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44.ホントに大丈夫?

【ホントに大丈夫?】


「だからもう大丈夫ですって」


 ほとんどシャッターの開いていない森閑とした商店街に、柴崎泰広の面倒くさそうな声が響く。全く、うるさいとでも言わんばかりだ。満員の上り電車で吐き気をもよおしてギリギリで電車を飛び降りて、さっきまで散々吐いてたくせに。

 でもまあ確かにがんばったわけだし、それは認めてやるけどさ。

 

『その分、僕はもっと自分でできることを増やします』


 昨日高らかに宣言された、柴崎泰広の決意表明。

 どうやらその気持ちに、ウソはなかったらしい。

 今朝。滞りなく朝の支度を終え、着替えもトイレも食事もすませたあと、いつものように交代を申し出たあたしに、柴崎泰広はやけに爽やかな笑顔を向けてこうのたまったのだ。


「今日からは僕がやりますよ」


【え?】


 その言葉の意味が分からず固まっていると、柴崎泰広は膝に手をついてかがみ込み、立ちつくしているあたしの顔を覗き込んだ。


「自分でできるところまでやってみます」


【え? ……って、通勤も仕事も?】


 中腰の姿勢で深々と頷く。


【……で、でもあんた、下北山に行くには上り電車に乗るんだよ。通学の時とは比べものにならないくらい混んでるし】


「新宿から、帰宅ラッシュのまっただ中に帰ったじゃないですか。あれで少し自信ついたんで」


【……で、でも開店前の準備ってスピードが要求されるし、笹本さんチェック厳しいよ。この間だって、天窓磨くの忘れてたら、滅茶苦茶どやされたし】


「そうなんですけど、やってみなきゃいつまでたってもできるようにならないし、今まで彩南さんの仕事ぶりを見せてもらってたから、多少は何とかなると思うんで」


【……で、でも接客はさすがに厳しいんじゃない? 商品知識はあんた、そう一朝一夕には身につかないよね】


 柴崎泰広は腕を組み、考え込むように目線を上げてから、すぐに頷いてにっこり笑った。


「そうですね。確かに接客は彩南さんの方がプロだ。じゃあ、お客さんが来たら交代してください。僕はそれまでの間、誰にでもできる部分を受け持つことにします」


 そう言ってあたしを見つめた柴崎泰広のまなざしが何だかやけに眩しくて、ドギマギして思わず視線を逸らした途端、昨日の出来事が鮮明に頭に蘇ってきた。


 あたしを自分の胸に押し当てて、優しく抱き締めてくれた柴崎泰広。

 正直あたしはそのあとしばらくの間、気まずいというか何というか、心臓もないのにドキドキしている気がして、まともに顔も見られない状態に陥った。男との身体的接触なんて水谷彩南時代に腐るほど経験済みのはずだったから、そんな自分の状態に困惑した。もちろん表面的には、そんなそぶりは微塵も見せていないつもりだけれど。


 一方の柴崎泰広はというと、意外なほどケロッとしていて驚いた。

 恐らくヤツは、異性と濃厚な身体的接触を持ったことなど皆無だ。せいぜいがとこ手を繋ぐ程度。だとしたら、あたしをあんな風に抱き締めたあとには、もう少し戸惑いや恥じらいがあってもよさそうなものなのに。


『少しは役に立ちましたか?』


 抱き締めていたあたしを胸から離すと、柴崎泰広はそう言ってちょっとだけ照れたように笑った。

 そう。あくまでもちょっとだけ。

 あたしなんかもう心臓なんかないのにドキドキが止まらない気がして、呼吸なんかしていないはずなのに息苦しくて仕方がないし、視線なんか当然合わせられなくて、斜め下を見つめながら小さく頷くのがやっとだったってのに。


 その時、何となく再認識した。

 柴崎泰広にとって、あたしは単なる編みぐるみに過ぎないってことを。


 あたしにはもう、血の通った温かい体はない。

 抱き締める腕の力を、ふんわりと柔らかな乳房の弾力で押し返す事もできない。

 見つめ合うことも、唇を重ね合わせることも、できない。

 

 あたしがかろうじて肉体を持ち得るのは、柴崎泰広の体に憑依した時だけ。

 でも、あの体はあくまで柴崎泰広の持ち物であって、柴崎泰広にとってみても、自分の体以上の感慨を抱けるものではないだろう。

 柴崎泰広にとって、恐らくあたしのイメージはこの編みぐるみに直結していて、それ以上でも以下でもない。だってあいつは、水谷彩南だった頃のあたしの顔を見たことすらないんだから。

