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39.これって、まさか……。

 間もなく到達するであろう、熱く柔らかな感触。

 暴れ回る心臓を必死でなだめつつ待ちかまえていたその感触は、だが、いつまでたっても唇に到達する気配がない。

 訝しく思いつつ、恐る恐る意識を開く。


 振動にあわせて中空で揺れる視界。

 頭頂部をつながれて、ぶら下げられている感覚。

 動かしにくい楕円の腕……。


 ハッと顔を上げた。

 その途端、視界に、しりもちをつくような格好で地べたに座り込んでいる西ちゃんの姿が映り込んだ。


 ……え?


 後方に手をつき、あっけにとられたような顔で眼前に立つ人物を見上げる西ちゃんのワイシャツの胸元には、くっきりとした靴跡がついている。


 これって、まさか……。


「痛って……アヤカちゃんきっつ。さっきは俺のこと、嫌いじゃないとか言ってたくせに」


 苦笑まじりに胸の泥を払い落とす西ちゃんに、佐藤夏波が冷ややかな笑みを投げる。


「西崎焦りすぎ。嫌われたくないんなら、そういうことは時間をかけてやんないと」


 西ちゃんは恨みがましく佐藤夏波を睨む。


「なこと言って夏波、おまえだってすでに柴崎の唇奪ってるクセに」


「あたしは嫌われたって別にいいんだもん。つか、あたしが奪ったのは柴崎泰広じゃなくてアヤカの唇でしょ。キモいけど」


「だからアヤカなら許してくれるかと思ったのにさ」


「だってこれもうアヤカじゃないし」


 西ちゃんはきょとんと目を口を開くと、目の前に立つ人物をゆるゆると見上げた。

 佐藤夏波も挑発的な笑みを浮かべながら、斜からその人物を眺めやる。

 あたしも気づかれないように重い首を上げて、その人物……柴崎泰広を見た。

 柴崎泰広は、西ちゃんの目線に怯えたかのようにビクリと体を震わせたが、珍しく目を逸らさなかった。


「おまえ……柴崎本体なの?」


 その首が縦に振られた途端、西ちゃんは目を輝かせ、バネ仕掛けの人形みたいに跳ね起きた。


「マジマジマジ? 何おまえ男苦手なんじゃなかったの?」


「出て来ざるを得ないですよ、あんな状態じゃ……」


「へえええええ」


 西ちゃんは両手をズボンのポケットに突っ込むと、顔を近寄せ、自分より五センチほど低い位置にある柴崎泰広の顔を舐めるように眺めやる。

 柴崎泰広は、背中を立ち木にびっちりくっつけて完全に逃げ腰ながらも、そんな西ちゃんを精いっぱいの目力を込めて睨み返した。


「怒ってんの? 柴崎クン」


「……当然です。僕は男が嫌いなんだ」


 西ちゃんは右手を垂直にかざして形式的な謝罪の意を表すると、ニヤニヤしながらも軽く頭を下げた。

 

「悪かった! 夏波の話聞いたら、つい焦っちゃってさ……てか、俺って見た目では男と分類されっけど、実を言うと中身はどっちでもないの。精神的には非常に中立な存在だから、安心してよ☆」


「何、訳の分からないこと……」


「訳分からなくないって。フツーのことだよ、俺もおまえも」


 怪訝そうに眉根を寄せた柴崎泰広に、西ちゃんは極上の笑みを投げた。


「おまえの中に女の子のアヤカちゃんが同居してんのだって、おまえにとってはある意味自然なことなんだろ? それと同じで、俺は外見的には男なんだけど、俺の中にはどっちとも言いきれない俺が入ってんの。で、俺にとってそれは至極当然で自然なことな訳。OK?」


 西ちゃんの屈託のない笑顔を眺めながら、あたしはその時、少しだけ分かった気がした。

 どうしてコイツが、あたしの存在を初っぱなからあんなに自然に受け容れていたのか。  


『そんじゃさあ、今のおまえはどっちなの?』


『なーなー、おまえ、柴崎とは別の名前とかあんの?』


『今後ともヨ、ロ、シ、ク。アヤカちゃん♡』


 忌避感のかけらも感じさせない、まるっきり自然な対応。

 引きすぎることも深入りし過ぎることもなく、ごく当たり前に寄せられる関心。

 その事実を知る前と後で、何ひとつ変わることのない態度。


 よくよく考えれば、これはあり得ないことだ。

 こんな重大なことをカミングアウトされて、平静でいられる人間なんてそうはいない。

 その上、乖離性同一性障害の代名詞的存在「ビリー・ミリガン」は連続強姦魔で、あたしも佐藤夏波に対してそれに類するようなことをしてしまっている。犯罪的傾向を持つ人物という偏見を持たれても何らおかしくはないし、現に、佐藤夏波が初めてこの事実を知った時は、明らかに緊張していた。

 でも西ちゃんは、そんなそぶりを毛ほども見せていない。それはたぶん「多数派マジョリティ」とは言いがたい自分という存在を非常に肯定的に受け止めている、その自由な精神性に由来しているんだと思う。どうしてそんな風になれたのか謎ではあるけれど、相当に希少価値のある性格なのは確かだ。

