38.あたしの名前
「……で、それマジな訳?」
距離にして、およそ三〇センチメートル。
西ちゃんは眉と眉の間にくっきりした縦皺を三本も刻んだ顔をずずいと近寄せ、地を這うような声音で問う。
校舎裏に位置するこの薄暗いビオトープは、通りかかる人の姿もめったにない。そんな人気のない場所で、あたしは西ちゃんに詰め寄られながら、ケヤキの木に退路を阻まれて逃げ場を失っている。
西ちゃんの後ろには、佐藤夏波が立っている。腕を組み、バカにしきったような笑みを右頬に張り付けながら、追い詰められたあたしを眺めやっている。その心の底から楽しそうな顔が視界に入るたび、はらわたが煮えくりかえって仕方がない。
それにしてもクマるんのヤツ、佐藤夏波が出てきてるというのにプッツリ送信をよこしやがらない。たぶん、西ちゃんが一緒にいる状況では交代は不可能と言いたいんだろう。甘い。ふざけんな。
「ちょっとちょっと柴崎泰広、意識あるんだよね? 交代してよ交代」
ケツポケのクマるんをせっつくと、微妙に震えているような弱々しい送信が返ってきた。
【……む、無理言わないでくださいよ。この状況で、しかもコイツが目の前にいるってのに】
「こんな状況だからこそあんたの出番なんじゃん。昨日みたいに、法律でも何でも振りかざしてコイツら追い払ってよ。あんた、電車とかクラスとかなら男と一緒でも大丈夫になったんだよね?」
【ななな何言ってんですか密着度が違いますっ! コイツの接近の仕方に耐える自信なんか一ミクロンもないですよっ】
「頼りになんないなあもう! じゃあ悪いけど、あたしの思ったようにやらせてもらうよ。どうなっても知らないからね!」
「え、何? いま何て言った?」
憤然と吐き捨てた途端、西ちゃんが右耳に手を当てて顔を近寄せてきたので、慌てて作り笑いを浮かべて頷いてみせる。
「マ、マジマジ。マジって言ったの」
「へええええ」
西ちゃんは目をまん丸くすると、感心しきったように何度も頷いている。その表情からは、驚きとか恐怖とかのマイナスな感情は全く感じられない。むしろ、おもしろい事実にワクワクしているといった方が近い気がする。
コイツ案外柔軟性が高いのかも。
いくぶんホッとしつつ、崩れた体勢を立て直す。
「そんじゃさあ、今のおまえはどっちなの?」
「え」
「二人住んでんだろ、柴崎クンの中にはさ。誰と誰が住んでるんだっけ。一人は柴崎泰広クン本体だろ。もう一人は……」
「そういえばもう一人のこと、詳しく聞いてなかったなあ」
それまで黙って話を聞いていた佐藤夏波が、突然口を開いた。
塀に寄りかかっていた体を起こし、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
来んなタコ。噛むぞ。
あたしの不穏な気配を察知したのか、腰のクマるんが楕円の腕であたしの右手をつついてきたが、遅い。今更交代なんかしてやるもんか。
「あ、でもあたし、今どっちだか何となく分かるかも」
佐藤夏波はニヤニヤしながら、至近距離まで顔を近寄せてくる。
負けるもんか。嫌みったらしい笑みを浮かべるその端正な顔を、精いっぱいの目力を込めて睨み返してやる。
佐藤夏波はそんなあたしの顔をまるで品定めでもするように眺めてから、小さく鼻で嗤うと、煌びやかなネイルアートがまばゆい人差し指をあたしの眼前に突きつけた。
「あんた、あたしがキスした方のシバサキヤスヒロだ」
げ。それ言うか普通。
案の定、西ちゃんの顔から音を立てて血の気が引いた。
「なななななななな夏波!? ちょっと待ておまえ俺を差し置いて柴崎に何しやがった?」
「ね、図星だよね?」
佐藤夏波はうろたえまくる西ちゃんを一顧だにせず、あたしに固定した視線を逸らそうともしない。
カンに障る女だな全く。
