4.生きるしかない
「ぷはあっ」
ギシギシきしむ腰に右手をあてがい、一リットル入りイオン飲料をペットボトルから直接飲み干す。
頭痛は脱水症状のせいもあったらしい。空っぽに近い冷蔵庫に飲みかけのイオン飲料があって本当に助かった。目が覚めた直後に比べれば、頭痛ははるかによくなってきている。
「取りあえず、ゲロの始末は終わったけど……」
ため息をつきつつ、ぐるりと部屋を見渡す。
体の不調を訴えるばかりでろくろく動けないあの男に業を煮やし、三時間後、あたしは再びあの男の体に入った。それから二時間、窓を全開にして部屋の空気を入れ替えつつひたすら嘔吐物を処理し、汚れた物を処分し続け、ようやく目につく汚れがなくなった頃には、外はすっかり夜の闇に包まれていた。
寒々しい蛍光灯の光に照らし出された部屋は、ゴミとがらくたに埋め尽くされて相変わらず足の踏み場もないけれど、取りあえず吐瀉物の汚れだけはなくなったらしい。頭痛と吐き気と脱水症状でフラフラの割にはよくやったと、自分で自分をほめてみる。
「しっかし、臭いがとれないなあ」
あれだけ部屋中ゴシゴシ擦ったのに、何でこんなに臭いんだろう?
【そうですか? ずいぶんきれいになりましたよ】
頭に響き渡る脳天気な声(?)。
ピクピク引きつる頬をなだめつつそちらに視線を移動すると、高々と積み上げられた本の山の頂上で壁により掛かり、まさに高みの見物といった様子でふんぞり返っている編みぐるみのクマが映り込んだ。
無言で歩み寄り、速攻指ではじき飛ばすと、クマは重い頭に引っ張られるようにして本の山から転落し、ゴミの海に突っ込んだ。
【……って、何すんですか!】
「は? なにするもクソも、なんであたしがあんたのゲロの後始末してやんなきゃならないわけ? 礼の一つも言えよっての!」
【そんなこと知りませんよ。僕は頼んだ覚えはないです。別にあのままでも構わなかったのに、あなたが勝手に掃除しただけじゃないですか】
「はあ!? なにそのふざけた上から目線。あんたねえ、クマの分際で……」
思わず首根っこをつかんで目の高さまで持ち上げるも、クマ野郎は涼しい顔(?)だ。
【無駄ですよ。今の僕には神経ないですもん。呼吸も必要ないですから、苦しくも何ともない】
「……」
こいつムカつく。ムカつき過ぎる。
わざとらしくはあっと大きなため息をついて斜め下に目線を落とし、今度は憂い満開で呟いてみる。
「やっぱあんたとの共生なんか不可能だね。生きるのなんか諦めて、早く三途の川に戻った方が……」
首をつかまれてぶら下げられていたクマは、焦ったように楕円形の手を振り回し始めた。
【え、あ、いや、感謝してますよ、もちろん。当たり前じゃないですか】
「そのわりに、礼の言葉の一つもないとかあり得なくない?」
【あ、ありがとうございました。痛み入ります。感謝感激、もう足を向けて寝られない……】
並べ立てられていた礼の言葉が、ふいに途切れた。
見ると、クマ野郎が黒いプラスチック製の丸い目を、じいっとあたしの顔に向けている。
「……なに?」
【いや、いくら掃除しても臭いが取れないわけですよ。体全体、ゲロまみれじゃないですか】
「マジ?」
慌てて着ているTシャツを引っ張り上げて見る。首から手を離されたクマが放り出されてゴミの山に転がったが、知るか。
「うっわ、ほんとだ……ヤバすぎ」
着ていたTシャツもジーンズも、ゲロの飛沫があちこちに飛び散っている。顔も髪も同様にゲロまみれなのだろう。周囲があまりにも悲惨な状況だったせいで気がつかなかった。
「うええ、きっしょ……すぐフロに入らなきゃ。フロどこ?」
