42.なんであたしが強いのよ
眉根を寄せて腕を組む佐藤夏波の両脇には、いつも教室でつるんでいる二人が神社の入り口を護る狛犬さながらに控えている。
右手側の狛犬が、怪訝そうな表情で夏波を見上げた。
「ねえねえ夏波、コイツってさ、もしかして西崎に告られたってヤツ? 不登校だったとかいう……」
「そう」
「えー、なんかキモくない? 女ものの売り場なんかウロウロして、怪し過ぎ」
左手側の狛犬も鼻に皺を寄せて頷いた。
「ていうかさ、ヒビの入ったキモオタ眼鏡で町中うろつかないで欲しいよね。関わり合いにならない方がいいよ夏波、行こ」
佐藤夏波はあたしから目線をそらさないまま、おもむろに口を開いた。
「あたし、ちょっとコイツに話があるんだ。悪いけど、先に帰ってもらってもいいかな」
「ええ!?」
狛犬は二人同時に声を裏返すと、目をまん丸くして顔を見合わせた。
「夏波、なんでこんなヤツに……」
「西崎のことでちょっと」
佐藤夏波はそう言うとチラリと後ろを振り返り、困ったような笑みを浮かべてみせる。
左右の狛犬にとってはそれで十分だったらしい。勝手に全てを悟ると「ああ」と呟いて深々と頷いた。
「そっか、夏波、西崎とつき合ってたんだもんね」
「言いたいことあるんだ、わかった。がんばって!」
意味深な笑みを張り付けながら手を振ると、二人はそそくさと店を出て行った。
「何? 話って」
そんな二人の後ろ姿に目を向けたまま、ボソッと問う。
西ちゃんのことで話があるなんていうのは単なる口実に過ぎないだろうけど、そうまでしてあたし……シバサキヤスヒロと二人きりになりたいのは、いったいなんのためなのか。柴崎泰広と交代する前に、それだけは確認しておきたい気がする。
佐藤夏波はあたしに向き直ると、頭を振って肩を竦めた。
「別に」
「は?」
「話なんて特にないよ」
シャアシャアと言い放ち、イタズラっぽく笑いながら上目遣いであたしを見る。
……何だコイツ。
「ところであんた、今どっちなの?」
「え」
「アヤカなんだったらさ、ちょっと代わってほしいんだけど」
「……誰と」
「決まってんじゃん、柴崎泰広本体だよ」
佐藤夏波は不敵な笑みを浮かべつつ、顔にかかる茶色い髪をサラリとかき上げる。
「学校外で会う機会なんてめったにないし、あたし、あいつにちょっと興味があるんだ。せっかく会ったんだから、お買い物くらいつき合ってもらってもいいかな、なんて思ってさ」
ある程度生きていると、どうしてもソリの合わない人間というのに出くわすことがある。
あたしにとって、佐藤夏波はどうやらその第一号らしい。もう、見てくれから言動から何から何までカンに障りすぎる。あり得ない。
【……彩南さん、代わりますよ】
あたしの全身から放射される危険なオーラを察知したのか、クマるんがおずおずと控えめな送信をよこした。
何あんた、それってコイツのお買い物につき合うって意味!?
