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36.……あたしがいるから?

――ちょちょちょちょっと待って何言ってんのコイツ?


 思わず柴崎泰広の顔を見直すも、特に目だった表情の変化は見られない。

 佐藤夏波は、忌々し気に口の端をつり上げた。


「は? 何それ。どういう意味?」


 柴崎泰広は足元に落とした目線を上げずに言葉を継ぐ。


「言ったままの意味です。僕が犯罪者だと客観的な裁定がくだされれば、真摯しんしに償うのが当然ですから。あの件で僕が起訴されるとしたら、恐らく強制わいせつ罪ですね。ご自宅に同意なく侵入したわけではないので住居侵入罪にはあたらないですし、露骨な言い方ですみませんが、挿入につながる行為もしていないので強姦罪の適用も難しい」


 そう言うと柴崎泰広は顔を上げ、佐藤夏波を……正確には恐らく、彼女とおぼしき影をまっすぐに見据える。


「どうぞ、訴えてください」


「……なにそれ、ウザ」


 佐藤夏波は顔をしかめると、風に吹き散らされる茶色い髪をかき上げた。


「強制わいせつ罪は親告罪ですから、被害者からの申し立てありきです。弁護士を雇う金も示談金を支払う能力も僕にはありませんから、高い確率で罪状が確定して刑務所送りになるでしょう。執行猶予がつく可能性もありますが」


「それで構わないっての?」


「仕方がないです」


 柴崎泰広は神妙な面持ちで頷いた。


「あの時、僕は確かに軽率でした。いくら腹が立ったとはいえ、感情にまかせてあんなマネをすれば、訴えられても何も文句は言えません」


 ……う。悪かったね軽率で。

 でもまあそのせいでこんな面倒くさいことになってるわけだから、あたしも文句は言えない。


「キモすぎ」


 佐藤夏波は吐き捨てると、鼻に思い切り皺を寄せた。


「マジで訴えたくなってきた」


「どうぞ訴えてください」


 柴崎泰広は淡々と言葉を続ける。


「訴訟には相当の手間と時間と労力が必要ですし、弁護士費用など何らかの初期費用も発生するでしょうし、自分の身に起きたことを白日の下に晒すわけですから精神的苦痛も相当なものでしょう。過分な負担をかけてしてしまうわけで、佐藤さんには大変申し訳ないですが」


 佐藤夏波は不快そうに頬をひきつらせると、柴崎泰広を睨みつけた。


「……脅してんの?」


「まさか。ただの事実ですよ」


 その視線に応えるように、柴崎泰広は顔を上げ、真っすぐに佐藤夏波を見た。

 切れ長の目から注がれる、静かな気迫のみなぎる射貫くようなまなざし。

 なんだか知らないけど、背筋がゾクッとした。

 体毛が生えていたら、腕一面に鳥肌が立ったかもしれない。

 さすがの佐藤夏波も、柴崎泰広をにらみ据えたまま、凍り付いたように動きを止めている。 


「僕のことは気にしなくていいですから、好きな時に訴えてください」


「……いい度胸ね」


「度胸なんかないですよ。滅茶苦茶気が弱いです」


「この状況でこんだけ挑発しまくっといて、気が弱いとかよく言うね」


「そんなつもりもないんですが」


「だいたい、気が弱い人間に、あんな強姦まがいの暴力行為ができるわけが」


「あれは僕の別人格で」


「……別人格?」


 へ!?

 ちょちょちょちょっと待って何言ってんの柴崎泰広!?


