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50.コイツには、まだあたしが必要なんだ

 柴崎泰広の喉仏が、ゴクリと音を立てて上下した。

 震える右手を玄関扉のドアノブにかけ、力を込めて握りしめる。

 かんぬきが外れるカチャリという音が響いた、瞬間。柴崎泰広は息をのみ、熱いものにでも触れたかのようにドアノブから手を離した。

 ……全く、これで三度目だ。


【ねえねえ柴崎泰広、無理しなくていいよ。遅刻してもしょうがないからさ、いつもの瓶底眼鏡にかえて行こう】


 柴崎泰広は、憔悴しきった顔でケツポケにぶら下がるあたしを見下ろした。


「で、でも、昨日は西崎さんとあんなに長い間いっしょにいても大丈夫だったのに、できないはずが……」


【そう簡単にいかないのがあんたなんだって。要するに、未経験のことには必要以上の抵抗を体が勝手に示しちゃうの。家からその眼鏡の状態で出た経験がないから拒否反応を示してんでしょ。バカくさいけど】


 思わず本音を漏らした途端、柴崎泰広の首が支えを失ったかのようにがっくりとうなだれた。


「……やっぱり僕ってダメ人間なんだ」


【いまさら気づいたの……って、いや、別にいいんだってそれがあんたなんだから。すぐに変われる訳がないんだし、そういう自分とうまくつき合っていくしかないんだって。まあでも、自発的に普通の眼鏡に換えてみようって思えたことは評価できると思うよ。取りあえず、今は瓶底眼鏡をかけていくけど、普通の眼鏡も持って行けばいいじゃん。そんで、学校で装着が可能そうなら装着してみれば】


 柴崎泰広はうるうるした目であたしを見てから、小さく頷いて普通の眼鏡を外した。

 ……全く、相変わらず世話が焼ける。


 西ちゃんに刺激を受けたのかなんなのか、柴崎泰広は朝から妙にやる気満々だった。唐揚げにブロッコリーのチーズ焼き、キャベツとウインナーの炒め物と三品も弁当のおかずを作り、後片付けも洗濯も掃除もバッチリ終わらせて身支度を調えると、自分から「瓶底眼鏡はもうかけない」と高らかに宣言し、普通の眼鏡での登校を試みたのだ。

 でも、それはあえなく挫折した。

 要するに、まだまだ独り立ちには程遠いということなんだろう。

 気持ちを前向きに切り替えたのは評価できるとしても、コイツにはまだもうしばらく、誰かの助けが必要だ。


 つまり、コイツには、まだあたしが必要なんだ。


 あたしのフォローがあればこそ、コイツは安定した生活を送っていける。もしここでいきなりあたしという支えを外したら、こいつは一気に不安定化して、また自殺に踏み切ったあの時と同じ状況に陥る可能性だってゼロじゃない。

 だからあたしはもうしばらく、コイツと一緒にいてもいいんだ。

 たとえ毎日少しずつ、コイツの命を食べているんだとしても。


「……南さん、彩南さん」


【え?】


 慌てて意識を周囲にひらくと、駅へ続く緩い坂を下りているところだった。

 柴崎泰広は瓶底眼鏡の縁を朝日にきらめかせながら、ケツポケのあたしを怪訝そうに覗き込んだ。


「なにボーッとしてるんですか?」


【え? ……いや、なんでもない。てか何よ】


「佐藤さん対応は、僕に全面的に任せてほしいって言ったんです」


 唐突に出された想定外の名前に、思わず返す言葉を見失ってしまった。


「佐藤さんとは、金曜日に新宿でケンカ別れしたきりですよね。このまま放置したらヤバいと思うんで、今日、佐藤さんには僕の方から謝りを入れます。その際、何を言われるかはわからないし、彩南さん的には納得いかないこともあると思うんですけど、これ以上事態をややこしくしないために、絶対に勝手に交代しないでほしいんです」


