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55.約束は守るよ

「用意できましたよぉ、佐藤さんw」


 帰り支度を済ませて朗らかに声をかけたあたしを、佐藤夏波は不機嫌そうに眉根を寄せ、目を三角にして睨み上げた。


「どーしたんですか、さ、早く行きましょ☆」


「……やけに機嫌良くて気色悪いんだけど」


「そーですか? 美人の佐藤さんと一緒に放課後を過ごせるからじゃないかなあははははは」


 高笑いするあたしに、絶対零度を感じさせる視線の刃を容赦なく突き立てる。


「アヤカはあたしと過ごしたって嬉しくも何ともないくせに」


「は? 誰がアヤカですって? だからー、さっきから言ってるじゃないですか。僕は、柴・崎・泰・広。れっきとした本体の方ですってば☆」


 佐藤夏波は疲れ切ったような表情で、唇の先からため息を絞り出した。


「もういいって。そんな白々しいウソつかなくても」


「は? ウソ? ヘンなこというなあ佐藤さん。僕のどこが本体じゃないって言うんですか? そんな証拠がどこにあるんですか?」


 佐藤夏波の目線が、アイスピックさながらにヘラヘラ笑うあたしを突き刺す。


「……じゃあ、ウジ村が出した課題、今すぐこの場で解いてみせてよ」


 う。そうくるか。


「あ……あれ? 佐藤さん、確か自分でやるって仰ってませんでした? 人に頼ってばっかりだと、自分の力になりませんよー」


「あんたに言われたくないって……あーもう気色悪。何かすんごいイライラするんだけど」


「ま、僕は別に契約破棄したって構わないんですけどね。そうしたら、このまままっすぐ自分の家に帰るだけなんで」


 試しに、あえて強気に出て様子をうかがってみる。

 佐藤夏波はいまいまし気にあたしをにらみつけると、でかいマスコットがぶら下がるカバンを手にした。


「……今のところ、あたしの主観以外に契約破棄の証拠がないんだから、そんな主張をしたって意味ないし。約束どおり、今日が終わるまであたしに付き合ってくれればそれでいいよ」


 言い捨てて教室を出ていく佐藤夏波のあとに続き、あたしも速足で教室を出ながら、きゃしゃな背中をまじまじと眺めやる。


――やっぱり、契約を破棄するとは言わなかったな。


 あの時、あの屋上で、柴崎泰広とギリギリで交代することだけはできた。

 それはいいとして、なぜだか佐藤夏波は、シバサキヤスヒロの変化にすぐに気づいたのだ。どうやらこいつには、中身がどっちなのかが手に取るように分かるらしい。

 交代が発覚すれば契約不履行になるわけで、あたし的には結構焦ったのだけれど、佐藤夏波は契約を破棄するつもりはないらしく、交代に気づいているにも関わらず、放課後も行動をともにするよう命令してきた。中身がどちらであろうが、「シバサキヤスヒロ」の存在を利用する必要があるということなのだろうか。

 だとしたら、今日一日はシラを切り通すしかない。

 交代に気づいたと言っても、それはあくまで佐藤夏波の主観にすぎず、客観的な証拠もなければ証明もできない。であれば、白々しかろうが何だろうが、シラを切り通せばこちらの勝ちなのだ。そうまでしてシバサキヤスヒロを必要とする理由がなんなのかはわからないし、何となく嫌な予感がしないでもないけれど、今はとりあえず言われたとおりにしながら、クマるん奪回のチャンスを狙うしかない。


 でもまあ、気分はいい。

 気分がいいからこそこんな仕事も笑顔でやれるし、こんなふうに階段で背後をとれても無防備な背中をどつかないでいられる。幸運に感謝しろよ、このクソ女。



☆☆☆



 無言で靴を履き替え、校門を抜け、仏頂面して歩くあたしたちに物珍しそうな目線を投げかける生徒たちをやり過ごし、改札に定期をかざしてホームに上がり、狂ったように駆け抜ける通過電車を見送って、到着した電車に乗り込む。