「僕、二重人格なんですよ」


 あたしの焦りなどどこ吹く風で、柴崎泰広はさらりとそう言ってのけた。


「ときどきもう一人の自分が表に出てきて、勝手なことをやらかすんです。佐藤さんにひどいことをしたのも、そいつです」


 おいおい……って、まあ確かにそのとおりだから何も反論できないんだけど。

 佐藤夏波の目に、恐怖に似た色が走った。が、表面的にはおくびにも出さず、バカにしきった冷笑を浮かべて鼻で嗤ってみせる。


「ふーん……解離性同一性障害騙って、自分は関係ないって言いたいんだ」


「そうじゃないです。あれも僕ですし。それに……」


「それに?」


「あの時、あいつがああいう行動に出た気持ちは、僕も少しだけ分かりますから」


 佐藤夏波は眉根を寄せ、探るような目で柴崎泰広を見やる。


「どういう気持ちだっての?」


「え? ……たぶん、羨ましかったんじゃないかな」


「羨ましい?」


「ええ」


 柴崎泰広は頷くと、少しだけ遠い目をした。


「あいつも僕も、父親いないんで」


 佐藤夏波は黙りこんだ。

 黙りこんで、じっと柴崎泰広を見ている。

 あたしは心臓なんかあるわけもないのに胸のあたりがドキドキするような気がして――多分肉体があった時の記憶がそうさせているんだろうけど――、楕円の腕で胸を押さえたくても尻と金網に挟まれた状態では動きようもなくて、呼吸もしていないくせに息苦しいような気さえしてきて。