……怒髪天衝いた。
「イヤだね」
佐藤夏波は睫毛の長いクリッとした目をわざとらしく見はってみせると、耐えきれないとでも言いたげに肩を揺らしてクスクス笑い始めた。
「何それ。あんた達ってマジで面白過ぎ。柴崎は西崎からアヤカを遠ざけようとするし、アヤカはあたしから柴崎を遠ざけようとするし、ヘンな関係」
「何とでも言えば。とにかく交代はしないから」
言い捨てて店を出ようと踵を返したあたしの背中に向けて、佐藤夏波はあざけるように言葉を投げる。
「それじゃさ、アヤカでいいや。つき合ってよ」
聞こえねえよバーカ。
「一応あたしは、あんた達の弱み握ってる立場な訳だし、言うことは聞いておいた方がいいと思うんだけど」
足を止め、チラリと後ろを見やる。
佐藤夏波はさっきの場所に立ったまま、整ったその顔に冷笑を張り付けてあたしを斜から眺めている。
思いどおりになることを確信しきったその態度。ムカつく。ムカつき過ぎる。
沸々と煮えくりかえるはらわたを抱えながら、あたしはゆっくりと踵を返した。
☆☆☆
佐藤夏波は先ほどあたしが目をつけたワンピースのラックで足を止めた。
一枚を手に取り体にあてがうと、姿見の前に立ち、裾の長さや胸の空き具合をくるくる回りながらチェックし始める。
佐藤夏波が体の向きを変える度、斜め後ろに立つあたしの姿が、姿見の左端に垣間見える。
フワフワした裾を翻しながらおしゃれを楽しむカワイイ女。
その後ろにぶぜんとした表情でたたずむ冴えない眼鏡男。
そのあまりにも歴然とした落差に、気分はますますどんよりと重苦しく沈んだ。
雰囲気を察知したのか、ケツポケにぶら下がるクマるんがおずおずと送信をよこしてくる。
【彩南さん、大丈夫ですか?】
「……何? 大丈夫って」
【いや……ほら、彩南さん言ってたじゃないですか、佐藤さんと話してるとどうしても気が立ってくるから冷静になれないって。取り返しのつかないことになる前に、交代した方がいいんじゃないですか?】
「んなこと言ってホントはクマるん、佐藤夏波とデート気分味わいたいだけなんじゃないの?」
【デデデデデデデートだなんてそんなことおおおおおおおおおお思って……】
激しく身をよじっているのか、ケツポケの辺りがグイグイ引っ張られる。
「ちょっと動きまわんないでよもう、大丈夫だって。佐藤夏波を利用して女ものの服を堂々と見てるだけだから。余計な心配しなくていいからさ」
「ねえねえアヤカ。このワンピどう思う?」
ケツポケのクマるんにささやきかけた時、姿見を覗き込んでいた佐藤夏波がいきなり質問してきやがった。
一瞬、適当なことを言ってやろうかとも思ったけど、ことファッションに関してそれはプライドが許さない。不機嫌満開に眉根を寄せ、いかにも鬱陶しそうに答えを返す。
「あたしもそれ遠目ではいいかと思ったんだけど、実際に合わせてみると丈の長さが中途半端だね。花柄も、もう散々出尽くしちゃってるから来期のトレンドにも出て来ないと思う。今から買って着られる期間は素材感からしてもせいぜい三,四カ月、その期間で終わるには少々値段も高い。あたしだったら買わないね」
佐藤夏波はあたしが喋っている間中、ただでさえ大きな目をまん丸く見開いて動きを止めていた。
「……アヤカって、なんか滅茶苦茶プロっぽくない?」
女言葉なのはちょっとキモいけど、と言って笑いながら、佐藤夏波はワンピースをラックに戻した。
「でもあんたの意見頷けるかも。じゃさ、このTシャツはどお?」
手近にあったTシャツを手に取り、体に合わせて見せる。
うるさいなあもう。
「Tシャツとかのインナーは、いい悪いじゃなくて何に合わせるかだから一概には言えない。それこそ自分の手持ちの服思い出して、何にどんな風に合わせたいのかじっくり自分で考えなよ」
「なんかマジでびっくりなんだけど」
佐藤夏波は心底感心したようにそう言うと、手にしていたTシャツを棚に戻した。
「あんたと一緒だと何も買えなくなりそうな気がしてきた」
「まあね。あたし、買う時は滅茶苦茶熟慮するタイプだし、一緒に買い物なんかしない方がいいよ」