【……分かってるよ。あの時は、あたしも言いたいことを言いすぎたっていちおう反省はしてる。佐藤夏波対応はあんたに任せるってんで合意してんだし、約束は守るよ】


「お願いしますね。佐藤さんをこれ以上怒らせたら、ホントまずいんで」


 柴崎泰広はそう言うと、ふっと目線を路面に落とした。


「……そういうこともあったんで、眼鏡も普通のやつにした方が心象がいいかな、なんて思ったんですけど」


【いいよ別にそんなの瓶底眼鏡のままでっ】


 思わずキツイ調子で送信してしまってから、驚いたように目を見はる柴崎泰広から慌てて意識をそらした。

 いかん。ヤバイヤバイ。



☆☆☆



 柴崎泰広は教室の前まで来たところで足を止め、カバンから眼鏡ケースを取りだすと、かけていた瓶底眼鏡を外した。


【……やっぱ替えるの?】


「ええ。大丈夫そうな気がするんで」


【あ、でもさ、学校で普通の眼鏡するのも初体験じゃん。大丈夫なの?】


「建物の中に入りさえすれば、店と同じ感覚なんで大丈夫だと思うんですけど」


 その言葉どおり、柴崎泰広はすんなり眼鏡をかけ替えると、特に問題なく前扉を開けて教室内に足を踏み入れることができた。

 教室で数人の友人と談笑していた女生徒の一人が、その気配に気づいて何気なく目線を送り……目を丸くして息をのむと、すぐさまヒソヒソと小声で友だちに伝言を送る。振り返った友だちらもまた柴崎泰広の姿を息をのんで目を丸くすると、新たな伝言を別の女生徒に伝達する。

 ウワサは伝言ゲームのようにあっという間に教室中に広がり、自分に注がれる視線の圧力に気づいた柴崎泰広は、カバンの中身を机の中にしまいながら、怯えたようにあたりを見回した。

 すると、これまでは柴崎泰広の存在すら認知していないような態度を貫いていたハイスペックグループに属する女生徒が、遠慮がちに声をかけてきた。

 

「あのさ、えっと、確か……柴崎クン、だよね? 眼鏡、替えたの? なんか、滅茶苦茶雰囲気変わってない?」


「え? ……あ、はあ。やっとお金が入って、買い替えられたんで……」


 柴崎泰広はおどおどしながらも、考えておいた言い訳を早口で述べる。

 柴崎泰広からレスが返ってきたことで安心したのか、その途端、遠巻きに様子を眺めていた女生徒たちが、花に集まる蝶のようにワラワラと群がってきた。


「そっかー、あの眼鏡ヤバかったもんね。買い替えられてよかったね……ってか、マジで雰囲気違いすぎでヤバくない? あたし、眼鏡萌えだからかなりツボなんだけど」 


「あ、でも、あたし、駅の階段で西ちゃんと絡んでた時に見たことがあるんだけど、眼鏡ない方がもっとヤバいよ」


「ウソ、マジで? ねーねー、柴崎くん、ちょっと眼鏡取ってみてくれない?」


 女生徒たちの嬌声から逃れるように、柴崎泰広は必死に引きつった笑みを浮かべながらあとじさった。


「え、あ、いや、それは、ちょっと……マジで、目悪いんで。す、すみません」


 言い捨ててくるりと踵を返し、逃げるように廊下に出て一目散に走り出す。人気のない北階段まで来ると、ゼイゼイ肩を揺らしながらケツポケからあたしを取り出した。


「な……何なんですかアレは」


【どしたの? いきなり逃げ出しちゃって】


「え? いや……あんなに人から一気に声かけられた経験がないもんで、ちょっとびっくりして」


【をいをい。あの程度でビビッてるようじゃ先が思いやられるぞ? あんなの、十分想定内の反応なのに】


 柴崎泰広は心底驚いたように目をまんまるくしてあたしを見つめる。


「……そうなんですか?」


【当然じゃん、ギャグマンガの主人公みたいなネクラ瓶底眼鏡男がいきなりまともな外見になれば、興味をひかれる女の一人や二人必ず出るって。あたしだったら適当にあしらえるけど、どうする? 交代する?】


 いたずらっぽく投げかけると、柴崎泰広は目の下に直線が何本も引かれていそうな顔であたしを見た。


「……じゃあ、佐藤さんに謝りを入れるのだけはとっとと僕がやるとして、そのあと、あんまり状況がひどいようだったら代わってもらってもいいですか? あ、ただ、そうなっても佐藤さんに絡むのだけは、やめてほしいんですけど……」


【大丈夫だって言ってんじゃん。そんなに信用できないんなら、代わらなくてもいいんだよ?】


「え、あ、いやそのすみませんお願いします代わってください」


【よろしい】


 久々に学校で柴崎泰広の体に入る約束を取り付けた。何となくウキウキしていると、教室に戻ってきた柴崎泰広は、あたし付きケータイをケツポケから取り出して机の上に置いた。


