53.胸が重い
進学校だけあって、授業中の教室は信じられなくらい静かだ。教室の前方からは、ウジ村教諭が黒板に数式を書き連ねる音だけが静かに響いてくる。
気づかれないように注意しながら、佐藤夏波のポケットからそっと顔をのぞかせて、斜め後ろに座る柴崎泰広の様子を盗み見る。
落ち着いた表情でノートをとっている柴崎泰広との距離、およそ二メートル。この距離なら普通に送信すれば意思を伝えられる。ただ問題は、今あたしは佐藤夏波の体と、服を数枚を隔てただけでほぼ密着しているということ。この状態で送信した場合、佐藤夏波が傍受してしまう可能性がゼロとは言えないのだ。微弱な送信なら恐らく大丈夫だけれど、そうすると今度は距離がありすぎて柴崎泰広にまで届かなくなってしまう。
これを回避するには、あたしが佐藤夏波の体から離れる以外にない。さっきからその方法をあれこれ考えてるんだけど、いい案がさっぱり思い浮かばない。
佐藤夏波のポケットから顔だけ出した状態で首を曲げ曲げ考え込んでいると、黒板に向かって数式を書き連ねていたウジ村教諭が、ふいにくるりと振り向いた。
「じゃあ、この2点(1,3)、(3,1)を結ぶ線分を直径とする円Cの方程式を……佐藤」
「はい」
いきなりの指名に臆する様子もなく、佐藤夏波が余裕の態度で席を立つ。
ガタリと椅子が引かれ、ポケットから顔を出していたあたしの体もその衝撃で揺れ、半分外に飛び出していた重い頭が重力に引かれた途端、あたしは携帯とともにポケットからこぼれ落ち、尖った音を立てて床にたたきつけられてしまった。
黒板の方に歩きだそうとしていた佐藤夏波は、その音に眉をひそめて振り向くと、床に転がっているあたしと携帯をぞんざいに拾い上げて机の上に置き、黒板の方に速足で歩いていく。
――……やった!
思いがけないアクシデントのおかげで、佐藤夏波から離れることに成功した。ガッツポーズを決めまくりたい気分で、さっそく斜め後ろの柴崎泰広に意識を飛ばす。
【柴崎泰広、聞こえる? たいへんなことが分かったんだよ! 数学なんかどうでもいいから、ちょっと話を聞いてくれる?】
怪訝そうな顔であたしの方を見た柴崎泰広に、先ほど知り得た情報を早送りのビデオさながらに超速の送信でまくしたてる。
【……という訳。分かった? 佐藤夏波はあんたを誘惑して、その須藤とかいう男の目をそらすための疑似彼氏にしたて上げようとしてんの。だから、あんたは気を確り持って、絶対にあの女の術中にはまらないように……って、聞いてンの?】
危機的状況をなんとか伝えてやろうというあたしの親切な心遣いにもかかわらず、柴崎泰広は微妙に眉根を寄せた中途半端な表情で小さくうなずいてみせるだけだ。
【何その迷惑顔! せっかく教えてやってんのに】
柴崎泰広はおどおどとあたりを見回すと、何やらノートに書き付けてから、机の上に置かれているあたしに見えるように差し上げた。
『授業中に音声での返事はムリですって。送信内容については了解です』
【了解って……ホントにわかってんの? 佐藤夏波との約束なんか律義に守ってる場合じゃないってことだよ? あっちはうちらを利用しようとしているわけで、関係修復もクソもないだから、約束なんかぶっちぎって早いとこ交代した方がいいんだよ。あたしがあんたの体に入りさえすれば、佐藤夏波の攻撃なんかいくらでもかわせるんだから。でもって、あいつが離れた場所にいる今が、絶好の交代チャンスなの!】
柴崎泰広は目を丸くすると、おずおずとこんな文章を示してみせる。
『約束を反故にして、大丈夫でしょうか』