「でも面白いかもアヤカって。幸音とかと買い物に行っても、わーかわいー、とか、夏波似合うー、とか、誉めることしか言わないもん。コイツマジでそう思ってんの? とか疑りたくなる」
それはあるな確かに。女同士のそういうウザさはあたしも苦手だ。
だから水谷彩南時代、あたしも女友達と買い物に行ったことなんか一度もない。
でもまあそれは単に、金遣いの荒い友人どもに行動パターンを合わせられなかっただけというウワサもあるのだけれど。
「だったら一人で行けばいいじゃん」
「そういうわけにもいかないって。付き合い切っちゃったらクラスで孤立するしさ。面倒臭いけど合わせとかないと」
疲れんだけどねああいうの、と呟いて、佐藤夏波は歩き始めた。買い物を続ける気がそがれたのか、ネオンの眩しい表通りに出る。
「もうホント、生きるのってめんどくさいことばっかし」
星一つ見えない明るい夜空を見上げながら、佐藤夏波は独り言のように呟いた。
「マジで死にたくなる」
「じゃあ死ねば?」
前を歩いていた佐藤夏波は、目をまるくして振り返った。
腰のあたりで、クマるんが大きく息を呑む気配。
二メートルほど隔て、無言で見つめ合うあたし達の脇を、顔のない人々の群れがゆったりとうねりながら流れていく。
「いちいちムカつくんだよあんた、その甘えた態度がさ」
【……あ、彩南さん】
突然堤防が決壊した。クマるんが慌てふためいて何か送信してきたけど、もうそんなもの聞いてる余裕もありゃしない。
「いったい何様のつもりな訳? 顔も頭も良くて両親ともつい最近までそろってて、生活に困窮してるわけでもなければイジメに遭ってる訳でもなし、あたしから見たら涎が出るほど羨ましい環境でぬくぬくと育ってきてるクセに、生きるのがめんどくさいとかほざきやがって……ざけんじゃねえよ。あんたより遙かにひどい環境で、それでも必死で生きてるヤツなんてこの世界にはごまんといるんだ。あたしだってそれなりの苦労はしてきてるけど、死にたいなんて絶対に思わない。どのツラ提げて死にたいとか、……甘ったれんのもいいかげんにしろよこのタコ!」
左右逆方向に流れゆく人波の中心で、佐藤夏波は右頬を引きつり上げて笑った。
「何偉そうにぬかしてんの? あんたたちってみんなそう。自分と比べてしかものが言えないんだよね。いつでも何でも自分が基準。頭悪。あたしからしてみれば、そんな基準こそクソ食らえだね。自分より幸せだから理解できない? 理解しないでくれて結構だよ。あんた達の想像力なんかに期待してないし、分かってもらいたいとも思ってない。けなげに耐える不幸な自分に酔って自己満足に浸るのは勝手だけど、それをあたしに押しつけてくんな! ウザいんだよ」
「押しつけてなんかいねえっての。さっきから死ねって言ってんじゃん」
両手をズボンのポケットに突っ込み、斜から見下ろしてやる。
「死にたかったら死ねよ。おまえのことなんか誰も止めねえって。勝手に死んで、あの世で父親に会ってくりゃいいだろ。……まあ、あんたの父親は悲しむだろうけどね。最期まであんたたち家族のことを心配してたから」
「父親」という言葉が出た途端、佐藤夏波の目にふっと何かの感情が過ぎった。
「……何であんたがそんなこと知ってるわけ?」
「さあね。何でだかは言えないけど、知ってるだけ。んなことどうだっていいじゃん。あんたどうせ死ぬんだから、関係ないし」
【彩南さん、やめてくださいって言ってるのに!】
さっきから何かクマるんがしきりに送信しているのは感じていたけれど、脳が受信を拒否していたらしい。この時ようやく、切羽詰まったような送信が脳神経を震わせた。
「なに? クマるん。なんでやめなきゃいけないわけ?」
【だ、だってこのままじゃ、佐藤さん本当に死ぬかもしれませんよ! 僕は経験者だから何となく分かるけど……】
「死にたいんなら死なせてやればいいじゃん」
吐き捨てると、クマるんは言葉を失って凍りついた。
