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34.超マジむかついてんの

 ふと気がつくと、佐藤夏波が探るような目であたしを見ていることが多い。

 あたしと目が合うと視線を逸らして距離をとるけれど、そのうちにまた半径三メートル以内くらいの至近距離に近づいてきて、西ちゃんとあたしの会話にじっと聞き耳をたてている。

 疑われてる気は、する。

 でもまあ、こちらから何をどうすることもできない以上、様子を見るしかない。表だって詰問してくる様子はないし、このまま小康状態を保ってくれていれば、そのうちに飽きてほとぼりが冷めるかもしれない。

 などと楽観的に考えながら、数日が経過したある日。


 鬼の霍乱かくらんか、今日は西ちゃんが珍しく学校を休んだ。頭痛とのことだったので、おおかた夜中にやっていたサッカーの試合でも見て、寝不足にでもなったんだと思う。

 ということで、今日は声をかけてくれる相手がいない。それまでの生活の中で移動教室の場所であるとか、授業形態であるとか、細々した動き方もだいたい理解できていたし、西ちゃんつながりで声をかけてくれる男子もいたので、それでも特に問題なく午前中の活動を終えることができた。

 昼食時もお誘いをかけてくれる男子はいたけれど、弁当組ではなく購買組のみなさんだったので、お気持ちだけありがたく受け取って丁重にお断りさせていただくと、クマるんが意外そうな送信をよこした。


【いいんですか? 一人で】


「たまにはね。クマるんもその方がいいんじゃないの?」


【……まあ、そうですね】


 クマるんはそこはかとなく嬉しそうな送信をよこした。


「じゃ、あんたの作った弁当をいただきますか。最近は結構、作るの速くなってきたよね」


【そうですか? まあ、残り物中心に詰めてるだけですからね】


「別にそれで全然OKだって。節約できて腹も膨れるなら文句ないよ」


 コソコソ喋りつつカバンから弁当を取り出していると、机の前に誰かが立った。

 胸騒ぎめいた予感を覚えつつ、ゆっくりと視線を上げる。

 グレンチェックのスカートと、すらりと伸びる細い足。丘陵状に膨らんだ白いベストと、きゃしゃな肩にかかる茶色い髪。尖り気味の顎。グロスの塗られた桜色の唇。通った鼻筋。大きな二重の目を彩る、薄くマスカラの塗られた長い睫毛。バランスよくカーブした眉と、適度な広さの白い額。

 悔しいけど、素材的なレベルはかなり高い。惜しむらくは、化粧にしろ髪形にしろ、ありきたりで無難すぎるために、どこか無個性な印象を相手に与えてしまっているところか。

 ……なあんて、のんきに佐藤夏波の外見チェックしてる場合じゃなかった。


「柴崎泰広、だっけ」


 無感情で冷たい、でもよく響いて通る声。 


「そうです」


 佐藤夏波は冷然とあたしを見下ろしながら、手にしていた包みを誇示するかのように胸の辺りに持ち上げた。


「よかったら、お弁当一緒に食べない?」


 やはりそうきたか。


「遠慮しときます」


「何で?」


「一人で食べたい気分なので」


「切り替えてよそんな気分」


「無理です」


「あたしは今日、どうしてもあんたと食べたい気分なんだけど」


「それは正直知ったこっちゃないです」


「無慈悲すぎて草」


 佐藤夏波は空席に腰を下ろすと頬づえをつき、上目遣いにあたしを見た。


「穏便に済ませてやってもいいと思ってるのに」


 その凍るような視線を受け止めつつ、できるだけ平静を装って言葉を返す。


「何のことですか?」


「言っちゃっていいの? こんなところで」


 佐藤夏波はイタズラっぽい笑みを浮かべながら、上目遣いにあたしを見ている。

 顔だけ見ている分には、女のあたしから見てもかなりかわいい。これにやられちゃう男は少なくないだろうな。西ちゃんもその一人だったんだろうか。

 ……なんて内心はおくびにも出さず、バカにしたように鼻で嗤ってみせる。


「仰る意味がよく分かりません」


「ふーん……」

 