【は? ちょちょちょちょちょっと待って!】
あたしが部屋を出て行きかけた途端、ゴミの山に転がっていたクマがそれこそバネ仕掛けの人形さながらに飛び起きて、素っ頓狂な送信をよこした。
「何? 一刻も早くシャワー浴びたいんだけど」
【あと一時間待って】
「はあ? なんで一時間も待たなきゃなんないの?」
【だって、交代できないから】
「? 交代って……」
やっと何が言いたいのか分かって、言いかけた言葉を飲み込んだ。
この体は、あたしのじゃない。
低い声の違和感や股に感じる異物感にもずいぶん慣れたけど、この体はこいつの体。トラックに轢きつぶされたあたしの体は、今は魂と切り離された抜け殻になっていて、多分もうすぐ荼毘に付される。
あたしは、死んだんだ。
「……そっか。確かに、あたしが入るんじゃまずいよね」
【でしょ。僕が入るから、あと一時間待って】
何だか急に力が抜けて足が体を支えきれなくなり、へなへなとその場に座り込んだ。
体育座りをして壁により掛かったあたしを見て、クマは少しだけ首をかしげた。
【どうしたんですか?】
「……え、いや、何か急に疲れた」
【いろいろありましたからねえ】
よたよたと歩み寄ると、クマもあたしの隣にとすんと座り込む。
【僕も疲れましたよ。いろいろありすぎて】
しばらくの間、あたしとクマは壁際に並んで座り、ぼーっと中空を眺めていた。
「……ねえ、クマるん」
【なんですか、その、クマるんって】
「呼び名」
【は? なんかヘンですよ、それ】
「だって他に呼びようがないじゃん」
【僕いちおう、柴崎泰広って名前があるんですけど】
「シバサキヤスヒロ……普通だなあ。じゃ、何て呼べばいい?」
【何でもいいですよ】
「ならクマるんでいいね」
クマるんは不服そうに黙り込んだ。
「あたしは、水谷彩南。呼び方はなんでもいいや。とりあえずよろしく。ところでさ、これからどうするつもり?」
【どうって……生きるしかないんでしょうねえ。命の砂とやらが尽きるまで】
「あたしと一緒に?」
重そうな頭を転がり落ちそうな勢いでこっくりと上下させる。
「あんたはそれでいいかもしれないけどさ……」
思わず、深いため息が漏れた。
【あなただって生きたかったんだから、いいんじゃないですか?】
「そりゃ、生きたかったよ。自分の体でね」
クマるんは黒光りするビーズの目玉でじっとあたしを見た。
「あたしはあたしの体で生きたかったの。この体は、何をどうしたってあんたじゃん。てことは、あたしはこれから、あんたとして生きなきゃならないってことでしょ。体は重いし、声はヘンだし、臭いし、やたら毛が濃いし、顎の辺とかジョリジョリするし、股の間に異物感あるし、おまけに、かなりいけてない部類だし……」
腹にたまりまくった二酸化炭素を思いきり吐き出して、膝を抱えている腕に顔を埋める。
「……あたしはあたしとして生きたかっただけなの。シバサキヤスヒロとして生きるなんていう選択肢、最初から考慮の範疇外なの」
それから、ジトッと横目で隣に座るクマるんを見やる。
「ていうかさ、あんた、女のあたしと生きるってことの意味、分かってる? フロはもちろん、トイレだって中身があたしのままじゃ行かれないよね。あんたが生きてきた過去をしっかり知っとかないといろいろ整合性がとれなくなるだろうし、女言葉なんか使ったりしたらそれこそヤバイし」
【別に構わないですよ】
クマるんはポツリとそう言うと、部屋の突き当たりにある薄汚れたカーテンに目を向けた。
【あなたはあなたの生きたいように生きてください。以前の僕と整合性がとれなくなっても別に構わないし、そのためにヘンな目で見られても別にいいです】