 柴崎泰広は、硬い表情で黙り込んでいる佐藤夏波を安心させるように付け加えた。


「あ、別に怖がらなくても大丈夫ですよ。あの時はあんなでしたけど、あいつ、基本的にはいいヤツなんで」


 佐藤夏波はそんな柴崎泰広に、探るようなまなざしを向ける。


「……そんな際どいこと、ばらしちゃっていいわけ? クラスの連中に知られたら、速攻でハブられると思うけど」


「構わないです。どうせ逮捕されるんでしょうし」


 柴崎泰広は吹っ切れたような笑顔を浮かべた。


「僕は一人でいる方がいいんです。西崎さんにも言ってください。僕は多重人格障害者で危険だから近づかない方がいいって」


 やけに明るい調子でそう言った時、頭上に、午後の授業開始のチャイムが響き渡った。


「あ、授業始まりましたね。行ってください」


「……あんたはどうするの?」


「これ片付けなきゃいけないんで、もうしばらくここにいます」


 そう言って、コンクリート上にぶちまけられた弁当に目を向ける。


「基本的に僕、眼鏡がないとあんまり動けないんで」


 佐藤夏波は、たどたどしい動きでこぼれたおかずを拾い集める柴崎泰広を黙って見下ろしていたが、やがてゆっくりと踵を返すと、屋上階段の入口に消えた。

 扉が閉まる音が響き、佐藤夏波がいなくなったのを確認すると、柴崎泰広はケツポケに手を突っ込んであたしつき携帯を手に取った。


【……柴崎泰広】


「ゴメン、彩南さん」


 いきなり謝られた。

 キョトンとしているあたしに頭を下げると、柴崎泰広は決まり悪そうに笑った。


「あんなことを言っておきながら、僕の方が深い穴掘ってしまった」


【いいよもう】


 あたしも、苦笑めいた笑みを送信に込めて肩をすくめる。


【あの言い方なら三途の川のことはばれなてないだろうし、もとはと言えばあたしがまいた種なんだし。ていうか、あたしの方こそ、ゴメン】


「彩南さんは悪くないです」


 眼鏡なしの柴崎泰広のまなざしが、何だかやけに優しく感じられる。


「運が悪かっただけで」


【……そうだね。あたしたち、マジで運が悪いかも】


 弁当の拾い集めを再開するのか、柴崎泰広は携帯をケツポケに突っ込むと、見えにくそうに目を細めた。


【ねえ、あいつ訴えるかな】


「さあ……一応、訴えることのマイナスについても言ってはみたんですけど、まあ、五分五分ですかね」


【それにしてもさ、あんた法律とかやけに詳しくない? びっくりした……って、卵焼き踏むよ】


 柴崎泰広はたたらを踏むようにして卵焼きを避けた。


「僕の父親って、もともとは弁護士だったらしいんです。それで、あの家にも六法全書とか置いてあって、暇なときに何となく読んで知ってたもんだから」


 唐揚げを拾い上げつつ、うろ覚えですけどと言って笑う。


【あれ? でも、事業に失敗したとか言ってなかったっけ……あ、そこにカボチャ転がってるよ】


「弁護士業の傍ら、事業に手を出して失敗したって母親には聞いてるんですけど、何かヘンな話なんですよね。事業に失敗したわりにはあんなんでも持ち家はちゃんと残ってるし、借金取りに追い回された経験もないし……もしかしたら、母親がうまく回避してくれていたのかもしれないですけど、そんな器用なことができる人だった気もしなくて」


 カボチャを拾い上げると、柴崎泰広はグルリと周囲を見回した。


「全部拾えました?」


【うん。多分OK】


 弁当を包み直すと、柴崎泰広は小さくため息をついてそれを傍らに置き、金網にもたれて足を投げ出した。


「……何か、どっと疲れましたね」


【うん、疲れた。でもまあ、たいへんなのはこれからだけどね。もしあの女に訴えられて刑務所送りになったら、見知らぬ男どもとの共同生活が待ってるわけだから】


 その言葉を聞いた途端、柴崎泰広は上体を跳ね上げ、顔面蒼白で固まった。


「……確かにそうだ。考えてなかった」


【何それ? あたしてっきり、そういうことも覚悟した上でああいう発言してたんだと思ってた】


 法律を振りかざして佐藤夏波に対抗してみせたさっきの姿と、頭を抱えてうめいている情けない今の姿の隔たりがおかしくて、ついクスクス笑ってしまった。全く、あんたも佐藤夏波に負けず劣らずギャップありすぎだっての。


【大丈夫だよ柴崎泰広。あたしがついてるじゃん】


 柴崎泰広はユルユルと顔を上げると、誇らしげに胸をはるあたしを疑わしそうな目つきでじとっと見た。


「……彩南さんはあんまりあてにならない気が」


【何を言う。確かに頭のよろしい方の扱いは苦手かもしんないけど、ごろつきの扱いには慣れてるもん】


「そんなこと言って、またドツボにはまりそうな気が」


 ……どうやら、すっかり信用を失ってしまったらしい。


【まあ確かに、最終手段の強攻策も佐藤夏波に読まれてたわけだし、あたしじゃ頼りになんないか】


 珍しく自信なくした。重力に引かれるままにガックリとうなだれる。

 柴崎泰広は顔を上げて、うなだれているあたしをじっと見つめた。頭頂部に感じる視線が心なしか温かい。


「でも僕、一つだけすごく驚いてることがあって」


【何? あたしが強姦しようとしたこと?】


「いや、それもすんごい驚いたんですけど、……今回、かなりの窮地ですよね、僕ら」


【まあね。フツーの高校生なら自殺もんかも】


「ですよね。なのに僕、全然死のうという気にならなかった」


 重い頭を起こして柴崎泰広を見た。

 柴崎泰広は切れ長の目を優しく細め、あたしをゆったりと見つめている。

 いやなにちょっと待ってその表情ヤバいって。


「それって一人じゃないからなんですよね、多分」


 一人じゃないから。

 ……あたしがいるから?