 あたしが不遜な態度をとり続けているせいだろう、佐藤夏波はいまいまし気に口の端をゆがめて言葉を切った。


【……彩南さん】


 クマるんの不安そうな送信が届いた。

 大丈夫。何とかする。

 大っぴらに喋りかける訳にはいかないので、小さく頷いてそれに応える。


「教えてあげようか?」


 ふいに、佐藤夏波が口を開いた。

 鋭いまなざしであたしを射すくめつつ、でも顔の下半分で笑いながら言葉を継ぐ。

 

教室ここで教えてあげるのと、静かなところで教えてあげるの、どっちがいい?」


 眼球だけを動かして、教室内を見渡してみる。

 四、五人のグループが五つほど、互いのテリトリーを犯さない程度の微妙な距離感を保ちつつ、穏やかに昼食タイムを楽しんでいる。こんなところで話されたら、内容を聞かれるのは必至だ。


「どっちも嫌です」


「あっそ。なら、職員室で教師相手に話してくるかな」


 刃物のように鋭い目で脅迫めいた言葉を吐きつつも、顔の下半分では天使という形容がまさにぴったりのほほ笑みを浮かべている佐藤夏波。見るからに剣呑なその表情に、これ以上シラを切り通すのは危険だと直感がささやく。仕方がない。

 

「……静かなところって、どこですか?」


 不安げなクマるんつき携帯をケツポケにねじ込み、弁当を包み直しながら問いかけると、佐藤夏波は勝ちほこったような笑みを浮かべ、おもむろに人差し指を一本、顔の脇に立てててみせた。


「屋上」



☆☆☆



 屋上の乾いたコンクリートは、突き刺すような五月の日差しを反射して白く輝いて見えた。

 眼下には大きな河がゆったりと流れ、色とりどりの屋根が並ぶ比較的平べったい風景が、はるか遠く、霞んだ空の下あたりまで広がっている。

 若葉の香りをのせた風に茶色い髪を吹き散らされながら、佐藤夏波は屋上の突き当たりを目指して歩く。あたしもその後ろを、規則的に踏み出される爪先を見つめながら黙ってついていく。

 ケツポケのクマるんが、おずおずと送信をよこしてきた。


【……どうするつもりですか、彩南さん】


「ん? ……そーだなあ。どうするも何も、こうなった以上、成り行きに任せるしかないかな」


【成り行きって……そんな適当な】


「適当に言ってるわけでもないんだけどね。まずは、あの女の話を聞いてみないことにはどうしようもないから」


 それに。

 前をゆく佐藤夏波の、風に吹き上げられるたび見えそうで見えない絶妙なラインまでめくれ上がるスカートを眺めやりながら、思い返す。


『突然お伺いして申し訳ありません。僕、柴崎泰広という者です』


 あの時あたしは、本名を名乗った。もうこれきり会わなくなる相手だから、別に構わないだろうと高をくくっていた。

 その時に告げた名前を佐藤夏波が覚えていたとしたら、逃げようがない。すぐさま警察に突き出されたとしても、なにも文句は言えない。

 でも彼女はそうはせず、あたしをこんなところに呼び出した。


「たぶん、あっちも確信が持ててるわけじゃないんと思うんだ。だから、すぐさまどうこうってことはないんじゃないかな。とにかく、この場はあたしが責任持って何とかするよ。あたしがまいた種だしね。クマるんは黙って見てて」 


 確たる自信がある訳じゃないけど、自分のまいた種は自分で刈り取らねば。

 佐藤夏波の足が、屋上を仕切る防護柵に進路を阻まれて止まった。

 眼下に広がる風景を眺めているのか、佐藤夏波は向こうを向いたままで動かない。強い風に煽られて、茶色い髪が自由気ままに踊っている。

 腕時計に目線を走らせる。昼食休憩終了まではあと二十分。別の話題で気をそらしているうちにチャイムが鳴ってくれれば、取りあえずはこちらの勝ちだ。佐藤夏波があの日の出来事について語り出す前に、どうにかして思考を別の方向に向けることができれば、まだ勝機はある。

 唾を飲み込みイガつく喉を潤してから、おもむろに口を開いた。


「西崎さんって、おもしろい人ですね」


 佐藤夏波は少しだけ首を巡らせ、横目でちらりとあたしを見た。


「バイだとか思いっ切り公言してるし、やたら明るいし、授業態度は滅茶苦茶だし。かと思うと、提出物や課題はパーフェクトに仕上げてくるし」


 佐藤夏波は、無言で手にしていたお弁当を足元に置いた。

 風に煽られて狂ったようにはためくスカートの隙間から、かがみ込んだ拍子にちらりと白いものがのぞく。そういう時は手で押さえろよと思いつつ、感情を煽るように鼻で嗤ってみせる。


