52.これはヤバい
「えええええ、マジで?」
狛犬どもの裏返った二重唱に、佐藤夏波は頷きながら余裕のほほ笑みを返す。
「うんマジ」
中休み。佐藤夏波は校舎裏にあるビオトープのほとりで、狛犬たちとともにゆったりと休憩タイムを満喫中だ。
この場に柴崎泰広の姿はない。ヤツは教室で、先ほど佐藤夏波から押しつけられた山のような課題とレポートを必死で片付けている最中なのだ。
「まあ確かに、眼鏡替えたらかなり変わったとは思うけど……」
「でしょ。あれ系、あたし結構好きなんだよね☆」
佐藤夏波が毛先をチマチマいじくりながら言葉を返すと、狛犬たちはあきれたように顔を見合わせた。
「それに、不登校だった割には頭も悪くないみたいだし。手なずけておけばいろいろ利用できると思わない?」
利用、という言葉を聞いて、狛犬たちはようやく合点がいったような表情を浮かべた。
「でもさあ夏波、西崎くんもあいつのこと狙ってるんでしょ。かち合わない?」
「別にいいじゃん。障害があった方が西崎だって燃えるだろうし、あの根暗クンがどっちになびくか考えると、おもしろくない?」
そう言ってほほ笑む佐藤夏波の艶やかな頬には、初夏の木漏れ日がキラキラ輝いている。全く、やってることのえげつなさとは全く釣り合わない見てくれだ。ギャップありすぎだっての。
「でもさ、そんなことして、須藤クンが黙ってるかな……」
「やめてくれるその名前」
「須藤」という名を耳にした途端、佐藤夏波は目を三角にし、頬を引きつらせて不快感をあらわにした。
「マジでウザいんだけど」
「あ、ゴメンゴメン……いやがってたよね前から」
狛犬たちは慌てて謝ったものの、いまひとつ納得がいかない様子で互いに目くばせをした。
「……でもさ、なんで夏波って須藤クン駄目なの? 眉目秀麗成績優秀スポーツ万能、その上あの須藤コンツェルンの跡継ぎっていうマンガ並のあり得ないキャラ設定なのに。あたしだったら、取りあえずキープだけでもしとくけどなあ」
「その無敵キャラがウザ過ぎんの。あたしは普通をこよなく愛するごくごく普通の一般市民だもん」
佐藤夏波が爪先でちぎった枝毛を吹き飛ばしながらそう言うと、狛犬たちは困ったような笑顔を浮かべた。
「……ま、確かに須藤クンとつき合ったら疲れるのは確かかもね。いい意味でも悪い意味でも、注目浴びるのは必至だろうし」
「でしょ。めんどくさすぎだって。とりあえず、どんな相手にせよ彼氏役がいれば、さすがの須藤も諦めて今度こそ手を引いてくれると思う」
「ただ、その相手に、あの不登校くんを持ってきたってのは、ちょっと驚きだったけどね……」
狛犬が苦笑まじりにそう言った時、調子はずれの予鈴が頼りなく鳴り響いた。三人は立ち上がると、スカートについた枯草をパタパタと払い落とす。
その振動に合わせて前後に揺れながら、今の会話をとおして見えてきた事実を整理する。
『どんな相手にせよ彼氏役がいれば、さすがの須藤も諦めて今度こそ手を引いてくれると思う』
要するに佐藤夏波は、柴崎泰広を自分の彼氏役に仕立て上げて、しつこく言い寄ってくる須藤とかいう男を撃退するつもりなのだ。トラブルになった場合、柴崎泰広がそのマイナス影響を自分の代わりにかぶってくれることを期待して。
とはいえ、そんな汚れ役、佐藤夏波に心酔している相手でもなければさすがに押し付けるのは難しい。佐藤夏波が柴崎泰広を言いなりにできるのは今日一日。普通に考えて準備期間が短すぎる。そんな短時間で、どうやって佐藤夏波は柴崎泰広を自分のものにするつもりなんだろう?
