46.あんな思いはもう二度と、誰にもしてほしくないから
「いやー、驚いた!」
爽やかな初夏の日差しを背に受けて、カプリとお握りの頂上にかぶりつく。
【何がですか?】
「決まってんじゃん、客足の伸びだって! まさかあんなに増えるなんて思わなかった」
昨日は午後一時に店を開けるなり、ランチタイムを楽しむ若いママ友三人連れがやってきたのを皮切りに、それからは途切れることなく、ターゲットと目していた年代の客が次々に来店した。思い切り開けたつもりの通路も狭いくらいの混雑に、メイントルソーを店のアプローチに出さざるを得ないほどだった。入口脇、アプローチに置かれたトルソーの着付けに興味を惹かれたのか、その後客足がさらに伸び、結局閉店までに店を訪れた客の数は、先週末来店した客数の三倍という驚くべき数字を達成した。
今日も天気がいいので開店からトルソーをアプローチに出し、重い入口の扉は開け放っておいたところ、最初の一時間だけで既に片手では余るほどの入店があり、お母様方は子どもスペースに子どもを放ち、のびのびとお買い物タイムを満喫していた。
【でもやっぱりあれじゃ子どもは落ち着きませんでしたね】
「そうだね。あんたの読み通りだった。てかさ、あたしもまさかあれほど賑わうとは思ってなくてさ……たいへんだったね」
子どもスペースは予想以上の人気ぶりで、一時は五人もの子どもがあの狭いスペースにひしめき合って本を読んだり、お人形遊びに興じたりしていた訳だけれど、なにせ椅子はたったの二脚、それを取り合ってケンカが起きたり、積み木が棚からなだれ落ちたり、スペースに来てもウロウロ歩き回る子がいたりと落ち着かなかった。そのため、何かことが起きるたびに側に行って保育士さん役になってやらねばならず、昨日はヘトヘトに疲れてしまった。
「ある程度落ち着いて遊べる環境って大切だよね。とにかく急いだほうがいいと思うから、このあと、お昼食べたら商店街のホームセンターにタイルカーペットが置いてないかのぞいてみよう。ネットで注文して待ってる時間ももったいないし、さっきあんたと交代したのが……十一時だっけ? 休憩終わる二時には交代できると思うから、もし運よく手に入れば、閉店後すぐに敷き込めるように、カーペットの下準備もしてもらえるし。そういうの、あんたならできるよね? あたしはどうも、ああいう日曜大工系は苦手でさ」
【いいですよ僕そういうの好きだから。図工みたいなもんですよね】
本当に何気ない口ぶりで送信してくるので、思わず隣に座るクマるんの顔を覗き込んでしまった。
「でも、ホント意外だなー。あんたがそういう系得意だったなんて」
【だから言ったじゃないですか僕美術部だったって。しかも平面に絵描くより、工作で何か作るのが異様に好きな人だったんで】
なるほど、そういう下地があったから弁当作りではタコウインナーにあれほどこだわってたわけか。
「でもまあ得意なことがあるっていいよね。こういう時凄く役に立つし」
【彩南さんだってコーディネート得意じゃないですか。あんなにお客さん入ってくれたのだって、彩南さんの提案がよかったからですよ多分】
「……ま、好きなことだからね。好きだからこそがんばって得意になったっていうかさ」
勝手に緩んでくる頬をごまかすために、慌ててお握りを頬張る。胸の奥が何だかほこほこと温かい。こんなに楽しい気分になったのって、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。
「……さて、じゃあ早速ホームセンターに行ってみますか」
ちくわのチーズ詰めを二個いっぺんに口に放り込むと、空っぽの弁当箱を蓋の開いていない缶コーヒーとともにポーチに放り込んで立ち上がる。
ストラップをつままれたクマるんは怪訝そうにあたしを見上げた。
【あれ? いつものほっこりコーヒータイムは?】
「今日はいいや。あとで時間があったら飲むよ。何だか早くモノを確かめないと落ち着かなくてさ」
ストラップを携帯にくくりつけながら笑いかけると、無表情なはずのクマるんが、あたしを見上げて苦笑した気がした。
☆☆☆
寂れたホームセンターの片隅にお目当てのモノは無造作に積まれていた。色はベージュ系の一色しかなかったけど、運良く店の雰囲気にピッタリだったので即購入を決めた。値切るのも申し訳ないような気がして定価通りに十枚のタイルカーペットと専用の滑り止めを購入。それでも一万円に届かない出費で敷き込みができるのはありがたい。
ほくほく顔の店主に見送られ、重たいビニール袋を引きずりながら、それでも心だけはウキウキとホームセンターを出る。
何気なく通りの向こうに目を向けたあたしの視界を、その時、見覚えのある人物が横切った気がした。
「……あれ?」
