37.あたしって何なんだろう
翌朝。
いつものように、朝の仕事を終えた柴崎泰広と交代して身支度を調えようと鏡を覗き込んだあたしの目に、ひび割れた瓶底眼鏡が映りこんだ。
全く、何でまだこんなのかけてんだか。
苦笑しつつ瓶底眼鏡をゴミ箱に捨て、棚に置かれていた新しい眼鏡を手に取った途端、クマるんの怒濤のような抗議の送信がこめかみを貫いてのけぞった。
【ちょっとちょっとちょっと何で捨てるんですか瓶底眼鏡でいいじゃないですかそんな眼鏡で登校したらあの変態に何されるか分かったもんじゃないってのに!】
洗面所の入り口でコンパクトな仁王立ちになり、楕円の腕を振り回すクマるんの姿がすすけた鏡の右隅に映っている。てか変態て。
「大丈夫だよ。あたし、何となく西ちゃんの扱い方は分かってきたし、佐藤夏波に面も割れちゃってるからつけても意味がないし、通学電車は下りだから痴漢されるほど混んでないし。瓶底眼鏡で行く理由がないじゃん」
取りあえず優しくなだめてみるも。
【何言ってんですか大ありですっ。交代の時どうすんですか! とにかく、そんな眼鏡かけるってんなら佐藤夏波が来ようが何だろうが僕は絶対交代なんかしないですからねっ】
キツイ送信にこめかみがジンジンして思わず顔をしかめる。噛みつかんばかりの勢いだ。全く、こういうところだけは妙に頑固なんだから。
そう。
今日から、あたしたちは交代を前提として登校するのだ。
原因は佐藤夏波。
この女がはっきり言ってあたしは苦手だ。てか嫌いだ。
この女と喋っていると感情が勝手にスパークして理性を押し流してしまうので、正直、いつまた昨日のような事態が起こらないとも限らない。そんなあたしの性向を考慮し、トラブルの種を増やさないために、今後は主にあたしが西ちゃん担当、柴崎泰広が佐藤夏波の担当になる。そういう結論に至ったのだ。
基本的には今までどおりあたしが学校生活の主要な部分を受け持つけれど、昨日のように佐藤夏波と関わり合わざるを得ない事態が生じた場合、柴崎泰広と交代してその場を収めてもらう。頭脳的な負けを認めるようで悔しいけれど、妙なプライドにこだわるほどあたしもバカじゃない。合理的に考えて、その方が確かに安心安全なのだ。
……と、昨夜相当時間をかけてその旨話し合い意見が一致したはずだったのに、クマるんは今更ながら往生際悪くブツブツ呟き続けている。
【だいたい、交代って言ったって本当に大丈夫なのかどうか……】
髪に軽くワックスを揉み込みながら、思わず肩を竦めた。
「大丈夫だよ。昨日はなんとか耐えられたじゃん」
【それはあの男が休みだったのと、瓶底眼鏡だったからですよっ。そんなガラス面がすっきりクリアな眼鏡であの男に相対したら、一時間だって耐える自信ないですっ】
「でもさあみっともないじゃんヒビの入った眼鏡なんて。いかにも金ありませんって宣伝して歩いてるみたいで」
【いいじゃないですか別にホントのことなんだから。だいたい、そう思われるのは僕であって彩南さんじゃないし】
クマるんは楕円の手を腰に当ててプリプリしながら吐き捨てる。
その言葉に、髪を整えていた手がふと止まった。
『僕であって彩南さんじゃない』
それは確かにそうなんだけど。
でもあたしの意識は今、この体の中にあるわけで。
そうすると、この体は紛れもなくあたしの体であるわけで。
でも鏡を見ると、やっぱりこの容れ物はあたしじゃなくてシバサキヤスヒロなわけで。
あたしって何なんだろう。
最近、この疑問がときどきふっと頭を過ぎる。
あたしの意識は未だ厳然と水谷彩南という女であって、もちろん柴崎泰広という男ではないし、シバサキヤスヒロという容れ物にそれが左右されるわけでもない。
でも、他人から見ればこれは柴崎泰広という男以外の何者でもなくて、あたしは容れ物に合わせた服装をし、髪形をし、ヒゲを整え、股の異物感とともに歩いている。
本当は可愛いワンピやサンダルで町を歩きたいのに。
髪だって、前みたいに背中に届くくらい長く伸ばしたいのに。