 やっぱりコイツとは、仲良くしておいた方がいいかもしれない。


【柴崎泰広、あんま西ちゃんと敵対しないで】


 投げかけるも、柴崎泰広は無反応。目線をこちらに向けることすらしない。

 まあ、これだけの至近距離で西ちゃんと相対しているわけで、彼にとっては相当な精神的負担だろうし、かなり緊張してるんだろうけど。


【こいつって、やっぱ貴重な存在だよあたし達にとって。ヘンにキツイ対応をして、敵に回さない方が絶対に得だから……】


「黙っててもらえます?」


 ぞんざいに発言をぶった切られた。


【なに、その上から目線……】


「彩南さんに任せてると、とんでもない方向に事態が進みそうで怖い」


【とんでもないって……大げさな。たかがキスくらいで】


「たかがって何言ってんですか冗談じゃないですよもう!」


 いきなりの大声にさすがの西ちゃんも驚いたのか、目をまん丸くして柴崎泰広を見た。


「は? いきなりなに? びっくりすんじゃん。俺、何か気に障ることでも言った?」


 柴崎泰広はそんな西ちゃんを上目遣いにじとっと睨み上げた。


「言ってますともやってますとも気に障りまくりですいいですか西崎さん、今後一切僕の体に触れないでください。指一本でも触れたら、僕はもう学校には来ません。即不登校を再開して引きこもりますからっ」


「へええ。こーゆーのでもダメ?」


 西ちゃんはいたずらっぽい笑みを浮かべると、人差し指で柴崎泰広の額をチョンとつついた。


「……!」


 息をのんで顔を引きつらせる柴崎泰広を見て、西ちゃんは腹を抱えてケラケラ笑った。


「わりぃわりぃ。おまえ見てっとついからかいたくなってくんの。分かったよ。てかそもそもノンケのヤツにそう簡単に近づけるとは思ってねえし。取りあえず、おまえが柴崎泰広の時は、おまえの体には指一本触れません」


 西ちゃんはふいに言葉を切った。

 その目に宿る突き刺すような気迫にのまれ、柴崎泰広は生つばを飲み込んで石化する。


「……ただし、条件が二つある」


 石化した柴崎泰広を底光りする目で見据えつつ、西ちゃんはいつもよりツートーン低い声で言葉を継ぐ。


「一つ目。お友だち関係だけは絶対に切んな。俺は既におまえの中のもう一人のおまえとそういう約束を交わしてんだ。約束は守ってもらう。二つ目。アヤカと俺がどんな関係になろうがおまえには関係ねえ。とやかく口を出してくんな。以上二点、守られなかった場合は即刻警察に通報して、夏波にやらかしたことの責任をきっちり取ってもらう。いいな」


 やっぱり、あの件との交換条件か。まあ、そうくるよね普通は。

 でもまあ、交換条件としては悪くないどころか、この程度ですむならラッキーとしか言いようがない。西ちゃん、やっぱいい人かもしんない。

 取りあえず、この件はこれで一件落着かもしれないとホッと一息ついた、その時。


「嫌です」


 はああ!?


 思わず柴崎泰広の顔を振り仰いでしまった。

 柴崎泰広はあたしを一顧だにすることなく、額に脂汗を浮かべながら血走った目で西ちゃんを睨みつけている。

 西ちゃんはあきれ果てたように肩をすくめた。


「なにそれ。俺いちおうすんごい譲歩してやってるつもりなんだけど。おまえのこと好きだしさ。何が気に入らないっての? お友だち関係すら続けたくないってこと?」


「……それは仕方がないです。約束は守ります」


「は? そんなら何が……」


「アヤカさんに手を出すな」


 ……え?


 おもわず、思考が停止してしまった。

 西ちゃんは目をらんらんと輝かせて柴崎泰広の顔を覗き込んだ。


「へええええ、何? おまえって、自分の別人格のこと意識できてんの? でもって、ひょっとして、その人格のこと……」


 柴崎泰広は目をまん丸くして真っ赤になると、首を左右に激しく振りまくった。


「は? ちちちちちちち違いますよなに言ってんですかバカじゃないですか単にアヤカさんはガードが緩いから強引に押し切られたら自分の体の安全が守れなくてヤバいってだけです決まってんじゃないですかそんなこと」


 句読点皆無。 

 ……んだよそんなに全力で否定しなくたっていいじゃんかタコ。


「ふーん……」


 西ちゃんは笑いをこらえたような表情でそんな柴崎泰広を見ていたが、きっぱりと首を横に振った。


「やだね」


 がくぜんと凍り付く柴崎泰広を眺めやりながら、いかにも楽しそうに言葉を継ぐ。


「俺、おまえも気になってるんだけど、アヤカちゃんも同じくらい気になってんの。おまえが高校に復帰したあと、俺の対応してたのってアヤカちゃんだろ。ああいうツンデレ系キャラ、俺かなり好きなんだよね。しかも、アヤカちゃんは脈ありなんだし、これに手を出すなってのは正直あり得ねえって」


 そこまで言うと笑いを収め、ずずいと顔を近寄せる。

 それに押されるように、柴崎泰広は顎を引いて木に張り付いた。


「おまえとアヤカは別人格なんだろ? だったら、他人のことにとやかく口を出すな。アヤカが表に出てる時は、この体はアヤカのもんだ。他人のおまえが、その行動にとやかく口出す資格はねえの。OK?」


 刺すようなまなざしに射すくめられ、柴崎泰広は瞬きすら忘れて凍り付いている。

 西ちゃんは満足げに笑って体を引くと、腕時計に視線を走らせた。


「あ、ヤバ。もうすぐ一時間目終わっちゃうじゃん」


 踵を返すと、校舎方面に歩き出す。


「てことで、いいな柴崎。今後とも末永くヨロシクー」


 軽く右手を挙げて歩き去る。

 苦笑まじりの笑みを浮かべて二人の様子を眺めていた佐藤夏波も、西ちゃんに続いて校舎方面へ歩き出す。

 半ばぼうぜんとそんな二人の後ろ姿を見送っていた柴崎泰広は、力尽きたのか、立木に背をこすりつけながら地べたに崩れ落ちた。

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