 佐藤夏波は座席には座らずに、突き当たりの戸口脇に立った。

 あたしもその隣で、高い位置にある吊革にぶら下がる。柴崎泰広の体になってからは、このくらいの高さの方がつかまりやすいのだ。

 扉が閉まり、窓の外の風景がゆっくりと流れ始める。

 流れ去る風景を黙って見送っていた佐藤夏波が、ふいに口を開いた。


「この場所? あんたが痴漢にあったのって」


 げ。いきなり何の話だよ。


「……そうですけど」


「それって、どっちの時だったの?」


「どっちって……」


「中身」


 突っ慳貪な物言いがカンに障るものの、答えない訳にもいかない。


「……アヤカさんです」


「へえ」


 佐藤夏波は首を巡らせてあたしを見上げ、ワンオクターブ声をはね上げた。妙に嬉しそうなのはどういう訳だ。


「ビビッた?」


「……そりゃあ。相当ビビりましたけど」


「草」


 佐藤夏波はクスクス肩を揺らしながら再び目線を窓の外に向けた。

 やられたことがないからあの怖さが想像できないんだよと忌々しく思いつつも黙っていると、流れ去る気色に目を向けたまま、佐藤夏波が再びポツリと言葉を発した。


「……オヤジさ」


「え?」


「ウチのオヤジ、あんたのことを助けたって言ってたよね。どんなふうに助けたの?」


 そういえばいちばん最初、そういうふれこみでこの女に近づいたんだった。


「いや、……普通に止めてくれましたよ。痴漢の手ねじり上げて、この恥知らず、かなんか言ってくれちゃって」


 適当な作り話だったけれど、佐藤夏波は嬉しそうに目を輝かせた。


「へええ。意外。あのオヤジがそんなことするなんて」


 そう言ってクスクス笑う佐藤夏波の頭頂部が、視界の下部で楽しげに揺れている。

 その笑い方が、妙にカンに障った。


「佐藤さんて、お父さんと仲が悪かったんですか?」


「は? どういう意味?」


 佐藤夏波は眉をしかめ、目を吊り上げてあたしを見上げた。


「いや、お父さんが亡くなった割には、あまり悲嘆に暮れてる感じがしないな、なんて思ったんで」


 慇懃無礼な態度で、常日頃思っていたことをストレートにぶつけてみる。

 佐藤夏波はぶぜんとした表情を浮かべると、流れ去る景色に目を向けながら、つぶやくように言葉を返した。


「……まあね。あたしはオヤジ嫌いだったし、ウチの家族はバラバラだったから」


 その横顔を見ながら、何だかやけに切なくなった。 


『お願いだ。生き返ったら、家族が無事に生活しているかどうか見てきてくれないか』


 おじさんは、最期の最期まで家族のことを心配していた。

 名刺に書かれていた部長という肩書を見ても、あの立派な邸宅を見ても、佐藤夏波の余裕のある生活ぶりを見ても、おじさんが信じて必死で築き上げてきたものが、おじさん亡き後もしっかりとこの家族を支えているのが見て取れる。

 多分、おじさんが目指してきたものは、おじさんの望む形である程度実を結んだんだろう。

 それなのに、残された家族の口に上るのは、おじさんへの感謝の言葉どころか、ああざけりと罵倒の言葉。

 それでもおじさんは自分の家族を信じていた。自分自身の生き方を信じていた。

 信じたまま、何も知らずに死んでしまった。

 胸苦しさに耐えきれなくなって、つり革に体重を預けて大きく息をつく。


 きっとおじさんは、一人きりだったんだ。

 あたしと同じ、一人きりだったんだ。

  