 編みぐるみでよかった。

 じゃなきゃ、きっととんでもない顔をしてる。

 編みぐるみには表情なんかないって分かっていながら、それでも柴崎泰広の視線が受け止めきれなくて、あわててうつむいて目線をそらした、その時。

 金属の軋む高い音が響いた。屋上階段出入り口の扉が開いたらしい。

 あたしは即座に柴崎泰広の膝の上に寝っ転がり、柴崎泰広も慌ててそちらに顔を向ける。とはいえ、〇.〇三の視力では何を視認できるわけでもない。必死で目を細めながら小声で問いかけてきた。

 

「……誰だろ。彩南さん、見えます?」


【ごめん、仰向けで寝っ転がっちゃったから見えない。さりげなく顔をそっちに向けてくれる?】


 柴崎泰広の手が、あたしの体を出入り口の方に向け直した、そのとき。

 片側にヒビの入った分厚いレンズが、その厚みとは不釣り合いなほど弱々しい金属フレームとともに、重い音を立ててあたしの目の前に降ってきた。

 

【うわ! なにコレ、……って、瓶底眼鏡?】


 視界にうつり込むすらりとした足の存在に気がついて、慌てて語尾をのみこむ。


――この足って、まさか。


 柴崎泰広は、突如として膝の上に降ってきた瓶底眼鏡を戸惑ったように見つめてから、おずおずと手を伸ばしてそれをかけた。ツルが歪んでたわみ、左目のレンズに大きなヒビが入って、いつもの三割り増しくらい情けない風貌になった顔をあげ、目の前に立つ人物を見て……機能停止する。

 そこに立っていたのは、教室に戻ったはずの佐藤夏波だった。

 無言で見つめ合うあたしたちの間を、若葉の香りをのせた風が吹き抜ける。

 ややあって、柴崎泰広がおずおずと問いかけの言葉を発した。 


「……どうして」


「それがないと歩けないんでしょ」


 佐藤夏波は突っ慳貪に吐き捨てると、肩をすくめた。

 

「木に引っかかってたからとるのがたいへんだった。そのおかげでレンズが割れなかったんだろうけど。ヒビくらいはガマンしてよね」


 そう言うとくるりと踵を返し、右手を軽く挙げる。 


「じゃ」


 翻るスカートの裾が、砂と泥で白っぽく汚れていた。


「佐藤さん」


 チラリと目線を後ろに流した佐藤夏波に、柴崎泰広は頭を下げた。


「……ありがとう」


「礼を言われる筋合いなんかないんだけど」


 吐き捨てると、佐藤夏波はそのまま振り返りもせず出入り口方向に歩き去った。


【……いやあ驚いたね、柴崎泰広】


 完全に姿が見えなくなったのを見計らって声をかけるも、柴崎泰広はレンズにヒビの入った情けない眼鏡に陽光を白く反射させながら、ふぬけのように出入り口の扉を見つめている。

 何だか知らないけどムカついたので腹に一発蹴りを入れると、たいした威力もないはずなのに「お」とか何とか言いつつ大げさに体を折り曲げた。


「な……何すんですかいきなり!」


【大げさな。ボーっとしすぎだっての】   


「え? ……いや、だって、おかしいじゃないですかこんなの。なにかたくらんでるとしか思えないんですけど、それが何なのか全然わからなくて」


【それはあたしにもよく分かんないけどさ】


 佐藤夏波が消えた出入り口に、もう一度目を向ける。


【いやな予感がするのは確かかもね】


 柴崎泰広は表情を凍らせた。


「いやな予感て……通報以外にも、なにか策を弄してくるってことですか」


【ううん、そうじゃない】


 それは多分、もう大丈夫。

 楕円の腕を組み、錆び付いて茶色っぽくなった屋上出入り口の扉をにらむ。


【あいつツンデレ系だし、あたしと結構キャラかぶってるんだよな】


「は?」


 発言の意図がつかめないらしく、柴崎泰広は眉根を寄せて首をかしげた。

 全く、鈍いねえ男って。

 ま、気づかないなら気づかないでも別にいいけど。


【まあ、あんな女のことなんかより、やらなきゃならないことはめじろ押しだしね。とりあえず目下の最大目標は、あんたの状態で午後の授業をなんとか無事に乗り切ること、かな】  

 

 冷酷な現実を認識した途端、柴崎泰広の顔から音を立てて血の気が引いた。 

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