【大丈夫大丈夫。交代なんかしてないってシラきり通せばいいだけだもん。たとえあいつが感づいたとしたって、交代したかどうかなんて誰にも証明できないんだから】
「円Cの方程式は、(x-1)(x-3)+(y-3)(y-1)=0。これを展開して、……」
さっき柴崎泰広にやらせておいた問題なのか、佐藤夏波は黒板によどみなくすらすら答えを書き連ねていく。こちらに完全に背を向けているから、あたしたちの行動に気づかれる恐れは一切ない。
【マジで今が絶好のチャンスだって! 早く手伸ばして、あたしに触って!】
柴崎泰広は覚悟を決めたようにうなずくと、手にしていた鉛筆を放り投げ、身を乗り出して手を伸ばす。隣の席に座る男子生徒がその行動に気づき、怪訝そうな目線をちらりと投げた。
【もう少し腰を浮かして、あとちょっと! 隣の男が見てるから、あたしは動けないんだ。急げ! ガンバレ!】
「……そうすると、x²+y²-4x-4y+6=0 になります。以上です」
佐藤夏波の解答に、ウジ村教諭は意外そうに頷いた。
「ほう、……完璧だ。この形がいわゆる円の方程式の一般形というヤツなんだが……佐藤、珍しくしっかり予習してきたみたいだな」
「はい。たまには」
【あとちょっと!】
柴崎泰広の指先があと三ミリであたしの足に到達するという、まさにその時。
「柴崎、おまえ何やってんの?」
斜め後ろの男子が、不信感満載の声を発した。
その声にはっと振り返った佐藤夏波が、中途半端に手を伸ばした姿勢で固まっている柴崎泰広に、絶対零度を感じさせる目線を突き刺す。
「……何やってんの柴崎」
柴崎泰広は不自然な姿勢のまま、引きつった笑みを浮かべてみせる。
「え? ……いや、肩が凝ったんで、運動を」
「数学の授業中に普通やらなくない?」
自分の席に戻ってきた佐藤夏波は、机の上のあたし付ケータイを即座にポケットに投げ込むと、椅子に腰を落ち着けながら低い声でささやいた。
「言っとくけど、もしヘンな行動に出たら、全ての契約を打ち切るからね。すぐに職員室駆け込んで、あの時あんたがあたしにしたことを洗いざらいぶちまけるから」
柴崎泰広は青くなって首を縮めた。
「わ……分かりました」
畜生、惜しかった!
もうちょっとだったってのに……このタコ野郎余計なことを言いやがって!
とはいえ、斜め後ろの密告男子を睨み付けても事態は何も変わらない。一刻も早く交代しなければと気ばかり焦るものの、ああいう偶然のチャンスに頼る以外、今のところあたしには為す術がないのも事実だった。
☆☆☆
授業が終わるやいなや、狛犬二人が目をキラキラさせながら佐藤夏波の席に駆け寄ってきた。
「夏波、凄いじゃん! いつの間に数学得意になってたの?」
「え? 得意になんかなってないよ。柴崎に課題やってもらってたからできただけ」
「えー、あの課題、マジで柴崎くんがやったの?」
狛犬二人組は顔を見合わせたが、中休みの会話を思い出したのか、おずおずとこんなことを聞いてきた。
「……ねえ、じゃさ、ひょっとして、今日の課題なんかも分かっちゃったりする?」
「分かるんじゃない、ねえ、柴崎」
佐藤夏波がくるりと振り返ると、柴崎泰広は教科書をしまう手を止めてうなずいた。
「え? ……あ、多分」
「ね、夏波さ……今日の課題、もしよかったら、あたしたちにも見せてもらえる?」
「んー、今日の課題は、あたしは自分でやろうと思ってたんだけど、……別に大丈夫だよね、柴崎。幸音たちに、今日の課題見せてあげられるよね」
「え? あ、でも……」
反駁しようと開きかけた口を、佐藤夏波の鋭い目線に射貫かれて噤む。
「い……いいですよ」
「わぁ、やった! あたし、この課題の範囲、超苦手なところだから困ってたんだ。ありがと、柴崎くん。恩に着るね」