☆☆☆



「ところで、用事って何なんですか」


 下北山の駅に降り立ったところで、この日三度目の同じ質問をぶつけてみる。


「んー、行けば分かるって」


 この日三度目の同じ返答をすると、佐藤夏波は腕時計に目線を走らせた。


「まだ三時すぎか。ちょっと早いな……ねえ、アヤカって下北の洋服屋さんでバイトしてるんだよね」


「だからアヤカじゃないですって……ていうか、なんでそんなことまで知ってるんですか。まさか、また西崎さん……」


「うん。柴崎の勤務先なうとかいって、昨日たくさんラインきてた」


 ……いつの間に。


「どこの店? ちょっとのぞいてみたい」


「え……でも、無給で余計な仕事を手伝わされそうな気がするんで、今行くのはちょっと」


「何言ってんの? 客を紹介すれば、売り上げに貢献できる可能性があるってのに。いいから連れてってよ、待ち合わせまであと二時間もあってヒマすぎなんだから。これ命令」


 ……くそ。拒否しきれん。


「……構いませんけど、ターゲットにしてる年齢層もお値段も高めですよ。高校生なら、手頃な古着屋にでも行った方がいいんじゃないですか」


「あたし古着嫌いなの。他人の着たもんなんて気持ち悪くて。お金ならあるから心配しないで」


 ああそうですか。

 金満テイストな発言にムカつきつつも、渋々店へ足を向ける。角を曲がると間もなく、開け放たれた入口の扉が見えてきた。


「ここです」


 店の中から、笹本さんお気に入りのクラシック音楽が細く響いてくる。

 佐藤夏波は耳を澄ますと、感心したように目を見開いた。


「へえ、コレッリ? 渋い趣味してんのね」


 何だそのコレ……って。

 いぶかるあたしを尻目に、佐藤夏波はスタスタと店の中に足を踏み入れた。あたしもおずおずとその後に続く。

 幸い店は込んではおらず、女性客が数人、ワンピースやインナーを物色しているだけだった。


「こんにちは……」


 お決まりの定位置に座る笹本さんは、あたしの声に手元の書類から顔を上げ、小さな目をまんまるく見開いた。


「おや柴崎泰広、どうしたんだい珍しい。忘れ物でもしたのかい」


「あ、いえ、その……」


「こんにちは」


 会話を遮るように、佐藤夏波が好感度百二十%の爽やか笑顔で頭を下げる。


「柴崎クンと同じクラスの佐藤夏波といいます。今日は柴崎クンに、お洋服を見立ててもらおうと思っておじゃましました」


 背景にあふれんばかりの花を背負った佐藤夏波の艶やかな笑顔をぼうぜんと見ていた笹本さんは、ややあって、感心しきったようなため息をついた。


「……はあぁ、柴崎泰広も隅に置けないねぇ。こんなにかわいらしい彼女がいたなんて」


「彼女でもなければ友だちでもないです。ただの知り合いですから」


 半オクターブ低い声で即座に否定をかますも、笹本さんはおばさんパワー全開でニヤニヤしながらあたしを肘で突っついてくる。ウザい。


「またまた、照れちゃってw」


 照れてねえし。てか空気読めよ。


「うちにあんたみたいな若い子が気に入るような服があるといいんだけどねえ……ああ、そうだ。奥の倉庫に、若い子なら着こなせそうな、小さめサイズだとか少し尖ったデザインのやつが引っ込めてある。柴崎泰広、案内しておやり」


「わ、ホントですか? ありがとうございます!」


 佐藤夏波がいかにも無害そうな愛くるしい笑顔を振りまきながらぺこりと頭を下げると、あの気難しい笹本さんが、相好を崩してかぶりをふった。

 ……二重人格ってのはおまえみたいなののことを言うんだよ、佐藤夏波。



☆☆☆



「どんな雰囲気が好みなんですか?」


 佐藤夏波は倉庫に来た途端、「似合う洋服テキトーに見繕ってよ」と吐き捨てるように言ったきり、ソファにふんぞり返って枝毛なんぞ探している。何様だよと相当に腹が立ったが、この仕事を続けていれば、この先こういうイヤミな客に出会う可能性は十分にあるわけで、ここはひとつ修行と思って、なんとしても気に入った服を見つけてたんまり買わせてやる。


「んー、……当たり障りない感じ、かな」


 意外な言葉に、ラックをかき分ける手が止まった。

 でも、考えてみれば意外でも何でもない。コイツに抱いた第一印象は「よくいるタイプ」、確かに学校でも、その他大勢に埋没していてあまり目立つ印象はない。


「なじんでいたいんだよね。飛び出ると叩かれるし」


 毛先をちまちま弄くりながら、佐藤夏波は独り言のように言葉を継ぐ。


「中学ン時、ちょっとおしゃれに興味を持った時期があったんだけど、先輩やら面識もない高校生やらにすんごい嫌がらせされて。それ以来、できるだけ目立たないようにしてる。その方が平和だから」


 確かにな。この性格でさらに外見まで尖ったら、そりゃ叩かれるだろうとしか思えんもん。


「ホント言うと、つまんないんだけどね」


 そう言ってちぎった枝毛を吹き飛ばす様を横目で見ながら、一着のワンピースを手にとる。


「……今の髪形と雰囲気をそのまま生かすなら、このキャミワンピあたりがおすすめですかね。Tシャツの上に重ねて着れば、コーデの苦労もなく最短最速で今風のかわいらしさを手に入れられます」