「あたしはよくない。ヘンな目で見られるなんてさ」
憤然と言い放ち、隣に座るクマるんを睨む。
「とにかく、これから一緒に生きるしかないんなら、あたしはあんたのことを知っておく必要がある。ボロを出さないためにも、最低限」
クマるんはおずおずと首を巡らせてあたしを見た。
「あんたのこと、詳しく教えて。じゃなきゃ、今すぐ禁忌犯してあたしだけ三途の川に帰る」
【詳しく……っていうと】
「覚えきれないんで、まずは最低限でいい。あとのことは、必要になった時点で順次教えてもらうから。現時点で必要な情報は、氏名、年齢、職業または学校名、家族構成と生い立ち、それと……」
言葉を切り、クマるんの黒い目をじっと見る。
「それと、なんで死のうと思ったのか」
あたしの視線に射すくめられてしまったかのように、クマるんは動かなかった。
ドアの隙間から見える薄暗い台所から、水の滴る音だけが一定間隔で響いてくる。
ややあって、クマるんはようやく重い口を開いた。
【……氏名は、さっき言ったとおりです。柴崎泰広。性別は男で、年齢は十八才、都立南沢高校三年B組に在籍中、です】
「マジ!?」
思わず声が裏返った。
「マジで南沢? あたし、芝沢だよ」
【そうなんですか?】
「もしかして、ここって結構あたしの住んでたとこから近い? 住所は?」
【世田山区鳴沢三丁目十五番十八号】
「なんだ、電車で三駅じゃん」
思わず顔がほころぶ。そういえば三途の川の渡し守も、一定地域の死者が集まってるとか言っていたっけ。
「んで、その先は? 家族構成とかさ」
【……その先、ですか】
クマるんは言葉を濁すと、重力に引かれるままに重そうな首を垂れた。
【人並みに両親はいましたけど、今は一人です】
「え?」
【父親は僕が小さいころ事業に失敗して自殺、母親は先月、男作って失踪したんで】
クマるんはそれきり口をつぐんだ。
ふうん、なるほど。
丸っこい耳の間にある荒い編み目を眺めながら、小さく肩をすくめた。
「それで世をはかなんだって訳か」
【え、あ、まあ……】
ださ。そんなんで死んでたら、命がいくつあっても足りないじゃん。
「分かった。基礎的な情報は抑えたし、今はそのくらいでいいや。てか、ちょうど一時間たったから、交代してフロ入ってきてよ。もう臭くて臭くてたまんない。また吐きそう」
クマるんはおずおずと顔を上げると、楕円形の腕をあたしの目の前に差し出してきた。
あたしも右手でその腕を握る。
「いくよ、せーの……」
かけ声とともに、意識を握っているクマるんの手に集中。
あたしという意識の塊がシバサキヤスヒロの顔面に集中し、そのまま肩を通り腕を伝って指先から抜け、あっという間に小さなクマの体に満ちる。
それと入れ替わるように、シバサキヤスヒロの体にはクマるんから抜けた柴崎泰広の魂が満ち、生気を失いかけた目に光が戻る。
二回目だけど、なんとも不思議な感覚だ。
この調子で他の人間の体にも入れないかな、などとちらりと思う。
でもそんなことをしたら、その時点で「悪用した」と見なされて、三途の川に逆戻りになってしまうんだろうな。不届きな考えは捨てなければ。
柴崎泰広は体に戻った実感が湧かないのか、口を半分開けてぼんやりと中空に目を向けている。
【ほら、ボーッとしてないでさっさとフロに行ってきてよ】
「……え、あ、はあ」
ずれた眼鏡の鼻根を押し上げつつ、ヨタヨタと部屋から出ていく柴崎泰広の後ろ姿を眺めながら、さっきのあの言葉を反芻する。
『柴崎泰広。性別は男で、年齢は十八才、都立南沢高校三年B組に在籍中、です』
南沢高校。
――あいつの、高校だ。