大喜びで走り去る狛犬たちの背中を見送りながら、柴崎泰広はどこか納得のいかない表情を浮かべていた。
カバンから弁当を取り出しながら、それに気づいた佐藤夏波がクスッと笑う。
「恩は売っとくに越したことないんだって。大丈夫、この学校の生徒は基本的に真面目だから、最終的には自分で理解しなきゃ力にならないことも分かってるし、どうしても困った時くらいしか言ってこないから。さっきのあたしみたいにね」
「……相当、困ってたんですね」
「まあね。ここんとこちょっと学習意欲が減退してて。学校もずいぶん休んじゃったから、課題がたまりまくっちゃってて」
「……体の具合でも悪かったんですか?」
「まあ、そんなとこ」
佐藤夏波は曖昧に返すと、弁当を手に立ち上がった。
「じゃ、行こっか」
「え? 行くって……」
「屋上。一緒にお弁当食べよ? 教室じゃいろいろ話しにくいこともあるし」
にっこり笑ってそう言うと、佐藤夏波は当たり前のようにその細い左腕を柴崎泰広の右腕に絡めてくる。異次元の感触に、柴崎泰広は息をのんで硬直した。
――は? ちょっと、何やってくれてんの?
密着した体を離そうと後じさりかけた柴崎泰広の腕を強引に抱え直すと、佐藤夏波は非難を込めた視線の楔でその行動を抑え込む。
「うっわー、夏波、どしたの? 柴崎くんとめっちゃ仲いいじゃん」
「うん、数学ですごく困ってたのを助けてもらったから。ちょうど西崎もいないことだし、今のうちにお礼でもしておこうかなって☆」
友人たちの冷やかしもサラリとかわし、満面の笑顔で絡めた腕に力を込めながら、ポケットからはみ出しているあたしの頭に、勝ち誇ったような目線をちらりと投げる。
――……くっそ、この女!
怒髪天ついた。髪の毛ないけど……とか言ってる場合じゃない。交代しないとマジでブチ切れて頭おかしくなるレベル。
実を言うと、今、柴崎泰広とあたしの距離はめっちゃ近い。佐藤夏波は柴崎泰広の右腕にしがみついていて、あたしは佐藤夏波の制服の右ポケットに入ってる。つまり、柴崎泰広がちょっと機転を利かせて佐藤夏波の右側に並び直してさえくれれば、交代のチャンスが生まれるのだ。
でも、今の柴崎泰広には、そんな機転を利かせる脳のリソースは残っていない。金魚のように口をパクパクさせながら、ただひたすら焦点の合わない目線を落ち着きなくさまよわせているだけだ。自分が今どこを歩いているかさえ把握できていないかもしれない。ああもう、これだから男って……。
でも、これはまさにあの時、あたしがコイツに期待した反応。
編みぐるみのあたしには、絶対にマネることのできない所業。
血の通った肉の塊としてコイツの目の前に存在する佐藤夏波にだけ許された、絶対的アドバンテージ。
柴崎泰広の腕に絡むきゃしゃな腕と、押し付けられる柔らかな乳房。
髪から香る優しい香りと、耳元に吹きかけられる甘い息。
あたしが何一つ持ち得ないモノを総動員して、生身の女である自分をこれでもかと主張する佐藤夏波。
勝負になるわけがない。
抱き締めたって何の感興も呼び起こさない、ただの編みぐるみのあたしなんかに。
その上あたしは、口も悪いし優しくもないし容赦もしない。あいつを困らせたり泣かせたりだって散々してきてるわけで。
そんなこと、最初から分かりきってる。
それなのに、胸が重い。
重くて重くてしょうがない。
重くて黒い感情の塊が、繰り返し、同じ言葉をささやきかけてくる。
コイツの命を食べていることに気づいたあの日から、ずっと耳奥で通奏低音のように響き続けている、あの言葉を。
――オマエハモウ、必要ナイ。