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43.誰かあたしを助けてよ

 寒々しい蛍光灯の光が、震えながら四畳半の居室を照らし出した。

 柴崎泰広は無言のまま、あたしのぶら下がる携帯を手に取る。

 ストラップをつまむキレイな指先を眺めながら、あたしも何も言わなかった。


 歩道に座り込んで動けなくなったあたしを見かねたのか、あの後、柴崎泰広はすぐさまあたしと交代してくれた。時刻はちょうど帰宅ラッシュのピークで、新宿駅は互いの肩が触れ合うほどの混雑ぶりだったけれど、柴崎泰広はきつく唇を引き結んでコンコースを抜け、一言も口をきかずにすし詰めの電車に乗り、あたしを家まで連れ帰ってくれた。

 よく考えると、これは柴崎泰広にとって、ある意味驚異的とも言える出来事だ。

 でも今のあたしには、それを誉めてやれるほどの気力が残っていない。

 携帯から解き放たれるや、ヨタヨタと部屋の隅まで歩いて行って、壁によりかかってへたり込む。


『いったい何であんたは、そんなにまでして生きたいわけ?』


 あたしはずっと、「生きる」ためだけに生きてきた。

 生きること、それ自体が目的だった。

 あたしという存在をこの世に送り出した、運命。

 死ねと言わんばかりの逆境をこれでもかと用意して、あたしが死ぬのをニヤニヤしながら待ちかまえていた、神様。

 そいつらに反逆して「生きる」こと、それ自体があたしの生きる意味だった。


 でも。

 それって、本当に「生きたい」ってことだったんだろうか。


「明日の分も合わせて、米は二合でいいんですよね」


 薄暗い台所から、遠慮がちな柴崎泰広の声が響いてくる。

 そうだけど、答える気力がない。んなことくらい、もう自分で考えてよ。

 あたしの答えを待つように静まりかえっていた台所から、ややあってガタガタと物を移動する音と、水の流れる音が聞こえてきた。自分で判断をつけたらしい。


 そうやってどんどん独り立ちしていってよ。

 あたしだってもう疲れたよ。


 ミソ汁を作っているのか、台所からダシの匂いが漂ってきた。

 明日の弁当のおかずになりそうな物、ちゃんと作るつもりなのかな。

 ふっと心配になったけど、何か言うのはもうやめた。

 作ってなかったら、明日の弁当はおにぎりだけにすればいい。


 壁に後頭部を預け、すすけた天井を見上げる。

 生きるのって確かに、めんどうくさいことばっかりだ。

 佐藤夏波の言っていたことは、ある意味真実だ。

 それでもあたしは生きようとしていた。

 自分にできる最善を尽くして、最大限幸せな生活を手に入れてやるために。


 だけど。

 あたしは本当に、そんなものが欲しかったんだろうか。 

 


☆☆☆



「いただきます」


 ちゃぶ台の前に座った柴崎泰広は、小声でそう言うと、チラリと目線を上げてあたしを見る。

 何かしら反応を期待していたらしいけど、面倒なので無視していると、やがて諦めたように箸を取り、みそ汁の椀を手に取った。

 ちゃぶ台の上に並んでいるのは、ご飯にみそ汁、インゲンのゴマ和えに、あじの開きと卵焼き。

 まるで朝食のようなメニューなのは毎朝やっていることの延長なので仕方がないとして、それなりに短時間で支度を調えられたことは評価できるかもしれない。

 けだるく首を巡らせて、ふと気になったことを確かめてみる。

 

【……明日の弁当には、そのゴマ和えを入れるの?】


 ぽつりと問いかけた途端、柴崎泰広はパッと顔を上げて椀から口を離した。


「一応そのつもりで多めに作っときました。あとは、この卵焼きも……」


【卵はダメだよ腐るから。それは朝やらないと】


「え……そうなんですか。せっかくうまくできたのに」


 柴崎泰広はがっかりした様子で肩を落とすと、名残惜しそうに卵焼きに目を向けた。

 少し興味をそそられたので、ちゃぶ台によじ登って皿を覗き込んでみる。

 確かに今までで一番というくらい色よく形よく焼き上がった卵焼きが、皿の真ん中に鎮座ましましている。


【へえ、ホントだ。うまくできたじゃん。上達したね、柴崎泰広】


「西崎さんほどじゃないですけどね」


 恥ずかしそうに笑ってから、柴崎泰広は手元に目線を落とした。


「……月曜日から彩南さんが、西崎さん対応、してくれていいですよ」


 発言の意図が読みとれなくて、俯き加減の瓶底眼鏡を覗き込んでしまった。

 柴崎泰広は箸を握る自分の右手を見つめたまま、静かに言葉を継いだ。


「その分、僕はもっと自分でできることを増やします。料理の幅も広げられるようにがんばります。明日の仕事も、彩南さんばかりじゃなくて、僕も可能な限り動きます。分からないことはすみません、教えてもらえれば助かるんですけど、……」