「佐藤夏波が今死んだら、あいつの命の砂はそこまでしかなかったってことでしょ。反対に、今ここで飛び込み自殺図って、でも命の砂がまだ尽きてなくて、手足がもげてそれでも頭だけ生き存えて、永遠にベッドにつながれて死んだように生きるしかなくなったとしても、もうそれはしょうがないじゃん。それこそこいつが自分で選んだ「生き方」なんだからさ」
クマるんは数刻言葉を失っていたが、やがて押し殺したような送信をよこした。
【……僕はときどき、彩南さんが分からなくなる。彩南さんは明るくて前向きでポジティブで強い人だけど、心が弱ってる人に対してはゾッとするほど冷たい。自分は強い人だからそれでいいかもしれないけど、心が弱ってる人に対してそういう対応は……】
「……あたしが強い?」
思わず声が裏返った。
何寝とぼけたこと言ってる訳このクマは。
「なんであたしが強いのよ」
【だって彩南さんは、どんな逆境にもめげないで、たった一人で運命を切りひらいて……】
「そんなんで強いって決めつけんじゃねえよ!」
あたしのかすれて裏返った声が、新宿の雑踏と夜の闇を切り裂いた。
行き過ぎる人々の目が、一斉にあたしに注がれる。
「誰もあたしのことを助けてくれなかっただけだろ。誰も彼も、これでもかこれでもかって重圧やら偏見やら不快感やらを押しつけて、あたしがいつ倒れるかってニヤニヤ笑いながら見てただけじゃん。あたしはそれに負けたくなかったから、たった一人で踏ん張った。自分でやるしかなかっただけだ。あたしは最初から強くなんかない。強くならざるを得なかっただけだ!」
あたしだって本当は、誰かに助けてほしかった。
だからあたしにとって、西ちゃんは特別な存在だった。
たった一人で倒れそうだったあたしに、唯一手を差し伸べてくれた人だから。
「だからあたしは、死にたがるヤツが大嫌いなんだ」
クマるんの送信は届かないので、一人で興奮しているように見えるのだろう。佐藤夏波はちょっと怯えたような目であたしを見ていた。
そのぱっちりした二重の目を、真っ正面から見据える。
「死にたいなら死ねばいいだろ。生きたくても生きられない人間からしてみれば、死にたいヤツになんか生きる権利も資格もねえよ。さっさと死んで、視界から消え去ってほしいだけだね」
「……あんたの主張は理解したけどさ」
佐藤夏波はあたしが興奮しまくったことで、逆に落ち着きを取り戻したらしい。静かな調子で口を開いた。
「一つ聞きたいんだけど、どうしてあんたって、そんなにまでして生きたいの?」
「……え?」
「根本的にさ、逆境を押しのけてまで生きたい理由って一体なんなの? あんたの逆境とやらの詳細は知らないけど、あたしがもしたった一人で何らかの逆境に立ち向かわなきゃならないとしたら、すぐに死ぬと思う。めんどくさいから。てか、あんたみたいに立ち向かおうとする人ってそうはいないんじゃないかな。いったい何であんたは、そんなにまでして生きたいわけ?」
――あたしが、生きたい理由?
「……それは、……」
「なんだ。自分でも見えてないんじゃん」
佐藤夏波の頬に、侮蔑を含んだ笑みが浮かんだ。
「確たる理由もはっきりしないまま、偉そうに上から目線でご高説を垂れられたって納得できないって。てかさ、あたしも別に本気で死にたい訳じゃないから。ただ単に決まり文句的なもので言ってみただけだし、そんな熱くなられても困るんだけど」
「死ぬとか軽々しく口にすること自体気に入らねえんだよ」
「勝手にムカついてればいいじゃん、苦労人のアヤカさん」
佐藤夏波は鼻で嗤って、くるりと踵を返した。
「でもまあ、あんたの苦労話に共感してくれる相手なんかいないと思うけどね。みんな自分のことでいっぱいいっぱい。他人のことなんか、ある意味どうでもいいんだからさ」
佐藤夏波は言い捨てると、軽く右手を挙げ、振り返りもせず雑踏に紛れて消えた。
その後ろ姿が視界から消えた途端、目の前がふっと暗くなって、思わず路面に膝をつく。
【だ、大丈夫ですか?】
うずくまるあたしにクマるんが驚いたような送信をよこしたけど、なにも答えられなかった。
『いったい何であんたは、そんなにまでして生きたいわけ?』
佐藤夏波の冷たい声が、いつまでも空っぽの頭に反響していた。