5.驚いた
目を覚ますと、部屋は薄明るい朝の光に包まれていた。
どうやら、あのまま寝てしまったらしい。
魂自体が睡眠を必要とすることに驚きつつ、重い頭を揺らして起き上がると、部屋の一番奥、ゴミに埋もれたせんべい布団に、あの男が横たわっているのが見えた。
ゴミをかき分けつつ枕元まで這い寄り、置かれていたデジタル時計をのぞき込むと、今日の日付は四月三十日月曜日、時刻は午前七時二十三分と、英語混じりの無機質な表示が告げている。
――月曜日……って、平日じゃん!
【ねえ、ちょっと! 起きて!】
「……ん」
【いつまで寝てんの!? 寝過ぎだってば!】
できる限り強い意識を送ってみるも、布団の中の柴崎泰広は口の中で何やらフゴフゴ言っているだけで、いまだほかほか夢の中だ。
【ちょっと、いい加減に起きてったら! 平日だから学校あるって!】
布団を引っぺがそうにも、楕円形の手では何も持てない。仕方なく布団の山の頂上まではい登り、頭らしきふくらみの上に立って二,三度飛び跳ねてみるも、いかんせん編みぐるみの体重では大したダメージを与えられない。あたしの方が体勢を崩してゴロゴロ坂を転がり落ちただけだった。
【……ったく、こうなったら】
回転してフラフラする頭を振ると、枕と布団の間にできた暗い洞穴に顔を突っ込み、男にしては長い前髪をかき分けて手探りだけで鼻を探す。
すぐに空気が一定間隔で行ったり来たりしている場所を発見できたので、えいとばかりに楕円形の両手をその穴に突っ込んだ。
空気の流れが止まり、静まりかえる洞穴内。隙間ができないようきつく両手を押しつけながら、息を殺して次の瞬間を待つ。息してないけど。
「……んがああああああっ!」
断末魔の悲鳴がとどろいた。
次の瞬間、猛スピードで横様に繰り出された腕の一撃で、あたしは放物線を描いて中空を飛び、そのままゴミの山に突っ込んだ。
「し……死ぬかと思った」
なんとかゴミをかき分けてはい上がると、ゼイゼイ肩で息をしながら半身を起こして頭を振っている柴崎泰広の背中が目に入った。
頭の動きに合わせて、昨日洗ったおかげでサラサラになった髪が大きく左右に揺れている。
【仕方ないじゃん。何回声かけても起きないんだから】
「起きないくらいで殺されたらたまんないですよ!」
鼻息荒く言い放ち、勢いよく振り返ってあたしを睨む。
【何を大げさな、たかが鼻ふさいだくらいで……】
言い返しつつその顔を見上げて、固まった。
通った鼻筋と涼しい目元、形のよい眉がバランスよく配された顔立ち。無精ヒゲで黒ずんだ口元と目元を覆う前髪が少々暑苦しいが、初めて見る眼鏡なしの顔は古着とアコースティックギターが似合いそうなアーティスト系の危うい雰囲気を醸し出していて、驚いた。なかなかどうして悪くないのだ。
「全然たかがじゃないですって……本気で死ぬかと思った」
そんなあたしの内心などつゆ知らず、柴崎泰広はブツブツ言いながらさっさと枕元の瓶底眼鏡を手に取り装着、あっという間に昨日の冴えないオタクキャラに変身してしまった。ああ。
【……ねえ、あんたさ、コンタクトとかにしないの?】
「は? ないですよ、そんなの。金ないし、僕コンタクト嫌いなんです。何でですか?」
【え? あ、いや、……何でもない。ていうか、そうだ、あんた今日平日だよね。学校行かなきゃ、学校!】
「学校?」
【学校】
なぜだか柴崎泰広は沈黙した。
あたしと柴崎泰広はそのまま、数刻無言で向かい合っていた。
「……行かなくていいですよ」
【へ?】
「行かなくていい」
【何で?】
南沢だよね。行きたいし。
「行ってないから」
【は?】
「二年の秋から」
【へ?】
再び沈黙。
【……もしかして、不登校ってやつ?】
目線を落としたまま、柴崎泰広はこっくりと頷く。
えええええええええ。
南沢。
唯一のあたしの光明が。
【……あ、でもさ、別に行ってもよくない?】
「え」
【ほら、あたしと入れ替わればさ。あたしだったら全然平気だから、学校での諸活動はあたしが引き受けるってことで】
「それは、……別に構わないですけど。僕が一切ノータッチでよければ」
【……いや、全くノータッチってのはまずいかもしれないけど。だって、以前のあんたとの整合性もあるし、勉強もさ、三年の勉強はまるっきり分かんないと思うし。トイレに行くときだってあるよね。だからさ、あんたはこのクマるんに入って……】
「僕は行きませんよ」
言葉をぶった切られた。
見上げた柴崎泰広は、瓶底眼鏡の縁を冷たく光らせつつ、あの三途の川で見せたのと同様の拒否オーラ全開であたしを睨んでいる。
うーん、重症だな、こりゃ。前途多難。
【……分かったよ。とりあえず今日はやめとこう。そのことに関してはまたおいおい話し合うとして、さしあたり今日は】
「今日は?」
【生活環境改善だね】
「はあ」
【やる気ない返答だなあ、もっとこう、覇気を感じさせる何かがさあ】
「自殺志願者に覇気と言われても」
【仕方ないじゃん、あんた死ねなかったんだから。生きるからにはやる気出して前向きにいかないと】
「そんなもんですかね」
【そんなもんよ。まずはこのゴミだらけの部屋を片付けてまともな生活空間を構築しよう。そのあと、この家の全資産を確認してこれからの生活考えるから。いいね】
「はあ」
【決まりね。じゃあさっそく始めよ。まずは窓を全開にして。ゴミを片っ端から捨てるから】
嫌そうな柴崎泰広の背中をどつきつつ、その時あたしは堅く心に誓っていた。
この不登校で引きこもりの見た目キモオタ野郎を、どうにかしてまともな人間に改造し、絶対に南沢高に行ってやるんだと。