 言葉を切って顔を上げると、そこはかとなく悲しそうな表情でほほ笑んだ。


「僕は今まで、彩南さんに甘えすぎてた」


 返すべき言葉が見つからなくて黙っていると、柴崎泰広は小さく頭を下げた。 


「ゴメン……彩南さん」


 目の前で、茶色いつむじが揺れている。

 楕円の腕で、その渦の中心をツンとつついた。

 驚いたように顔を上げた柴崎泰広に、小首をかしげて笑いかける。表情は変わらないけど、気持ち的に。


【ヘンなヤツ。何いきなり謝ってんの?】


「え……」


【謝んのはあたしの方じゃん。佐藤夏波対応はあんたって決めてたはずなのに、意地はって交代しないで、予想どおりめんどうくさい事態に陥らせちゃってさ……それに】


 箸を握ったままで動きを止めて、柴崎泰広はあたしの言葉を待っている。

 ひたむきなまなざしを受け止めきれなくて、思わず目線を逸らしてしまった。


【勢いに任せて、結構ひどいことを言った気がする】


「……ひどいこと?」


【死にたいヤツには、生きる権利も資格もない、とかさ】


 柴崎泰広はつらそうに目線を落とした。


「……彩南さんの言うことは正しいです。確かに僕なんかには、生きる権利も資格もない」


【そんなことない……なんて、今更言っても受け止めてくれないかもしれないけど、少なくともあんたに関して、あたしはそんなことは思ってない。あたしはあんたに生きてほしいし、権利も資格も十分にあると思ってる】


「だって僕は、基本的に……」


【あんた、あの屋上で言ってたじゃん。死にたいって思わなかったって】


 柴崎泰広は、握っていた箸をようやくちゃぶ台の上に置いた。

 あたしを見つめる柴崎泰広の右手側、みそ汁の椀から白い湯気が、頼りないらせんを描きながらゆっくりと立ち上っていく。


【あんたはもう、死にたくなんかないはずだよ】


 柴崎泰広のひたむきな視線を受け止めながら、ゆっくりと、噛みしめるように送信する。


【それにさ、誰にだって死にたくなる時くらいあるよ。ファッションみたいな感覚でそれを気軽に口にするヤツが許せないだけで、あたしもそれは分かってる】


 ちょっと疲れた。ゴマ和えの鉢に寄りかかり、足を投げ出して座り込む。 


【あたしだって、よく考えたら死にたかったんだし】


 魚冷えちゃうよ、と言うと、柴崎泰広は思い出したように箸を取り、申し訳程度にあじの開きをつついたが、目線は相変わらずあたしの顔に注いでいた。


【あたしの親が死んだのは、小四の時だった】


 その顔を視界の左端に捉えながら、すすけてところどころ破れた襖の表面を見るともなく眺める。


【いつもみたいに学校終わって家に帰ってきたら、玄関に靴があったんだよ。親の。いつも夜遅くまで仕事してて、あたしが夕飯の支度してたから、ヘンだなあって思って声かけてみたけど、シンとしてて返事もない。家の中が妙に薄暗くて、気色悪い空気が淀んでて、ヘンな臭いが充満してる気がして、ドキドキしながら部屋に入ったら、親が二人横に並んで、鴨居に首吊ってぶら下がってたんだ】


 あの時の光景は、いまだに目に焼き付いて離れない。

 朝、出勤していった時の服装のまま、二人は並んでぶら下がっていた。吊られているうちに伸びたのか、足はギリギリ床につくかつかないか、顔色も顔の表情も、意外なほど普通だった。ただ、下剤で体の中を掃除する余裕はなかったらしく、父親のズボンには黒いシミが広がっていて、そこから異臭が漂っていた。母親はスカートなので分からなかったけど、同じ状態だったと思う。ぶら下がった足元に、水たまりのようなものができていた。

 でもあたしには、到底二人が死んでいるなんて思えなかった。

 

『……お母さん?』


 声をかけても、返事はない。

 恐る恐る、だらりと垂れ下がった右手に触れてみる。

 指に突き刺さる冷たい感触に、思わず勢いよく手を引いた。

 反動で母親の体がユラユラと揺れ、ゆっくりと回転する。

 薄暗い居間に黒い影になって浮かび上がる、完全なる物体と化した、二人の人間。

 事実が認識されていくにつれて足から力が抜け、あたしはランドセルを背負ったまま、その場にへたり込んで失禁した。


【そのあと何がどうなったのか記憶が途切れてよく分かんないんだけど、気がついたら警察が来て、親戚が来て、葬式をして、あたしをどうするかで滅茶苦茶もめて、死んだ親はぼろくそに言われて、それで結局あたしは親戚ン家に世話になることになって、大切にしていた物をみんな捨てて、住んでいた場所を離れて、周りがみんな敵みたいなところで新しい生活を始めたんだ】


