですか? 下北山駅南口徒歩一分、居酒屋ドンドンの二階のトイレです。僕の友だちも同じ被害に遭っていて、今女子トイレに逃げ込んでます。僕たちを監禁したのは南沢高校の男子生徒で、首謀者の名前は須藤っていいます。警察の方でも多分知られてる名前だと思いますけど……お願いです、一刻も早く来てください!」


 洗面台で嘔吐していた須藤たちは、話を聞きつけて青くなった。柴崎泰広の入っている個室に駆け寄り、ドアを激しくたたき始める。


「おい! おまえ! いったいどこにかけてやがる! おい、開けろ!」


 壊れそうなくらい扉が揺すられ、叩かれてはいるが、カギはそれなりにしっかりとしたつくりで、破壊するにはある程度の時間を要するだろう。扉と天井のスキマはわずか十五センチほど。人間が入り込める幅ではない。スキマから様子をのぞくと、須藤が頭を掻きむしりながらウロウロと歩き回っているのが見えた。


「うっわー……、なんで僕、携帯を取り上げなかったんだろう……あまりのことに動転してて、そこまで気が回らなかった……警察って……ヤバいなあ。マジでヤバいよ。光村くん! 女子トイレの佐藤さん、なんとか引っ張り出してきて! こうなったら佐藤さんだけでもつれて行かないと」


 女子トイレを見張っていた光村という男が、女子トイレの中に走り込む。柴崎泰広は、ここぞとばかりに大声を張り上げた。


「あ、はい。ありがとうございます! 三分で現着すね。わかりました。今、連中がトイレの扉をガンガンぶったたいてるんですけど、聞こえますか? はい、カギはしっかりしたつくりなんで、三分くらいなら大丈夫だと思います。もし万が一間に合わなくても、店を出るまでにはたぶん会えると思うので……ありがとうございます。僕たち、南沢高校の制服を着てるんで、見ればすぐにわかると思います。じゃあ、一刻も早く、よろしくお願いします!」


 「三分」という言葉を聞いて、三人の顔から音を立てて血の気が引いた。DQN男が悔しそうに吐き捨てる。


「……須藤、あきらめようぜ。現行犯で捕まりさえしなきゃ、オヤジさんの力で何とでもなるとして、つかまったら言い訳の仕様がねえ」


 さすがの須藤も、これ以上は手の打ちようがないと観念したらしい。ガックリとうなだれるようにうなずいた。


「……わかった。女子トイレの光村くんにも声かけて。裏口から出れば、とりあえず警察と出くわすことはないと思うから」


「森田、洗うのは顔だけにしとけ! 時間がねえからそのまま行くぞ! 早いとこ逃げねえと、現行犯逮捕されちまったら終わりなんだよ!」


首根っこをつかまれて引きずられているのだろう、「ま、待ってくれよ笹原……ゲホッ」という、森田の掠れた声とともに、複数の足音が遠ざかっていく。

 あたりはすっかり静まりかえり、店内にかかっている有線放送の微かな音楽と、酔客たちの笑い声が遠くから響いてくるだけになった。


【……もう出ても大丈夫かな】


 柴崎泰広は小さく首を振った。


「立ち去ったふりをして隠れている可能性がゼロじゃないので、服を持ってくるというあの店員さんが来るまでは中にいた方がいいと思います。佐藤さんにも、僕が声をかけるまでは外に出ないように言ってありますし。もう少しだけ、ガマンしましょう」


【警察には、本当に連絡したの?】


「していません。いろいろと面倒だし、さっきの話からすると、警察と須藤の父親に何らかのコネがあるかもしれないので……それに、僕もあんまり身上を公にできる立場じゃないですしね。親は行方不明だし、一人であんな家に暮らしてることが大っぴらになるとまずいですから」


【それは確かにそうだね】


 柴崎泰広は洋式便器のフタをして水を流すと、その上に腰掛け、ようやくホッとしたように表情を緩めた。


「……にしても、あいつらに携帯を取り上げられなくてよかったです。彩南さんが思いっ切り状況を引っ掻き回してくれたおかげで、あいつらもかなり動転したみたいですね。本当に、助かりました」


 そう言うと、携帯にぶら下がるあたしを心配そうに見つめる。


「大丈夫ですか? 気分は……」


【ん。今はクマるんだから吐き気も消えたし、頭痛もない。大丈夫だよ。いやあ……それにしても、今回はいろいろとゴメンね。情けないとこさらしちゃったし、心配もかけちゃって】


 柴崎泰広は優しい表情で首を振った。


「全然情けなくなんかないし、謝る必要もないです。そんな程度で謝ってたら、僕なんか毎日謝らないといけなくなる」


 そう言うと、少しだけ恥ずかしそうに笑ってみせる。


「それに、実を言うとちょっと嬉しかったんです。迷惑をかけるばっかりだった自分でも、誰かの役に立てるようになったんだなって。困ったことがあったら、またいつでも僕を使ってください。ただまあ、今回も結局、彩南さんの英断が事態を大きく動かしたわけで、おまえなんかたいして役に立ってないって言われたら、そのとおりなんですけど」