「……へえ、カワイイ」


 佐藤夏波は立ち上がると、あたしの手からワンピースを受け取り、入口脇の鏡の前に立って体に合わせ始めた。


「ただそれの問題は、値段が一万円超えてくるってことですかね」


 言いながら素早くラックをかき分け、見つけたもう一着を手に取る。


「このオーバーサイズシャツならギリギリ八千円台。手持ちのミニスカートやショートパンツに軽く着崩して合わせれば、ボリュームのあるシルエットが適度に今風でかわいらしい感じを出してくれます」


「これだと、靴は何を合わせたらいい?」


「きちんと感を出したいなら普通に靴下を履いてきれい目のローファーとか、ラフな感じでよければ定番のローテクスニーカーとか」


「ドクターマーキンじゃゴツ過ぎる?」


 ふいに、おそよ佐藤夏波にそぐわない製品名が飛び出してきたので、一瞬思考が停止してしまった。


「……そんなん持ってんの?」


「実は、そういうの好きだったりするんだよね」


 佐藤夏波は目線をそらすと、恥ずかしそうに少しだけ笑う。

 その意外なほどカワイイ笑顔に、思わずドキッとしてしまった。


「……なら、思い切ってこんなのはどうかな」


 慌てて平積みしてあるボトムから、店に出せなかった新作のローライズデニムを引っ張り出す。


「これをグランジ風にまとめれば、ドクターマーキンめっちゃ合いそうな気がする」


「うわ、それ系好きかも」


 佐藤夏波も目を輝かせて身を乗り出した。


「トップスは何にするの?」


「ブラトップとか超短丈Tシャツとかでへそ出しして、短丈ブルゾンを合わせるとか。キラキラ感のあるボクシーバッグとかで大人感をプラスすれば、グランジでもきれいな感じにまとめられると思う」


「あ、あたしグラサンもってるけど、そういうのを合わせるものあり?」


「うん、大ぶりのごついヤツ合わせるとカッコいいよね。あたしもそれ系はかなり好き。ただ一つ、問題は……」


 佐藤夏波はクスッと笑って頷いた。


「分かる。髪形でしょ」


「そう。そういう尖ったスタイルに、フツー感満載の甘々ヘアはNGだな。超ロングなら逆にありなんだけど、今の長さから変えるとすれば、やっぱりショートかなあ。長めバングなら子どもっぽくならないし、あんたは後頭部が張ってて首のラインがキレイだから、ショートも全然いけると思う。ただまあ、この服装に合わせるとなるとモードみが高めになるから、一般的って感じではなくなるかもだけど」


「別にしなくていいよ、一般ウケなんて」


 佐藤夏波はうんざりしたように吐き捨てた。


「目立たなければそれで」


「いやいやいや、逆に目立つと思うよ。ただ、媚びてる感じはないから、たたかれるってこともないんじゃないかな。ああいうのでたたくのって要するに八割がた嫉妬じゃん。ていうか、どうする? 試着だけでもしてみる? その気があるならあたし、合いそうな短丈トップスとかインナー、テキトーに見繕ってきてあげるけど」


 興奮して一気にまくしたてたら酸素が足りなくなった。肩を揺らして呼吸を整えていると、佐藤夏波はクスッと笑った。


「……アヤカさ、すっかり女言葉丸出しなんだけど」


「え?」


 マジで?

 思わず見合わせた佐藤夏波の顔が、奇妙に歪んでいた。

 あたしの頬も、不自然に引きつって痙攣してくる。

 無言でしばらく顔を見合わせて、それから二人同時に思いっきり吹き出した。


「……なんだ……もう、全然気づかなかった。早く教えてくれって感じ」


「だって……アヤカすんごい勢いで話しまくってるんだもん、途中で止められないってあんなの」

 

 何だか知らないけど、そのまま二人しておなかを抱えて、涙が出るほど大笑いした。


「……ああおなか痛い。アヤカってマジでヘンなヤツだね」


「あんたには負けるよ……って、どうする? 試着してみる?」


「してみる。試着室は?」


「物置になってる空き部屋があるから、そこを使うといいよ。先に下だけ履き替えててもらってて、あたしはその間にトップスをいくつか見繕っておくから、着替え終わったらいったん出てきて……」


 言いながら、佐藤夏波にジーンズを差し出そうとした、瞬間。


【ちょっとちょっと彩南さん僕の存在忘れてません? このまま試着とか滅茶苦茶まずいですって!】


 焦りまくった送信がこめかみを貫いて、思わずジーンズを取り落としそうになってしまった。

 慌てて目線を下げると、佐藤夏波の制服のポケットから身を乗り出したクマるんが、あたしのズボンをつかみながら必死の形相たぶんであたしを見上げている。


――そうだった、こいつを連れて試着とかヤバすぎる!