「なーなー柴崎マジ? 夏波が言ってることマジなわけ?」
泣かんばかりの勢いで縋ってくる西ちゃんがあまりに鬱陶しいので、仕方なくその問いと併せるように小さく頷いてやると、西ちゃんは驚愕に両眼を見開き、両手で頭を抱えて叫んだ。
「えええええええうっそお!」
「そっか。てことは、あんたが柴崎泰広の本体じゃない方か」
地べたにヘナヘナと座り込む西ちゃんの隣で、佐藤夏波はそう言って満足そうに頷いてから、ポツリとつけたす。
「性格悪い方だ」
殺すぞ。
「……とまてよ。こっちがもう一人の柴崎ってことは、俺がもともと気になってた方の柴崎本体は、コイツとは別ってことだよな」
……何かちょっとグサッと来るんですけど。
西ちゃんは気を取り直したのか、いつも通りの何気ない調子でこんなことを聞いてきた。
「なーなー、おまえ、柴崎とは別の名前とかあんの?」
「え?」
ドキッとして、思わず西ちゃんの顔を見つめ直した。
西ちゃんは相変わらずのニコニコ顔でそんなあたしの視線を柔らかく受け止めている。
「ほら、別人格持ってると全部名前がついてるらしいじゃん、ビリー・ミリガンとか読むとさ。だから、おまえにもなんか名前があるのかと思ってさ」
あたし。
あたしの名前。
胸の中心で、心臓がうるさいぐらいその存在を主張し始めた。
屈託なく笑う西ちゃんの顔から目が離せない。
あたしの……
「彩……」
【ダメですよ。この間、話の中でその名前出してる】
言いかけた途端、突っ慳貪な送信にぶった切られた。
語尾を飲み込んで、腰にぶら下がるクマるんに目を落とす。
【しかもこいつは、生前の彩南さんのことを知ってる可能性がある。そんな名前を出したら、どう話が広がるか分からない】
クマるんは腰でブラブラ揺れながら、昨日佐藤夏波を追い詰めた時のごとく、淡々と冷徹に言葉を継ぐ。
その言葉には反論できない気がして目線を落とすと、視界の端で西ちゃんが眉を寄せた。
「なに? よく聞こえなかった。もう一回言ってくれる?」
慌てて目線を上げ、一瞬考えてから口を開く。
「……アヤカ」
「アヤカ?」
西ちゃんはキョトンとした表情で繰り返すと、マジマジとあたしを見つめ直した。
「それって女の名前だろ。……ってことはさ、おまえ、もしかして」
好奇心満開って感じで身を乗り出してくる西ちゃんの斜め後ろで、佐藤夏波が顔を引きつらせて固まるのが見えた。
「……女なわけ?」
見せつけるようにわざと大きく頷いてみせる。
佐藤夏波は眉をしかめ、両手で口を覆って「おえ」てな顔をした。
フン、それはこっちのセリフだっての。
頭上でホームルーム開始のチャイムが響き始めたが、西ちゃんはそんなことは意にも介さない様子で質問を重ねた。
「マジマジ? じゃさ、俺駅で告ったじゃん。あんときはどっちだったわけ?」
「……あたし」
「えーちょっとやめてマジでキモいって。その顔で女言葉やめてくれる?」
思いっきり顔をしかめる佐藤夏波の隣で、西ちゃんはいかにも得心がいったというように深々と頷いた。
「あそっか、だからOKしてくれたんだおまえ。え、てことはさ、えっと……アヤカの方は、俺のことは嫌いじゃないってこと?」
腰のあたりから、針のように尖った視線をチリチリと感じる。
ビーズの目玉の視線を感じること自体、結構不思議なことではあるんだけど。
「……まあ、嫌いってほどじゃないかもね」
「そっかあ。じゃあ俺、柴崎の半分は攻略済みってことなんだ」
心底嬉しそうにそう言ってから、ずずいと顔を近寄せて声を潜める。
「で、アヤカさ、マジな話、もう一人の柴崎本体は、俺のことをどう思ってンのかな」
耳元でささやくと、やけに真剣なまなざしであたしをじっと見つめる。
……近い。てか近いよ西ちゃん。鼻息荒いって。
「……コイツは男ダメだから。諦めた方がいいかも」