そこまで考えた時、ふいに今朝ほどささやかれたあの言葉が頭を過ぎった。
『今日一日、ここで大人しく見ててね』
――こいつ、まさか。
背筋を駆け上がる悪寒に耐えつつ、上履きに履き替えている佐藤夏波の横顔に目線を走らせる。
なだらかな鼻梁の向こうで上下する、長い睫毛と桜色の唇。
その端正としか言いようのない横顔を見るにつけ、胸の奥にくすぶっていた不安感が、たちまちのうちに炎を上げて燃え盛ってくるのを止められなかった。
☆☆☆
佐藤夏波は教室に戻ると、真っすぐに窓際に座る眼鏡男……柴崎泰広の席に向かった。向かい側の空席に腰を下ろすと、当然のような顔で顎をしゃくる。
あたしの位置からは柴崎泰広の様子を見ることができないけれど、椅子が引かれる音と、数冊の本が机に置かれたらしい乾いた音が聞こえた。
佐藤夏波はその中の一冊を手に取ると、無造作にパラパラとページをめくり……その目を見張った。
「……へえ、終わってるじゃない」
「やっておけと言われたので」
「頼んだ分、全部?」
「取りあえずひととおりは」
「へええ」
佐藤夏波はノートを置くと頬づえを突き、しげしげと柴崎泰広を眺めやる。
「たいして期待してなかったんだけど、びっくり。マジで頭よかったんだ」
「……いや、間違ってるかもしれないですけど」
「不登校のくせに頭脳明晰とか、ギャップ萌え要素ありまくりで草」
柴崎泰広の椅子が軋む。接近してきた佐藤夏波の威圧感に耐えきれず、後退したのだろう。
佐藤夏波が右手を差し伸べたことが、体の揺れと傾きから伝わった。
同時に、柴崎泰広が息を呑む気配と、再び椅子があとじさる音。
「よく見ると、見てくれもそんなに悪くないし」
「そ……そう、ですか」
緊張しきってかすれている、柴崎泰広の声。
佐藤夏波が伸ばしている右手は、どこに触れているんだろう。前髪か、頬か、はたまた顎でも持ち上げているのか……とりあえず、どれを想像しても相当にむかつく絵面だってことだけは確かだ。
「とりあえず、今回は助かっちゃった。ありがと☆」
佐藤夏波は、正視が難しいくらい燦然と光輝くまぶしい笑顔でにっこり笑うと、ふいに腰を浮かせた。かと思うと、何のためらいもなく、本当に何気ない動作で、柴崎泰広の頬にそっと唇を添わせる。
――……は!? マジで?
思わずわが目を疑った。
佐藤夏波のこの暴挙に気づいた人間がいないか、慌てて周囲に意識を巡らせるも、あまりに一瞬の出来事だったせいか、斜め後ろの席で友だちと話している女子生徒も、その筋向かいで談笑する男子生徒三人組も、気づいている様子は全くない。
佐藤夏波は、あまりのことに茫然自失しているらしき柴崎泰広を満足そうに眺めやると、バラやらすずらんやらとにかくきれいそうなものを満タンに詰め込んだ背景を背負い、天使のような笑顔でほほ笑んだ。
「よかったらこれからも、こんな感じで助けてもらえると嬉しいな。約束とかそういうのとは関係なく、友だちとして☆」
美麗な笑顔にぼんやり見とれていたらしき柴崎泰広は、その投げかけに慌てた様子で答えを返した。
「え、あ、……は、はい。それは、もちろん……」
どんな表情をしているのかがどうしても知りたくて、自分の席に戻る佐藤夏波に気づかれないように、制服のポケットからそっと顔だけ出して様子を見る。
魂ごと奪い去られたような柴崎泰広の呆けた顔がチラリと垣間見えた。
――これはヤバい。ヤバ過ぎる。
完全に、佐藤夏波の術中にからめとられている。
他人との接触を可能な限り避け続けてきた引きこもりの登校拒否男が、こんな濃厚な身体的接触をいきなりかまされればひとたまりもなく落ちるのは道理。その上、相手はこの見てくれ王者、佐藤夏波なのだ。柴崎泰広ごとき、確かに一日もあれば十分だろう。
――交代しないと。
一刻も早く柴崎泰広と交代して佐藤夏波の毒牙からあいつを守らないと、確実に柴崎泰広は佐藤夏波の奴隷になる。その結果、何をさせられるかと言えば佐藤夏波にたかってくる虫けらどもを追い払う汚れ役で、そうなればいやも応もなく、あたしまでその汚れ仕事を手伝わされることになってしまうのだ。冗談じゃない。
とはいえ今の状態では、交代はおろか意志を伝えることすらままならない。返す返す、柴崎泰広と物理的に引き離されたのは痛かった。この危機的予測をあいつに伝えることすらできないなんて、詰みもいいところだ。
いったいどうしたらいいんだろうと途方に暮れながら考え倦ねていると、頭頂部のストラップがブルブル震えるのを感じた。メールかラインが着信したらしい。佐藤夏波が、おもむろにポケットからあたしつき携帯を取り出す。
携帯とともに引っ張り出されたあたしは、佐藤夏波の目の前にぶら下がってゆっくりと回転した。
佐藤夏波はそんなあたしを気にも留めず、指をすばやく動かしながら携帯の画面に集中していたが、やがてその頬をにんまりと引き上げた。
「……ナイスタイミング」
口の中で小さく呟くと、返信を書いているのか、凄まじい勢いで指を動かし始める。
編みぐるみになりきってじっとしながらその動きを眺めていると、送信ボタンを押した佐藤夏波が、ふいにぶら下がるあたしに目線を移した。
その透き通るようなまなざしに射すくめられた途端、なんだか知らないけどゾッとして、背中からじんわり冷や汗がにじむような感触まで覚えてしまった。汗腺ないけど。
佐藤夏波はそんなあたしを余裕の表情で見下ろすと、にやりと口の端を歪め、よからぬことをたくんでいるのがありありとわかる小悪魔感満載の笑みを、そのつややかな頬に浮かべた。