33.……OKってあんた
【まずいですね……】
「まずいよねえ……」
クマるんと顔を見合わせて同時に呟き、肩を落としてため息を漏らす。
黒板に背を向けて座っていたため、斜め前に座る一般的女子……佐藤夏波の存在に気づいていなかったクマるんに、先ほどそっと体の向きを変えてその存在を知らせたところ、クマるんは授業中にもかかわらず驚愕に仰け反り、反動で机から落っこちてしまった。つられて一緒に落ちた携帯の画面が割れたかと思って焦ったけど、何とか壊れないでくれてほっとした。
それにしても。
【気づきましたかね、彼女】
「いや、瓶底眼鏡してるから大丈夫とは思うんだけど、……さっき結構じろじろ見られてたし、正直分かんない」
気づかれていたとしたらヤバすぎる。あの時は結構やりたい放題やっちゃったけど、よくよく考えたら警察に突き出されても文句が言えないくらいのことをしているわけで。
「……もしかしたら、あんたを前科者にしてしまうかもしれないね。今のうちに謝っとくよ。ごめんクマるん」
クマるんは黄土色の編み目が青く変色する勢いでブンブン首を振った。
【じょじょじょじょ冗談じゃないですって。ここは何とかシラきり通すしかないですよ。とにかく何を聞かれても、知らぬ存ぜぬで通してくださいっ】
「もちろんやってはみるけど……女ってカンがいいからなぁ」
特にあの女。自宅で見せたあの険悪な態度と、学校で見せるにこやかな笑顔とのあまりにも激しすぎる落差。一筋縄ではいかないタイプだ。
あれこれ考えつつ、カバンから今朝方大騒ぎしながら作った弁当を机の上に出す。
「しーばっさきー。やったあおまえも弁当派? 一緒食おうぜ一緒」
途端に窓際方向から、ハートマークをセリフ一面にちりばめたような西ちゃんの声が響いてきた。
「……いいけど」
取りあえず申し出はありがたいので、素直に受けることにする。
決まった友人もなく、さりとて自分から働きかけるのも億劫なあたしにとって、西ちゃんのような存在は結構ありがたい。
別に一人が苦痛な訳じゃない。一人でいる方が気楽だし、自分の好きなように時間も使えるので、実は一人の方が好きだったりする。
ただ、不登校あけでクラスの人々に自分という人間を全く理解されていないシバサキヤスヒロにとって、一人でいるのは結構危険だ。孤独にボソボソと弁当を食べるシバサキヤスヒロを見て、クラスの方々は手前勝手な想像を膨らませ、先入観バリバリのレッテルを貼るからだ。いったん貼られたマイナスのレッテルを貼り替えるのは容易なことではない。どころか、雪だるま式にレッテルが増え、イジメその他、望ましくない方向に発展する可能性だってあり得る。
あたしは「水谷彩南」だった頃も不承不承ながら最低限の交流は保ってきた。とはいえ、女同士のそうした交流ほど面倒くさいものはなく、それと比べれば、西ちゃんは自分から好意を寄せてきてくれるわけだし、必要以上に気を遣う必要もない。「好意」が「行為」に発展しないよう注意すればいいだけなので、ある意味気楽なのだ。
そんな思惑もあって西ちゃんの申し出を受けたのだけれど、クマるんはどうもそれが気にくわないらしい。西ちゃんに頷き返した途端、嵐のような抗議の送信を送りつけてきた。
【えええええまたあの男と一緒? やですよ鬱陶しい。一人で食べましょ一人で】
「しょうがないじゃん友だちから始めるって宣言してるわけだし。ガマンしてよ取りあえず」
【女の子とつるんだらどうですか? 僕的にはその方がありがたいんですけど】
「不登校あけの人間がいきなり話しかけたって引かれるだけだよ。まずはクラス内の地位を固めないと女の子と話すなんて無理だって。第一あんた、このキモオタ眼鏡姿だし」
【じゃ、弁当の時だけでも取りますか?】
「いやいやいや、何言ってんの、佐藤とかいうあの女に顔見られたら終わりじゃん……てか、あんたそこまで西ちゃんを避けたい訳?」
【避けたいですそこまで】
「ガマンしてガマン」
しつこく食い下がってくるクマるんを一言のもとに切り捨てた時、弁当を手にした西ちゃんが向かい側の空いている席に腰を下ろした。机に載っていたあたしのお弁当を覗き込み、大げさに目をまるくしてみせる。
「何これ柴崎のウインナー黒っ」
「仕方ないじゃん焦がしたんだから」
「焦がしたって……何? おまえ、弁当自分で作ってんの?」
おにぎりを口に運びながら無言で頷くと、西ちゃんは弁当の蓋を開けながらただでさえ大きな目をより一層見開いた。