「え、何それ。男ダメって」
「男性恐怖症。男に近づかれるとゲロ吐くからコイツ」
西ちゃんは心底驚いたように顔中の穴を円形におっぴろげた。
「えええうっそぉ、マジ? なんで?」
「さあ。原因はあたしも知らないけど、多分なんかのトラウマじゃない? とにかくそんなんだから、西崎クンにはだいたいあたしが対応してる。ま、そのせいであたしも結構苦労してんだけどさ」
「ええええええ……」
西ちゃんは腕を組んでしばらくの間何か考えているようだったが、突然「あ」と小さな声を上げて顔を上げた。
「ひょっとして、下北ン時のあいつって柴崎泰広本体じゃね? あのゲロ噴いてたヤツ」
「あ、そうだったかもね」
「そっか、あれが柴崎……」
再び考え込むようにブツブツと何か口の中で呟いていたが、何をかふっきったかのような明るい表情であたしを見つめ、大きく一つ頷いた。
「なるほど、だいたい分かった。ありがとなアヤカ」
西ちゃんから名前で呼ばれる度、心臓がビクンと跳ね上がる。
どんな形にしろ、あたしという存在を認識してもらっている。そんな気がして。
「……で、どうすんの?」
動揺を悟られないように目線を落とし、あえてキツイ調子で尋ねてみる。
西ちゃんはキョトンとした表情で首を右に傾けた。
「どうって?」
「あたしのこと、みんなにばらすんだよね?」
顔を上げ、西ちゃんの斜め後ろにたたずむ佐藤夏波に目線を移す。
「そんでケーサツに突き出すつもりなんでしょ」
「は? するわけないじゃん」
佐藤夏波はニガウリを十個くらい生食したような表情を浮かべながら肩を竦め、忌々しそうに吐き捨てた。
「西崎がそんなこと許すわけないっての。このイロキ〇ガイ野郎が」
「なにその偏見まみれの蔑称。博愛主義者と言ってくれよ博愛主義者と」
西ちゃんはさも心外とばかりに両手を広げると、あたしに顔を向けてにっこりと笑った。
「安心しなアヤカinシバサキヤスヒロ。おまえのことは取りあえず俺と夏波で止めとくから」
そう言うと笑いを収め、両手をズボンのポケットに突っ込んで独り言のように呟く。
「アヤカは大丈夫だとしても、柴崎本体は線が細そうだから。周囲を敵に回して道化を演じきる度胸はちょっとなさそうな気がするし」
そのまなざしに何かの感情が過ぎった気がして目を凝らした時、頭上で二度目のチャイムが鳴った。一時間目開始のチャイムだ。
西ちゃんはちらりと校舎に目を向けると、ポケットから両手を出した。
「ま、安心してスクールライフを満喫してよ。俺も安心しておまえといちゃつくからさ」
言いながら右手を差し伸べ、流れるような自然な動作であたしの顎を持ち上げる。
「今後ともヨ、ロ、シ、ク。アヤカちゃん♡」
語尾にハートマークを従えてささやくと、ほほ笑みを浮かべた顔をゆっくりと近づけてくる。
――え?
軽く顔を右に傾け、そのまま静かに目を閉じる。
――ええええええええええっ!?
視界の端で、佐藤夏波が苦笑まじりに肩を竦めた。
――ちょちょちょちょっと待って!
途端に、昨日のあの忌まわしい記憶がフラッシュバックし、思考が停止して、爆発的な勢いで鼓動が早まる。
【ちょっと何してんですか彩南さんっ、早く逃げて!】
クマるんのひっくり返った送信が脳に突き刺さるけど、ゴメン、体が動かない。声も出ない。
逃げ出したいんだけど、足が全然動かないんだよ、マジで。
近づいてくる黒い瞳と、頬をなでる微かな呼吸。
鼻孔を優しくくすぐる、ほのかなシトラスグリーンの香り。
ダメだ。もう限界。
耐え切れずに目を閉じた瞬間、頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなった。指先に何かが触れた気がしたけど、それが何なのか考える余裕もなかった。