「なに? どうかした?」


 佐藤夏波が怪訝そうに首をかしげてあたしを見ている。ヤバい。


「あ……いや、えっと、あの部屋って物置なんで、あまり片付いてなくてゴチャゴチャしてるから、着替えの時にものを落としたりしたらまずいんで……試着の間だけでも、携帯、あたしが預かっておこうか? なーんて……」


 意味不明な投げかけに、佐藤夏波の眉根が不信感満載に引き寄せられる。


「は? 別に大丈夫だよそんなの。子どもじゃあるまいし、落とすとか……」


 言いかけてから、佐藤夏波も何に気づいたのか「あ」と小さくつぶやいて、あたしの顔をじっと見つめる。


「……もしかして、あのクマ?」


「え? さ、さあ、なんのことかな? あたしはただ、大事なケータイを落としたらまずいかなって思っただけで……」


 目線を泳がせながら説得力ゼロの言い訳をしているあたしを探るような目でじっと見つめてから、やがてふっと表情を緩めると、佐藤夏波はケータイとクマるんをポケットから取り出し、ストラップを外し始めた。


「いいよ、もう返す。なんかどうでもよくなっちゃった」


「……え?」


「別に人質なんかいなくても、アヤカはこのあとの約束、守ってくれるんだよね?」


 そう言ってあたしを見上げた佐藤夏波のまなざしに、軽い物言いとは裏腹な真剣さが宿っている気がして、ちょっとドキッとした。慌てて居住まいを正すと、目線を合わせてうなずき返す。


「……もちろん。約束は守るよ」


「ホント? 学校でやってたみたいに、自己都合に合わせてテキトーに解釈捻じ曲げてたりしない?」


 う、痛いところを突かれた……。


「……いや、まあ、確かに、学校ではそういうこともしてたかもだけど……時と場合と相手によるっていうか……」


 しどろもどろで目線を泳がせてしまってから、改めて佐藤夏波に向き直る。


「少なくとも今のあんたに対して、そんなことをする気はないよ」


 夏波は唇の端でちょっと笑ってうなずき返すと、クマるんをあたしにポンと手渡した。


「わかった。信用してあげる」

 

 夏波がジーンズ片手に空き部屋に消えると、手のひらの上のクマるんが感心したような送信をよこしてきた。


【いやあ、考えましたね彩南さん。確かに試着に持ち込めば、佐藤さんも僕を手放さざるを得ないですもんね】


「え?」


 一瞬何を言っているのか本気でわからなくて首をかしげてから、思わず苦笑してしまった。


「あ……いや、ゴメン。その辺のことは何も考えてなかった」


【……は?】


「この店に来ることになったのも、佐藤夏波の服を選ぶことになったのも、試着することになったのも全部なりゆき。正直、あんたはことが終わったら返してもらえばいいやくらいに思ってた」


【……僕の存在、軽すぎやしません?】


「ごめんごめん。でも、とりあえずなんとかなったじゃん。結果オーライってことで、許して☆」 


 右手を顔の前にかざして頭を下げると、クマるんは不満げながらも矛を収めた。


【まあ、別にいいですけど……でも彩南さん、このあと本当に佐藤さんにつき合うつもりですか? 同行に妙にこだわってるし、なんか、嫌な予感がして仕方がないんですけど……】


「うん。まあ、確かにね。あたしも嫌な予感はしてる。でもまあ、乗り掛かった舟だし、元はといえばあんたがあんな約束をしたのが原因なんだし、仕方ないんじゃん? 何かあったら何とかするってことで、とりあえず、早くしないと着替えが終わっちゃうからさ、合いそうなトップス探させてくれる?」


 クマるんとの会話を強引に打ち切って携帯をケツポケにしまうと、なんだか知らないけど顔がほころんでくるような、やけに楽しい気分を抱えながら、似合いそうなトップスを探すべく、超速でラックをかき分け始めた。

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