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32.気にしてないから

「しーばさーきクーン♡」


 語尾にハートマークが複数個つきそうな甘ったるい声で呼ばれた。

 ゆるゆると首を巡らせる。

 視界に、アーチ橋を横に二個並べたような目に、口もとをにんまりほころばせた西ちゃんの顔が映り込む。全く、涎でも垂らしそうな絵面だ。


「どおどお? 久々のスクールライフは。この教室中に充満する青春満開ハレルヤな空気は」


 発言の意味が分からず黙っていると、西ちゃんはあたしの周囲に渦巻くピリピリした空気を察したのか、自発的に質問を切り替えた。


「……てか、おまえ二時間目の数学、凄かったなー。びっくりした。あんなに休んでたのに、よくウジ村の攻撃に立ち向かえたな」


 ウジ村て。まあ、確かに嫌み全開なオヤジだったけど。

 ていうかあたしも、普通不登校あけの人間にはもうちょっと腫れ物を扱う的に対応するのかと思っていたから、ちょっとびっくりした。


 ウジ村こと藤村教諭は、いつも空席だった席に座っているあたしを目にするなり、「よぉく来た柴崎! おまえが来るのを待っていたぁ!」と禿頭に浮き出た脳血管が破裂しそうな勢いで叫び、数学IAIIBの復習プリント全三〇問をやたら震える手でむりやり押しつけ、時間内で解答するよう求めてきたのだ。

 はっきりいって、頭の中が真っ白になった。

 柴崎泰広が理系クラスを選択していなかったのはある意味ラッキーだったけど、それでもIIBはまだ履修していない部分がほとんどで、あたしには意味不明な記号の羅列にしか見えなかった。履修したIAにしても、芝沢の出題レベルからは比べものにならないくらいひねった問題ばかりで、結局三〇問中あたしが自力で解答できたのはわずか二問、しかも解答に十五分もかけてしまうという悲惨な状態だった。

 そんな情けないあたしに代わり、残る二十八問を驚異的なスピードで解答したのは、クマるんもとい柴崎泰広、その人だった。

 クマるんの送信どおりに記入した解答を藤村教諭に見せると、教諭は青筋をモリモリ膨らませながら何とも悔しそうに奥歯を軋ませたきり、無言で「合格」印をついてくれた。要するに、全問正解だったらしい。


【……まあ、勉強くらいしか家でやれることがなかったから】


 あたしが驚いていると、クマるんはボソッとそんなことを呟いた。

 確かに、金もなく外出もできずテレビもパソコンもケータイすらないあの家でできることといえば勉強くらいしか思いつかないんだけど、それにしたってあの問題量をあのスピードでこなせるとは思わなかった。いやはやクマるん侮り難し。ちょっと見る目変わりましたよ正直。 


「でも惜しかったよなー。分からない問題があったら、俺が手取り足取り懇切丁寧に教えて差し上げて、株上げようと思ってたのにさ」


 何これでっかいストラップとか言いつつ、西ちゃんは無邪気に笑いながら机の上のクマるんをいじる。ドキッとしたが、クマるんは黙って西ちゃんにされるがままになっている。きっと、すでにはるかな無意識の世界へ旅立ってるんだろう。

 きれいに通った鼻筋と、力強い輝きを放つ黒い瞳。はっきりした眉と、ニキビ跡一つない頬。目元にはらりとかかる、ドライかつ無造作にスタイリングされた黒髪。

 意外なほど整ったその顔にあの頃の面影を探しながら、ひとことボソッと投げかけてみる。

 