思わず首をかしげ、一歩踏み出した足を止める。
【どうしたんですか彩南さん】
「え? ……今、西ちゃんを見たような気がして」
クマるんは不機嫌そうに黙り込んだ。
もう一度通りの向こうに目を凝らすと、数十メートル先、寺に入る路地を右に曲がる人影がちらりと見えた。その様子が、なんだか引きずられてでもいるように感じられて、違和感を覚える。
チラリと時計に目線を走らせる。一時三十五分。休憩終了まであと二十五分もある。ちょっと寄り道するくらいは構わないだろう。
何かもの言いたげなクマるんに構わず踵を返し、重いビニール袋を肩に担ぎ上げると、西ちゃんとおぼしき影が消えた路地を目指して走り出した。
☆☆☆
「まだ相変わらずバイとか言ってんのかよ」
一歩境内に足を踏み入れたところで、低い男の声が鼓膜に突き刺さった。
慌てて姿勢を低くし、簡素な三門の柱に身を隠す。
ここは路地の右手に位置する、この地区唯一の小さな寺。本堂の左手、大きな銀杏の木の根元からその声は響いてくるようだ。
足を忍ばせて境内の奥に進むと、まるで格闘家のような風貌の体格のいい角刈り男のだだっ広い背中が、本堂と銀杏の木の間から見えた。
その向かい側には、はたして、寺の表門を護る金剛力士像さながら阿吽の形相で仁王立ちする男に挟み込まれ、左右から両腕を拘束された西ちゃんの姿があった。
角刈り男も金剛力士も西ちゃんも、日曜日だというのに制服姿だった。ただ、角刈り男たちは南沢の生徒ではないらしく、グレーのズボンに黒いネクタイ姿だ。
あの制服がどこのモノだったか記憶層に高速で検索をかけつつ、簡素な鐘楼のたもとに身を寄せ、息を詰めて会話に意識を尖らせる。
「いい加減認めろよ、おまえはゲイなんだ。どっちつかずのこと言って逃げ道残しやがって、全く情けなくてヘドが出る」
「何とでも言えよ」
金剛力士達に動きを完全に封じられつつも、西ちゃんは不敵な笑みを片頬に浮かべながら角刈り男を睨み据えた。
「俺は俺の中の俺に正直に生きたいだけだ。ゲイだのバイだのレズビアンだの、勝手にくくっておまえは仲間だの何だの決めつけるおまえらの方こそウザくてヘドがでる。男でも女でもゲイでもなく、俺は俺だ。俺以外の何者でもねえんだよ」
「そういう気の強いところがまたたまんねえんだよな」
大男は笑いを押し殺したような声で呟くと、いきなり西ちゃんの前髪をわしづかみにした。
強引に上向かせた西ちゃんの顔に、覆い被せるようにして自分の顔を近づける。
「今は男とつき合ってるらしいじゃねえか」
「あいつとはそういう関係じゃない」
「じゃあどういう関係なんだよ」
「一方的に気になるっていうか……放っておけないって感じ?」
「それを恋って言うんじゃねえのかよ」
「よく分かんねえんだ、自分でも」
前髪を掴まれて上向かされたまま、西ちゃんはどこか遠い目をした。
「何かさ、あの不安定でビクビクした感じが、昔の自分を思い出すっつーか……」
言葉は途中で失われた。
男の口が、西ちゃんの口を塞いだのだ。
いや、あたしの位置から見えたのは西ちゃんに異様に接近した男の後頭部と、その向こうに見える西ちゃんの左目だけだったけど、そうとしか考えられない。
大きく見開かれた西ちゃんの左目が悲しげに閉じられ、辺りを静寂が包み込む。
こめかみのあたりが、ドクドクドクドクうるさすぎる。
何だか知らないけど、膝に預けた左手の指先がワナワナ震える。
背筋がゾクゾクして二の腕が粟立つ。
【どうしたんですか? 何があったんですか、彩南さん】
クマるんの切羽詰まったような送信が響いてきたけど、応えてやってる余裕なんかない。
今この光景を目にしているのは、あたしだけだ。クマるんもとい柴崎泰広には見えていない。だってヤツはケツポケに入ってるから。男と西ちゃんの会話は聞こえてると思うけど、何が行われているかまではわからないはずだ。
でもあたしは、それを伝えようとは思わなかった。
そんなことを考えるどころじゃなかった。
ただただ息苦しくて死にそうだった。
だって。
だってあいつは、嫌がってる。
「そんなことはもうどうでもいい……相手しろ、西崎」
男は舌なめずりのような音をたてて西ちゃんから顔を離すと、ネクタイを緩めたのだろう、首を軽く左右に振った。
「模試の会場でおまえの姿見たら昔のことを思い出して、どうにも抑えがきかなくなっちまった。俺もうがまんできねえんだよ。何とかしてくれよ西崎」
西ちゃんは底光りする目で角刈り男を睨み据えつつ、地を這うような声音で問う。
「……嫌だと言ったら?」
「それが通る立場だと思ってんのかよ?」
男は自分の優位を確信しているらしい。西ちゃんのワイシャツのボタンを外しながら、下卑た笑い声をたてた。