「つき合ってたって、……マジですか?」


 佐藤夏波は、防護柵のフェンスに細く長い指を絡めた。


「告られたってことですか? よくOKしましたね」


「告ったのはあたし」


 遠く流れる河のきらめきに目を向けたまま、佐藤夏波はポツリと口を開いた。


「一年の一学期、丸刈りの眼鏡男だったあいつに」


 右手をポケットに突っ込むと、何やら黒っぽいものを取り出して顔のあたりにあてがう。それが何なのか気にはなったが、体の影に隠れてよく見えなかった。


「あいつ、男として……というより人間として、かなりレベル高いと思うよ」


 言いながら、佐藤夏波はゆっくりとこちらに向き直った。


「だから、あんた、ラッキーなんだよ」


 その顔を目にした瞬間。思わず呼吸が止まった。心臓が凍りついた気がした。

 天使のようなほほ笑みを浮かべる佐藤夏波の目元には、私物だろうか、シンプルな黒縁の伊達眼鏡がかけられていたのだ。

 胸が抑えつけられる気がして、呼吸が浅く速くなる。


「OKしちゃえばいいじゃん、柴崎泰広」


 佐藤夏波は眼鏡の奥にある眼に刃物のような鋭い光をたたえ、顔の下半分で笑いながら、ゆっくりと歩を進めてくる。


「……そういうわけには、いかないでしょ」


 押し寄せてくる威圧感に耐えきれず、思わず一歩あとじさってしまった。


「自分はノーマルだって言いたいの?」


 背中が防護柵に当たり、煤けた固い音が静かな屋上に控えめに響く。走って逃げようにも、屋上の突き当たりに少し張り出して作られたこの一角に、逃げ場はない。


「親の留守中に人ン家入り込んで、ハッタリかまして強姦まがいのことをやらかす人間が、ノーマルだっていうの?」


 佐藤夏波は獲物を追い詰める肉食獣さながら、大きな瞳で射すくめるようにあたしを見据えている。


「ノーマルって何なのよ」


 その瞳に吸い寄せられてしまったように、あたしは目を逸らすことができない。


「あたしから言わしてもらえば、西崎の方があんたなんかよりはるかにノーマルなんだよ、バーカ」


 白いブラウスに包まれた細い腕が、あたしの顔に向かって伸びてくる。

 ヤバい。けど、動けない。

 恐怖にすくんで凍りついたあたしの脳を、クマるんの張り詰めた送信が貫いたのは、その時だった。


【彩南さん、眼鏡取られる! 逃げて!】


 その送信でハッとわれに返ると同時に、四肢に脳からの指令が伝達され、体が動いた。慌てて顔をそむけて腰をかがめ、横合いからの脱出を図ろうと足を踏み出す。

 刹那。

 佐藤夏波の手が、見た目からは想像もできないような力強さで、逃げ出そうとするあたしの肩をつかんだ。そのまま流れるような動きであたしの眼前に回り込むと、ハッとする間もなく、開きかけたあたしの口をその可憐な唇で塞ぐ。


――⁉


 何が起きたのか分からなかった。

 手から滑り落ちた弁当箱が床と衝突して乾いた音をたて、中から飛び出した卵焼きや唐揚げが、屋上のコンクリートを色とりどりに彩る。


 きつく押しつけられてくる、温かく湿った感触。

 鼻孔をくすぐる、甘く優しい香り。

 頬をなでる、なめらかで柔らかな触感。

 それが何なのか確認する暇もなく、熱く濡れた柔らかな塊が、唇を押し開いて侵入してくる。 


 予想だにしていなかった展開に、あたしの脳がスパークして機能停止に陥っている間に、佐藤夏波は何の苦もなくあたしの瓶底眼鏡を取り去り、代わりに自分のかけていたスタイリッシュな伊達眼鏡をかけて、そこでようやく唇を離した。