 だから、あいつにとってあの出来事は、単に編みぐるみを抱き締めた、ただそれだけのことに過ぎないんだ。


 歩みに合わせて揺れながら、日差しに透ける茶色い髪と、形のよい耳と、顎から首にかけてのすっきりしたラインを眺める。

 もしあたしに体があって、あの白いうなじにそっと唇を這わせたら、あいつはいったいどんな顔をするんだろう。

 そんなことを想像した自分が少し恥ずかしくなって、でもその時のあいつの表情を思い浮かべたら何だか少しだけ楽しくなって、

 それから少しだけ、切なくなった。


 もしあたしが水谷彩南の姿でこいつの前に立ったとしたら。

 柴崎泰広はあたしを見て、いったい何を思うんだろう。 



☆☆☆



「……あれ?」


 角を曲がった柴崎泰広が、小さく呟いて足を止めた。

 細い路地の奥、ちょうど笹本さんの店の前あたりに、赤い回転灯を点灯させた救急車が一台停車している。

 周囲の店先には、開店準備をしていたらしき近所の店の店員たちが二,三人出てきていて、ヒソヒソと小声で何か喋り合っている。


「まさか、笹本さんに何か……」


【行こう、柴崎泰広!】


 ケツを勢いよくけっ飛ばした途端、機能停止に陥っていた柴崎泰広ははっとしたように走り出した。

 振動で勢いよく左右に揺れながら、扉の開いた店の奥に目を凝らす。

 扉が開け放たれた店の中は、真っ暗闇で何も見えない。

 救急車の手前三メートルほどの位置で足を止めると、柴崎泰広は黙ってポケットからあたし付き携帯を取り出し、それを右手で堅く握りしめた。

 二人して息を詰めて扉の奥の暗闇を凝視していると、ややあって白いヘルメットを被った救急隊員が数人、担架とともに早足で出てきた。

 柴崎泰広は弾かれたように担架に走り寄り、そこに寝かされている人物の顔を覗き込む。

 嘔吐物のカスを顔中にこびり付かせ、横向きで寝かされているその人物は、どう見ても笹本さんには見えなかった。金髪に近い色の髪と耳のピアスから見ても、笹本さんよりははるかに若い女性だ。

 ホッと息をついて柴崎泰広があとじさった時、店の中から息せき切って出て来た人物が裏返った声を張り上げた。


「なんだい柴崎泰広、遅かったじゃないか!」


 聞き慣れた怒声に慌てて首を巡らすと、いつもきちんと纏められている白髪交じりの髪を振り乱し、上着を片袖通さないままで肩から引っかけている笹本さんの姿が目に入った。


「もうそろそろ来る頃だと思って待ってたってのに、全く、こんな所に突っ立って何をやってんだい」


 いやだって救急車見れば誰でも驚くし、だいたい出勤時間は一〇時半だから遅刻もしてないし……なあんてことは当然のことながら一言も言わず、柴崎泰広は笹本さんに向き直ると心配そうに口を開いた。


「何があったんですか」


「何がも何もないよ。うちの二階に下宿してる学生さんがたいへんなことやらかしちまって……」


「たいへんなこと?」


「自殺だよ自殺」


 柴崎泰広は続けようとした言葉を呑み込んだ。


「睡眠薬二〇〇錠も飲んじまって……もう、悩みがあったらあたしに話してくれりゃよかったのにさ、全く何考えてんだかホントに、彼氏にふられたくらいでそんな、死ぬだなんて……」


 笹本さんは悔しそうに奥歯を噛みしめつつイライラと呟くと、ふいに顔を上げて柴崎泰広をギッと睨んだ。

 その迫力に押されたように、柴崎泰広は思わずあとじさってしまう。


「あたしはこの子と一緒に病院に行くから、あんたはあたしが帰ってくるまでに作っといとくれ」


「え? ……作るって、何を」


 「店番」という言葉を想定していた柴崎泰広にとって、「作る」という言葉はよほど想定外だったらしい。聞き返した声は笹本さんよろしく裏返っていた。

 笹本さんは飲み込みが悪いとでも言いたげに肩をすくめた。


「スペースだよスペース。材料になりそうなもんを適当に知り合いとか古道具屋をまわって集めておいたから、あとはあんたのセンスで例の子どもスペースを作っといとくれ。帰って来次第店を開けるから、そのつもりで」


 早口で捲したてると返事を待たずに踵を返し、扉を開けて待っていた隊員に目礼して救急車に乗り込む。

 リアゲートが重い音ともに閉まると、救急車は甲高いサイレンをドップラー効果的に変化させながら、細い路地の向こうに見えなくなった。

 やじ馬達がパラパラと店の中に戻り、再び朝の静寂に包まれ始めた路地の片隅で、柴崎泰広はあたし付き携帯を握りしめたまま、救急車の去った方向をぼんやりと眺めていた。

 

【……ま、死ぬことはないよ多分。胃洗浄してもらって、数日で出られるって】


「……そうですね」


【でもさ、見た? 笹本さんの顔。あんなに焦ってるあの人の顔、初めて見たかも】


「……そうですね」


【取りあえずさ、店ん中入って何が用意されてんのか確認しよう。笹本さんが帰ってくるまでに開店できる状態までもってかなきゃならないんなら、ボーッとしてる暇なんかないって】


「……そうですね」


 柴崎泰広はぼうぜんとこたえたきり、路地の向こうに目を向けたまま、しばらくの間動かなかった。

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