 その言葉に、慌てて大きく首を振ってみせる。


【そんなことない。あんたがいなかったら、絶対にこんな結果にはならなかった】


 それから、居住まいを正して柴崎泰広を見上げた。


【今日は、本当にどうもありがとう。お世辞でも何でもなく、あんたがいてくれて助かったよ。これからも、よろしく頼むね】


 柴崎泰広は少し頬を赤らめると、照れたような笑顔でうなずいた。


「もちろんです。僕の方こそ、よろしくお願いします」



☆☆☆



「そっかー。じゃあ、ゲロ吐いてたのはアヤカの方で、警察に連絡するふりをしたのは柴崎の方って感じだったんだね」


 にぎやかな駅前広場を抜けて、改札への階段を上がりながら、夏波は感心したようにうなずいた。


「にしても、マジであれはすごかったなあ。さすがのあたしも、ゲロぶっかけるなんて方法、全く思いつかなかった」


 苦笑まじりに夏波がそういうと、柴崎泰広は慌てた様子で頭を下げた。


「あ、その節は、大変申し訳ありませんでした、女の子にとんでもないモノ見せちゃって……」


「謝る必要なんてないよ。今日はマジで助けられちゃったから。本当にありがとう、アヤカ&柴崎。あんたたちのおかげで、須藤撃退も何とか成功できたし。あたしの方こそ、迷惑かけちゃって、ゴメン」


 夏波はそういうと、いたずらっぽい表情で柴崎泰広を見上げた。


「ていうか、柴崎って、アヤカのピンチの時には結構人格変わるよね」


「え?」


 柴崎泰広はキョトンとした表情で首をかしげたけれど、同じことをうすうす感じていたあたしは、心臓もないくせに思わずドキッとしてしまった。


――ほんっと、夏波って観察眼が鋭い……。

 

「? 変わるって……なんかヘンなんですか? どのへんがどんな感じで??」


 真顔で首をひねっている柴崎泰広を見て、夏波はクスクス笑った。


「ていうかさ、あんたたちって、本当にいいコンビだよね。見ててちょっと羨ましい。そりゃ、自分の中に二つも人格があるなんていろいろ面倒くさいとは思うけど、こうやって助けたり助けられたりしてるところを見ると、結構楽しそうだし、心強いだろうなって」


 その言葉に、柴崎泰広は表情を改めると、深々と頷いた。


「……そうですね。本当に心強いです」


 改札を抜けたところで、夏波は踵を返して居住まいを正し、改めて深々と頭を下げた。


「今日はいろいろとどうもありがとう、アヤカ&柴崎。助かりました」


「いえいえ、とんでもないです……っていうか、送らなくて本当に大丈夫ですか?」


「うん。ママに荷物多いって連絡したら、もう仕事終わったから駅まで車で迎えに来てくれるって」


「そうですか、よかった。じゃあこれ、荷物。重いから、気を付けてくださいね」


「アヤカにも伝えておいて。今日はホントに楽しかったって」


 それから、少し恥ずかしそうに付け足す。


「できれば、アヤカとまた一緒に遊びたいって」


 ……え?

 思わずポケットの影からまじまじと夏波の顔を見つめ直してしまった。


「じゃあ、もう遅いから、柴崎も気を付けてね」

 

 夏波は照れ隠しのような笑顔で手を振ると、上りホームへの階段を足早に降りていった。



☆☆☆



「いやあ……今日はいろいろあり過ぎましたね。濃かった……」


 人通りもなく暗い住宅街の道を自宅へ向かいながら、柴崎泰広はしみじみした調子でつぶやいた。


【ホントだよね……さすがのあたしもちょっと疲れちゃったかな】


「あーあ、今から夕飯の支度か……」

 

【交代したのって六時半くらいだっけ。今、まだ八時過ぎだけど、先におふろとか入っちゃってくれれば、その後で交代してあたしが作るのでもいいよ。どうする?】


 玄関扉の前に立った柴崎泰広は、カバンから鍵を取りだしながらかぶりを振った。


「吐いてた人に作らせるほど僕は鬼畜じゃないですよ。でも、今日はホント、手抜きして適当に済まそうかなあ……」


「夕飯くらい、俺がパパっと作ってやるよ」


「いや、ホントいいですって。気持ちが悪い時に、そんな無理をさせるほど……」


 差し込んだ鍵を回す手の動きが、ピタリと止まる。


「……彩南さん、今喋ったのって、……彩南、さん、ですよね」


【……いや、あたしじゃない。てかあたし、俺なんて言わないし】


 震える手で鍵を握ったまま、柴崎泰広は油の切れたからくり人形のように、ギシギシ軋む首をぎこちなく巡らせる。

 果たして、そこに立っていたのは。


「随分と遅いお帰りだったじゃん、俺もう待ちくたびれちゃってさー、植え込みの中で少し寝ちったよ。こんな時間まで、いったいどこほっつき歩いてたの? し・ば・さ・きクン」


 その人物は、屈託のない笑顔を顔中に満載しながらやけに明るくそうのたまった。

 その足元には、何が入っているのか知らないが、パンパンに膨らんだ巨大なスポーツバッグが転がっている。


 ……盛りだくさんの一日は、どうやら、まだ終わりではないらしい。

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