 伊達眼鏡をかけてぼうぜんと機能停止しているあたしの顔を満足そうに眺めやり、濡れた赤い舌をちらりと出して唇をなめる。


「やっぱりあんた、あの時の男じゃん」


 手にしている瓶底眼鏡をもてあそびながら、バカにしたように鼻で嗤う。


「キモい眼鏡かけて変装してもムダなんだよ、住居不法侵入および強姦未遂の犯罪者」


 絶望に崩れ落ちそうになりながら、あたしは防護柵に体をもたれて何とか立位を保った。


――やられた。


 完全に、虚を突かれた。

 あたしとしたことが、よりによってこんな女にシバサキヤスヒロの唇を奪われるなんて。

 しかも、十中八九ファーストキスだ。

 訳の分からない怒りが腹の底からわき上がってきて、どす黒い感情が正常な思考の流れを阻害し始める。

 絞り出した声は、やけに低くかすれていた。


「……だとしたら、どうする?」


「そーだな……」


 楽しげに呟きつつ、瓶底眼鏡をかけてみたのか「うわヤバ、きっつ!」などと無邪気な声を上げてはしゃいでいる、佐藤夏波。

 その勝ち誇った嬌声を聞き流しながら、柵にもたれていた体を起こす。 


 この女、バカだ。

 危機管理能力低すぎ。

 あえてこんな危険な相手と二人きりになる状況を自分から作るなんて。

 このあたしを怒らせて、無事でいられるとは思うなよ。


 でもまあ、肉体の所有者に了解は取っておかねば。眼鏡片手にはしゃいでいる佐藤夏波の影を視界の端に捉えつつ、小声でクマるんに問いかける。


「……クマるん、愚問だとは思うけど、あんた女とヤッたことある?」


【え?】


 唐突な問いかけに、クマるんはなんのことやら全くわからなかったらしい。しばしの沈黙のあと、素っ頓狂で裏返りまくった送信が届いた。


【なななななななな何いきなり聞いてんですかそそそそそんなもんある訳ないじゃないですか】


「だろうね。じゃ、悪いけど、これから童貞喪失するんでヨロ」


【はああ!?】


 ビーズの目玉が吹っ飛びそうな勢いで叫んでから、今度はおろおろと問いかけてくる。


【ちょちょちょちょっと待ってなに言ってんですか訳わかんないですよいったい何するつもりなんですか彩南さ……】


 何に思い当たったのか、送信がプツリと途切れる。


【……って、まさか】 


「うん。そのまさか」


 クマるんはビーズの目玉をあたしに向けたまま、完全に機能停止した。


「悪いけど、今あたし超マジむかついてんの。このあたしを一瞬でもビビらせるとか、冗談じゃねえよ。敬語使って下手に出てりゃいい気になりやがって……男の体利用してでも目にもの見せてやらないと気がすまない。あいつがキスなら、あたしはそれ以上のことをやってやる」


 なんだか無性に腹が立って仕方がなかった。公序良俗に反するとか、このあとまずい状況に陥るとか、そんなことに気を使ってられる余裕もない。この腹立ちをなんとかして収めないと、脳血管がブチ切れて気が狂いそうだった。


【だ……ダメです彩南さん、そんな、何の意味もない、罪の上塗りするようなマネ】


 押し殺したような送信は、心なしか少し震えていた。


「あたし的には、意味は十二分にある。だってさ、このまま何もしなくたって、あの女に訴えられてケーサツに突き出されてブタ箱に放り込まれたら同じことなんだよ? どうせつかまるんだったら、やられた分のお返しくらいはしておかないと気がすまない」


【……突き出されても仕方ないです。やったことは事実なんだから】


「あーあーはいはい、クソがつくくらいお利口さんですね。あんたって案外お育ちがよかったんじゃないの? わるいけど、あたしはゲロ以下のお育ちだからさ、好きなようにやらしてもらうよ」


 これ以上構ってられない。強引に話を打ち切って、佐藤夏波の方に足を踏み出す。

 ケツポケのクマるんが大きく揺れた。

 同時に、後ろに振ったあたしの右手に、何かがしがみつく気配。

 ハッと目線を流すと、視界に、楕円の腕であたしの指に必死でぶら下がっているクマるんの姿が映り込んだ。

 クマるんの黒い目玉が、日差しを反射してキラリと光る。


――こいつ、まさか。


 慌てて振り払おうと、右手を差し上げた、刹那。


【絶対にダメですっ】


 たたきつけるような送信とともに強引に侵入してきた柴崎泰広の意識に押し出されて、あたしの意識はあっけなくクマるんの中へと滑り込んだ。

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