「……図書館で?」


 クマるんをいじっていた西ちゃんの動きが、止まった。キョトンとした表情を浮かべながら、あたしに視点を合わせてくる。

 そんな西ちゃんの黒い瞳を、精いっぱいの期待を込めて見つめ返した。 


「西崎くんて中学時代、どこで勉強してた?」


 西ちゃんはクマるんつき携帯を机の上に置くと、小首をかしげ、興味深げに口の端を引き上げた。


「なにその質問。なんでそんなこと聞くわけ?」


「別に。ちょっと興味があったから。答えたくないならいいけど」


 冷たく吐き捨てて目線を窓の外に向けると、西ちゃんはズボンのポケットに両手を突っ込み、腰を屈めてあたしの顔を覗き込んできた。


「図書館だけど? 塾行くのたるかったから。それが何か?」


 至近距離でくるくる動く黒い瞳と、ほのかに漂うシトラスグリーンの香り。

 その香りとともに大きく息を吸い、唾を飲み込んで乾いた喉を潤してから、意を決して口を開く。


「水谷彩南って子、知ってる?」


 西ちゃんは考え込むように眉根を寄せた。


「みずたに、あやな……?」


 中空を睨んで首をひねる西ちゃんの動向を息を詰めて見守っていると、西ちゃんは何に思い至ったのか、目を見開いて「あ」と呟いた。 


「もしかして……あの子のこと?」


 紡ぎ出される次の言葉を、瞬きすら控えてじっと待つ。


「俺んとこに告りに来たのに間違えて西山のゲタ箱に手紙入れちゃって、何か知らないけど西山とくっついちゃったあの眼鏡っ子」


 違うって。


「ちげーよ西ちゃん、それ水原綾香だろ。西山怒るって」


 通路を隔てた席でたむろっていた男子生徒が、ゲラゲラ笑いながら突っ込みを入れてくれる。


「あそっか。じゃ誰だろ。知り合いに、水の字がつく子なんかいたっけかなあ」


 いたって。


「うーん、みずたに、みずたに……」


 腕を組んで考え込んでいた西ちゃんが、はたと顔を上げてあたしを見た。


「ところで柴崎、何でおまえがそんなこと聞くの?」


「え」


 予測済みの質問。それに対する答えも考えた上で問いをぶつけたはず。

 なのになぜだか言いよどんでしまった。いかん。


「……答えられたら教えてあげるよ」


 ついつい目線が斜めに落ちてしまう。いかん。


「ふーん……」


 西ちゃんはそんなあたしを興味深げに眺めると、右頬を引き上げた。それから、なにかもの言いたげに口を開きかける。

 刹那。頭上に、調子はずれなチャイムの音が鳴り響いた。

 西ちゃんは口をつぐむと、チラッと横目で時計を見、それから軽く手を挙げて自分の席に戻っていった。


【何ですかあれ】


 西ちゃんが席に着くや否や、それまで机の上に黙って転がっていたクマるんが、突然、吐き捨てるような送信をよこした。

 気を失っているとばかり思っていたので、ちょっとドキッとしてしまった。


「……な、なんだクマるん起きてたの? ていうか、何って」


【あの男ですよあの男! 何ですかあの態度】


 プンスカ怒りながら強めの送信をたたきつけてくる。


【彩南さんのことを思い出せないばかりか全く関係ない子の名前を出してくるとか、神経疑いますよ! ま、最初から、まともな神経じゃないとは思ってましたけどね】


 鼻息荒く吐き捨てて、バカにしたように鼻で嗤う。

 ……てか、何怒ってんの?

 いつものように筆箱に寄りかからせてやりながら、暴れ馬を鎮める気分で言葉をかける。


「大丈夫だよクマるん、別に気にしてないから」


 クマるんははたと動きを止めたかと思うと、今度は大きな首を何度も上下させて頷き始める。


【で……ですよね! 人間なんて数年たてば性格なんかガラッと変わりますからね。あんなヤツ、もう気にしない方がいいですよ】


 何かやけに送信が明るいな。


「ちょっとちょっとクマるん、あんま動きまくらないでよ。……てか、そういう意味じゃなくて」


【え】


 首の上下動がピタリと止まる。


「あいつがあたしの名前を覚えてなくても当然なの。だってあたし、あいつに自分の名前を言ったの一度きりなんだもん。覚えてるかなって思ってかまをかけてみただけ。何も気にしてないよ」


 あたしをロックオンして動かないビーズの目玉に笑いかけると、窓際の席で友人たちと談笑している西ちゃんに目線を移す。

 数学の時間。柴崎泰広の隠れた能力にも驚いたけど、西ちゃんがプリントを提出するのもそれに負けず劣らず速くて驚いた。

 あいつ、あんなんだけど、案外頭いいのかもしれない。てか、あたしにあんなに分かりやすく勉強教えてくれたんだから、いいに決まってるか。

 つらつらとそんなことを考えながら逆光に揺れる黒髪をぼんやり眺めていたら、前扉の開く軽い音が聞こえた。


「あ、来れたんだ。大丈夫ー?」


 女子連中の間延びした声が響いてくる。

 誰か来たのかな。

 大して興味はなかったけど、教師も来ていないし暇だったので何となく首を巡らせてそちらを見た、次の瞬間。拍動を除くすべての身体機能が停止した。

 

「うん。なんとか行けそうだったから来てみた。ありがと幸音」


 入り口近くでたむろしていた女子連中と明るく言葉を交わしている、茶色っぽいミディアムヘアと短いスカートが似合う、「平均的女子高生」を絵にかいたようなありふれた外見の一般女子。

 あたしはその一般女子から、一ミクロンも目が離せない。


「でもさ、無理しないで体育は見学した方がいいよ、夏波」


「ありがと。無理そうならそうするつもり」


 体調を気遣う友だちに明るく笑いかけると、自分の机に大振りのマスコットが数個ぶら下がる通学カバンを置いて、椅子に手をかける。

 その視線がふと、あたしの熱すぎる視線と重なった。

 

 わずかに見開かれる、彼女の睫毛の長い大きな瞳。

 その瞳に吸い寄せられてしまったかのように、あたしも動くことができない。 

 と、ガラリと前扉の引き開けられる音が響き、堂々たる体躯の女性がのっしのっしと体を揺すりながら教室に入ってきた。

 三時間目の古文の担当教諭であるその女性は、脂肪で膨らんだ体を斜めにしながら何とか戸口を抜けると、立ち尽くす一般的女子の後ろ姿に驚いたような視線を投げかけた。


「あら佐藤さん、来られたの?」


 一般的女子はわれに返ったように振り返ると、横幅逞しい女性教諭に小さく頭を下げた。


「すみません、頭痛で動けなかったんですけど、何とか治まったので……」


「あら、また? でもまあ、治ってよかったわ。それじゃ、支度をして着席してちょうだい。もう授業を始めますから」


 一般的女子はもう一度チラリとあたしに目線を向けてから、くるりと背を向けて着席した。 

 肩のあたりで揺れている、サラサラの茶色い髪。

 あたしはしばらくその後ろ姿から、目を逸らすことができなかった。

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