「おまえのオヤジさん、ゆくゆくは検察庁のトップに君臨するお方なんだろ? バイの息子がいるなんて知れたら、順調な出世街道にどんな影響があるかわかんねえよなあ」
左右の金剛力士像も声を立てて笑いながら、携帯を撮影モードに切り替えて構える。
「しかも関係していた男が服役中のヤクザの息子だなんて、次期検事総長にあるまじきスキャンダルだ。表沙汰にできるわけがねえよなあ」
体の震えが止まらない。
腹の底から沸き上がってくる感情が、あたしの視界を赤一色に染め上げる。
もうこれ以上、無理だ。
限界。臨界点突破。
【ダメですよ出てっちゃ!】
鐘楼の影から飛び出しかけたあたしの動きを、クマるんの鋭い送信が抑え込んだ。
中途半端な姿勢で動きを止めて、ケツポケのクマるんを睨み付ける。
「何で止めんのよ!」
【今飛び出してどうすんですか! 相手は複数いるんでしょ、やられに行くようなもんです!】
「じゃあ大声出して人を……」
【それができないから西崎さんは言いなりになってんです! さっきの話聞きましたよね? あいつらとの関係は、絶対に公にできないんですよ西崎さんにとって】
「じゃあ指くわえて見てろっての!?」
【少しだけ待ってください、何かいい方法を……】
「そんなことを言ってる間に、西ちゃん犯られちゃう!」
――犯られちゃう。
思考が凍結したあたしの脳内に、その瞬間、あの時のことが、決壊する堤防の水のごとく溢れ出した。
☆☆☆
『塾代くらいなら、何とかなると思うぜ』
あいつはそう言うと、ずるがしこい狐のような笑みをニキビだらけの頬に浮かべた。
預けられた親戚の家には年の離れた子どもが三人いた。一番下が小学校高学年の女、真ん中が高一の男、そして一番上がこの長兄で、当時、二十一才の大学生だった。
こいつはあたしが塾に行きたがっていることを知ると、自室にあたしを呼び出した。長兄と膝を交えて語り合う機会なんて皆無だったから緊張して堅くなっていると、あたしの目の前に一枚のメモを差し出した。
そこには繁華街にある某カラオケボックスの名前と、時間、曜日、部屋番号が記されていた。
『そこに書いてあるカラオケボックスで、週一回、客と会う。条件はそれだけ。それだけで月三万もらえるなんて、楽なもんだろ? 俺も何でおまえみたいなガキがいいんだかわかんねえけど、そいつらは、おまえくらいの女がたまらなく好きな変態らしくてさ』
多分、本当の対価は三万どころじゃなかったんだと思う。あいつがいくらかピンハネして、残ったのが三万だったという話に過ぎない。
でも、あたしにとって三万は大金だった。
そして、通いたいと思っていた大手予備校の月会費も、三万弱。
テキスト代やその他の雑費をプラスしても、その金があれば塾通いが実現できる。断る理由も、別な選択肢も、その時のあたしにはなかった。
カラオケボックスで待ちかまえていたのは、いかにもうだつが上がらないオタク系の男と、やけに筋骨逞しい長髪男という、全く共通点のない二人組。
二人は偽名であることがありありと分かる適当な名を名乗り、あたしに酒をしこたまのませて酔い潰した。あたしも意識のない方が気が楽だと思ったから、あえて拒まなかった。
朦朧とした意識の中、あたしは汚らしいカラオケボックスの床で四つん這いになり、上の口と下の口を同時に刺し貫かれて、処女を喪失した。
☆☆☆
「合意の上」と、人は言うかもしれない。
あたしも、そう決めつけてくる相手に対してあれこれ言い訳をするつもりはない。
西ちゃんだって本当に拒みたいなら、あの男が舌を差し入れてきた時点でそれをかみ切ればいいだけだ。
でも、彼はなすがまま、目を閉じてあいつの蹂躙を受けいれた。
受けいれざるを得ない事情がある。
あたしがあいつの提案を、受けいれざるを得なかったように。
本当はそんなことをしたいヤツなんかいる訳がない。
みんな自分一人ではどうしようもない事情を抱えて、苦しんで、もがいて、それでも必死に生きようとしてる。
あたしは、絶対に自分の過去を恥じるつもりはない。
でも、目の前に苦しんでいる相手がいたら、救い出してやりたくなるのが人情でしょ?
だって。
あんな思いはもう二度と、誰にもしてほしくないから。
事が終わったあとに渡される訳の分からない薬。副作用で、ひどい頭痛と吐き気に悩まされた。あれがモーニングアフターピルと呼ばれる経口避妊薬だと知ったのは、随分あとのことだった。薬を飲むのはつらかったけど、妊娠するよりはマシだから泣きながら飲んだ。自分のしたことに言い訳もしたくなかったから、どんなに調子の悪い時も誰にも言わず、新聞配達も絶対に休まなかった。
でも、つらかった。
ずっと誰かに助けてほしかった。
そしてきっと。
西ちゃんも今、誰かに助けてほしいはずなんだ。
【彩南さん!】
弾かれたように立ち上がったあたしの脳に、クマるんの悲痛な叫びが響き渡った。