 死にたいなんて絶対に思わないなんて、あれはウソ。

 あの頃あたしは、毎日死にたいと思ってた。


【でもさ、いざ死のうと思うと、あん時の両親の姿が浮かんでくる訳。バカみたいな顔でぶら下がってる二人がさ。そうすると、死にたいって気持ちがうせちゃうんだ】


 中途半端な位置で箸を止めて凍りついている柴崎泰広に、肩を竦めてみせる。


【沸々と腹の底から怒りが湧いてくるんだ。あの間抜け面を思い出すたびに。自分たちの抱えた重荷に耐えきれず、あたしをたった一人で置いて勝手に逝きやがったあいつらに対する怒りがさ。絶対にあいつらと同じ道なんか選ぶもんか、あいつらより幸せな人生を手に入れてやる、そう思ってずっと、死にたい気持ちをねじ伏せてきた……でも】


 かくりと重い首を垂れ、楕円の手の編み目を見つめる。


【それってたぶん、生きたいってこととは違うんだ】


『いったい何であんたは、そんなにまでして生きたいわけ?』


 佐藤夏波の冷たい声が、鼓膜の奥で反響する。


【あたしは勘違いしていただけなのかもしれない。親に対する復讐心を生きる意欲と勘違いして、生きたくもないのに生きていただけなのかもしれない。佐藤夏波は鋭いよ。確かにあんな状況で生きたいだなんて思える人間、普通はいないもんね……】


 短い足を無理やり楕円の腕で抱え込み、重い頭を埋めた。

 編みぐるみのあたしには、涙腺なんてものは存在しない。

 だから、泣きたくても涙は出ない。

 ただただ、胸の奥が締め付けられるように苦しくて、喉のしこりが張り裂けんばかりに膨らむだけ。

 あたしにはもう、泣くことすら許されていないんだ。


 苦しいよ。

 助けてよ。

 誰かあたしを助けてよ。


 そうだった。

 いつもあたしはこうやって一人で心の中で叫んでたんだ。

 でも結局、誰も助けになんか来てくれなかった。

 馬鹿馬鹿しくなって、諦めて、叫ぶのをやめて、そのうち叫びたいってことすら忘れ果てて。


 でも。

 何で今更、こんな気持ちを思いだしたんだろう。


 その時、あたしの背に、何か温かいものが触れた。

 大きくて、温かくて、優しい感触。

 重い首を巡らせてみると、それは手だった。

 見慣れたあのキレイな指先が、心なしか遠慮がちにあたしの背を包み込んでいる。

 さらに目線を上げると、あたしを見おろしている柴崎泰広と目が合った。

 口元が何かに耐えるように引きつっていて、口の端が微かに震えていて、何を言おうとしたのかその口を開きかけた途端、瓶底眼鏡の奥にある目の際から滴が一滴こぼれ落ちる。 

 そんなことになっているとは彼自身も思っていなかったようで、驚いたように目を見開くと、あたふたと瓶底眼鏡を外して、やり過ぎなくらいゴシゴシ目元を擦っている。

 その様子がなんだかおかしくて、思わずくすっと笑ってしまった。


【全く……何泣いてんの? 泣きたいのはこっちだってのに】


「……交代しますか?」


 柴崎泰広は目元を擦りながら、あたしを見下ろして恥ずかしそうに笑った。 


「交代すれば好きなだけ泣けますよ。僕、涙もろいから」


【そうだなあ……ちょっと惹かれるけど、そうするとあんたはクマるんになっちゃって、泣いてるあたしを誰も慰めてくれなくなっちゃうじゃん】


 あたしが欲しかったもの。

 ずっと求めていたもの。

 それは多分。


「そっか……それもつらいですね。見ている方もつらい」


 柴崎泰広は眼鏡を指先に引っかけたまま、考え込むように腕を組んだ。

 

「できれば、泣いている彩南さんは慰めてあげたい」


【今だって泣いてるんだよ、心の中でさ】 


 怒ったように送信すると、柴崎泰広はハッとしたように顔を上げて、じっとあたしを見つめた。


【慰めてよ】


 黒いビーズの目玉に力を込めながら、楕円の両腕をいっぱいに差し出してみせる。

 柴崎泰広は、どうしていいかわからないとでも言いたげにあたしを見下ろしていたけれど、やがて意を決したようにうなずくと、手にしていた瓶底眼鏡をかけて、おずおずとあたしに手を伸ばした。

 こわれ物でも扱うかのようにおそるおそるあのキレイな指先であたしを包み込み、持ち上げたあたしをじっと見つめて、それから意を決したように胸元にそっとあてがって、包み込むように両手に力を込める。


 あたしがずっと欲しかったもの。


 それはちょっと骨張っていて、でも編み目にしみ込んでくる体温が信じられないくらい温かくて、体全体を揺さぶるように伝わってくる心臓の鼓動が泣きたくなるほど気持ちよくて、完全に体重を預けていると、眠くなってきそうなくらい安心できて。


 そして、ほんの少しだけ、あじの開きの匂いがした。

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