【……あれ、どこ行くの?】


「ですから、佐藤さんのところに」


【てか、あたしは?】


「彩南さんは持って行きません。そうすれば、物理的に交代は不可能ですよね」


 ……なんだよ結局信用してないんじゃん。まあ、信用されなくなるくらいいろいろやらかしたのは確かなんですけど。


【いやちょっと待って寝っ転がったまんまじゃ何やってるか様子が見えない。置いていくのはわかったから、せめて様子が見えるように座らせてよ】


「……分かりました」


 柴崎泰広は机の中から筆箱を取り出すと、それに寄りかからせるようにして窓際に向けてあたしを座らせた。

 窓際には例のごとく、狛犬二人組と面白いのか面白くないのか分からないような顔でくっちゃべっている佐藤夏波の姿がみえる。

 その視線が、チラリと柴崎泰広に投げられた。

 ……興味あるんだ。


「これでいいですか」


【うん、まあ、見える、けど……ねえ、やっぱあたしも連れてって】


「ダメです彩南さんは前科があるから。そこで静かに見ていてください」


 すげなく断られ、あたしも二の句が継げなくなった。

 柴崎泰広は緊張したおももちで窓際に立つ佐藤夏波を見やる。

 一般的眼鏡は目玉の縮小率が小さくなるのか、柴崎泰広本来の涼しい目元がとてもよく映える。眼鏡をかけた状態でも、見てくれレベルはこのクラスでもかなり上位に位置すると思う。

 その視線に応えるように、佐藤夏波も柴崎泰広を見た。

 あの女も素材的には、このクラスの女子のトップレベルに位置すると思う。悔しいけど。

 歩み寄った柴崎泰広が、佐藤夏波の右隣に立つ。

 朝日を背にして向かい合う二人が、結構お似合いなのがムカつく。

 緊張した表情で固まっている柴崎泰広を、バカにしたような顔で斜から見下ろしてる佐藤夏波の表情もムカつく。

 「生身の女」として柴崎泰広の眼前に存在していること自体が、多分ムカつく。

 ムカつくと同時に、よく分からない感情が胸に降り積もっていくのを感じる。


 柴崎泰広が自分たちの方に歩み寄ってきたので、佐藤夏波の背後に控える狛犬たちは鼻つき合わせて勝手に盛り上がっていたものの、立ち尽くす柴崎泰広がいつまでも言葉を発しないので、怪訝そうに顔を見合わせた。


「何か用?」


 しびれを切らした佐藤夏波が、吐き捨てるように問いを発する。

 その一言でようやくスイッチが入ったのか、柴崎泰広は表情を改めて居住まいを正した。


「あ、あの……金曜日は、いろいろと……すみませんでした」


 それだけ言うと、佐藤夏波の視線から逃れるように頭を下げる。

 佐藤夏波は柴崎泰広の頭頂部を冷たい目で眺めやった。


「あんた、本体の方?」


 突っ慳貪な問いかけの意味がよくわからない狛犬たちは、眉根を寄せて顔を見合わせる。

 柴崎泰広は頭を上げると、小さく頷いた。


「……そうです」


「瓶底眼鏡、やめたんだ」


「はい」


「ふーん……」


 佐藤夏波は控えめなネイルで上品に彩られた指先を、ツイと柴崎泰広の鼻先に伸ばした。

 柴崎泰広は息をのみ、顔をこわばらせて一歩あとじさる。

 そんな反応に構うことなく、佐藤夏波は流れるような動作でブリッジをつまみ上げてメガネを取り去った。眼鏡のない柴崎泰広の顔を見て、狛犬たちは二人同時に息をのむ。


「あたし的にはコンタクトの方が好きなんだけど……でもまあいいや」


 何がいいんだ。

 佐藤夏波は柴崎泰広に眼鏡を戻すと、何気ない口調でこう言う。


「許してやってもいいよ」


「ホントですか」


 パッと表情を輝かせた柴崎泰広に、意味ありげな視線を投げる。


「あたしの頼みを聞いてくれるなら」


「え……」


「聞いてくれる?」


【ちょっと柴崎泰広、簡単にOKしないでよ。そういうのは内容を聞いてから……】


 距離があるので、あたしの必死の送信は届かないらしい。

 柴崎泰広はあっさりと頷いてしまった。


「……わかりました。何をすればいいんですか」


 その言葉に、佐藤夏波は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「今日一日、あんたはアヤカと絶対に交代しないで、あたしの命令を全部きくこと。コレを完璧にやってくれたら、金曜のことはきれいさっぱり水に流してあげる」


 あああああほらみろ、相当にいくつも言うこと聞かなきゃならない事態に陥ったぞ。「今日一日」という限定条件がついているだけまだマシだけれど。


「わかりました」


 焦りまくるあたしをよそに、柴崎泰広はきっぱりと頷いた。

 佐藤夏波は腕を組み、いかにも満足そうに女王然とほほ笑む。

 狛犬二人組は「えー」とか「マジー」とか言いながらその背後で勝手に盛り上がっている。

 そんな様子を眺めながら、あたしはさっきから感じていた訳の分からない感情が、次第に重さを増して胸に降り積もるのを感じていた。

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