でも声を出せば周波数は明らかに低く、女だった時には微動だにしなかった瓶の蓋を軽々と開け、電車では網棚に余裕で手が届いてしまう。
あたしはシバサキヤスヒロであって、水谷彩南じゃないんだ。
水谷彩南はあの日、トラックに轢きつぶされて死んだんだ。
最近は、その事実に思い至るたびに何とも言えない寂寥感を覚えて、正直、戸惑いすら感じる。
死んですぐは、そんなことは思いもしなかった。
汚れきったあんな体なんか惜しくないって思ってたし、戻りたいとも思わなかった。取りあえず生きられればそれでいい、目的が果たせればそれでいいって思ってたはずだった。
それなのに、どうしてだろう。
水谷彩南の体が、なぜだかこんなにも懐かしい。
サラサラの長い髪と、目元ギリギリくらいで切りそろえた前髪。
ビューラーなんか使わなくても自然にカールしてた自慢の睫毛。
滅茶苦茶背が高かったわけじゃないけれど、それなりに均整がとれててメリハリのある体形に、去年のセールで見つけたあの白いワンピースとサンダル。今年の夏は絶対に着ようって思ってた。
そして。
そして、あたしは。
ふと目線を上げると、鏡に映る黒縁眼鏡の男がじっとあたしを見ていた。
シンプルなフレームに際だつ、切れ長の涼し気な瞳。
その瞳に見つめられるのがなぜだかやけに切なくて、慌てて目線を手元に移した。
「……分かったよ。どうせ解離性同一性障害の性犯罪者ってばらされてたら、他人との交流なんて不可能だしね」
ボソッと呟いた途端、瓶底眼鏡を拾い出そうとゴミ箱の中を覗き込んでいたクマるんは勢いよくあたしを見上げ、その拍子にバランスを崩してゴミ箱の中に墜落した。
☆☆☆
果たして、ひび割れた瓶底眼鏡で登校したあたしを待ち受けていたのは、冷ややかな視線と絶対的孤立……ではなく、いつもと全く変わりない、穏やかで明るい普段どおりのクラスの皆様だった。
そのあまりの平常運転に戸惑いつつ教室に入ったあたしに、窓際で数人の女子連中とたむろしていた佐藤夏波がチラリと鋭い視線を投げてきた。
あいつ、まだ喋ってないんだ。
てっきり昨日のうちに密告ラインがクラス中を駆け巡るだろうと予想していただけに、いくぶん拍子抜けしつつ、カバンを机の上に置く。
「おっはよー、しーばっさきー。元気? てかおまえ眼鏡にヒビ入ってんじゃん。どしたの?」
その途端に響いてきた、これまたいつもながらの屈託のない明るい声。
顔を上げると、机の前に某電気店のマークさながらニコニコ満開の西ちゃんが立っていた。
「……元気です。西崎さんこそ、昨日は大丈夫だったんですか?」
眼鏡の件をはぐらかす意図で儀礼的に聞いてみると、西ちゃんのニコニコ顔にぱっとまばゆい光が差した。
「え、ひょっとして気にかけてくれてたとか? マジで嬉しいんですけどw だいじょぶだいじょぶ。あんま寝れなかったから学校行く気力がなえてただけで」
やっぱり。そんなとこだろうと思った。
あいまいな笑みだけ返して支度を再開すると、そこで珍しく会話が途切れた。
机のわきに立つ西ちゃんは、カバンの中身を机の中にしまうあたしを高い位置からじっと見下ろしている。頭頂部にじんわりと視線を感じる。
筆箱をしまい終えた時、西ちゃんはおもむろに口を開いた。
「……ということで柴崎、ちょっといっしょに来てほしいんだけど」
先ほどまでの明るい雰囲気がウソのような、低く押し殺した声。
いやな予感を覚えつつ顔を上げると、あたしの頭上に突き刺さっていた西ちゃんの視線が、チラリと窓際の佐藤夏波に向けられた。
それが合図ででもあったかのように、佐藤夏波も窓枠にもたれていた体を起こす。
なるほど、そういうことか。
時計を見上げる。八時二〇分。あと一〇分で始業だ。いやな話は、時間に余裕がある時よりも、このくらいの短い時間でサラッと終わらせた方がいいのかもしれない。
「分かった」
立ち上がりつつ、机上のクマるん付き携帯を握りしめる。
申し訳ないけれど、今日は意外に交代が早いかもしれない。