「へええええ意外。おまえって見た目は温室育ちのお坊ちゃまって感じだけど、結構自立してんだ」
自立も何も。生活費自分で稼いでるし。
ますます気に入ったなあとか何とかいいながら彩りよくおかずの詰まった弁当を食べ始めた西ちゃんの頭に、影が差した。通路脇に誰かが立ったらしい。
何気なくその人物を見上げて、食べていたお握りのご飯が喉に詰まりそうになった。
西ちゃんは唐揚げを口に放り込みながら、訝しげに眉根を寄せる。
「なに? 夏波。何か用?」
通路に立つ人物……佐藤夏波は、硬い表情で弁当をかき込む西ちゃんを見下ろしていたが、ややあって、おもむろに口を開いた。
「西崎、……こいつ、誰?」
ほうれん草のソテーを口に溜め込んだまま、ドキッとして思わず動きが止まる。
ヤバい。ヤバすぎるマジで。
西ちゃんはそんなあたしの内心など知る由もなく、「ああ」と何気ない調子で頷いた。
「誰とはごあいさつだなー。コイツは柴崎。四月からこのクラスに在籍してた、純然たる僕たち私たちのクラスメートだって」
三日しか登校してなかったけどなと付け足しつつ、弁当箱の隅に口を当てて残りのご飯を一気にかき込む。
「……クラスメート?」
佐藤夏波の視線が、西ちゃんからゆっくりとこちらに移動して来た。
慌てて下を向き、背中を丸めて弁当箱に覆い被さる。
佐藤夏波は、そんなあたしを探るような目で見下ろしながら、ご飯をかき込む西ちゃんに短く問う。
「名前は?」
「柴崎泰広。あ、いちおう俺、予約済みだかんな。横取りすんなよ」
佐藤夏波は、形のよい眉を上げてキョトンとした表情を浮かべた。
「なにそれ横取りって」
「俺、今、お友だちから始めてるとこだから」
佐藤夏波はしばらくの間ほぼ全ての身体機能を停止させて西ちゃんを見ていたが、突然堪えきれなくなったように噴き出すと、爆発的な勢いで笑い始めた。
「……何? 西崎また男に告ったの?」
「何その言い方。男に告っちゃ悪いかよ」
「いや、別に悪いことはないんだけどさ、あんたってマジで凄いよねある意味」
西ちゃんはフンと鼻で笑うと、卵焼きをぱくりと口に入れた。
「別に凄くねえよ。普通じゃん」
「それを普通と言い切るとこがさ」
佐藤夏波は言葉を切ると、首を巡らせてもう一度あたしをまじまじと見た。
「それにしても、今回のあんた……趣味悪くない?」
何だって? ピキ。
「前つき合ってた裕吾くん、あの子はかわいかったしつるんでる絵面も悪くなかったけど、これは……」
「んなこと言ってっけど、夏波も眼鏡取ったコイツ見たら卒倒するぜ多分」
「え? そなの?」
ドキ。
眼鏡の話はすんなタコ。
「でも見せないよーだ。な、柴崎」
「え? ……あ、はいそうですね見せません絶対」
「あれを見ていいのは俺だけなの。な、柴崎」
そういうわけではないんだけど、しょうがないから取りあえず頷いておく。
佐藤夏波はそんなあたしたちを見ながら、肩を揺らしてくすくす笑った。
「やだ何かもう既にできあがってんじゃんあんたたち」
それは誤解だが。
「ま、健闘を祈るよ西崎」
言い捨てると、佐藤夏波は軽く手を挙げて女子集団の方に戻っていった。
何とかやり過ごした安堵感が怒濤のように襲ってきて、思わず大きなため息をついてから、目線を上げて西ちゃんを見た。
西ちゃんは何事もなかったかのように、デザートのオレンジにかぶりついている。
「……あの人は?」
「え? 今の女?」
あたしの問いに、西ちゃんはオレンジの汁で汚れた指先を舐めながら目線を上げた。
「佐藤夏波。クラスメートの一人。何だよ柴崎興味あんの?」
意味合いは違うにしろ興味があるのは確かなので頷いておくと、西ちゃんは「えー」と言いながら顔をしかめた。
「あいつはやめときなって。表の顔と裏の顔が真逆。ホントきっついんだから。元彼の俺が言うんだから間違いない」
うんうんそうだよねやっぱきついんだあの女……
……って、今なんて言った!?
「に、西崎くん、……」
「へ? 何?」
オレンジを食べ終えてベロベロ指先を舐めていた西ちゃんが訝しげに顔を上げる。
「今、……元彼って」
西ちゃんは「ああ」と言って頷くと、
「言ってなかったっけ? 俺バイなの。要するに、男とか女とか気にしてないの。好きになったらどっちでもいいの。OK?」
さらりと言ってのけると、やけに爽やかな笑顔を浮かべてみせた。
……OKってあんた。