31.……マジですか?
【えええええええええええええええええええええええええっ】
頭蓋骨いっぱいに響き渡る素っ頓狂な送信に、思わず頭を抱えて机に突っ伏した。
「ちょっとちょっとクマるん送信の強さ考えてよ。きつすぎるって」
【考えてる余裕なんかある訳ないじゃないですか、そんな……】
机の片隅に筆箱を背もたれにして座りながら、クマるんはチラリとビーズの目玉を斜め後ろに流す。
クマるんの視線の先には、逆光を浴びながら窓により掛かり、意外に長い足を組んでワイヤレスイヤホンで音楽を聴いている西ちゃんの不遜な姿があった。どっぷりはまりこんでいるらしく、教師がいることにも気づいていないらしい。
【……あの男とつき合うことになっただなんてそんな恐ろしい話、落ち着いて聞ける訳がないですよ】
「大丈夫だよ、つき合うって言ったって友だちからだからさ。それって全然普通じゃん」
【いや、普通って……その先にそういう目的があると分かっていながら、そんな申し出を受けるなんて……】
「平気だって。考えすぎだよクマるん。嫌なら断ればいいだけだもん」
【嫌ならって、嫌に決まってるじゃないですか!】
鼻でため息をつき、いきり立つクマるんの顔を覗き込む。
「あのさクマるん、よく聞いてよ。あんたは確か二年の中頃から学校に来てなくて、三年になってからも結局三日しか登校してなかったわけだよね?」
【は、……はあ】
「学校生活って、細々した所の動き方が分からないときついんだよ。そういうことを教えてくれるのってやっぱ友だちしかいないんだけど、あんた、そういう友だちって作ってあった?」
【……い、いません】
「あたしは、そういうことを教えてくれる友だちが必要だと判断したわけ。で、あっちから声をかけてくれてるのに、無視するのも何でしょ。取りあえず関わりは切らないでおいて、利用できるところは利用した方が絶対得なんだって」
【でも、だからって何もあの男に】
「あいつ、そんなに悪くないと思うよ」
クマるんは心底驚いたように言葉を失った。
【……どういう理由で?】
「いや、理由は……特にない、かな。女の勘的なヤツ。でも、結構的を射てたりするんだよこれ」
いかにも不服そうに黙り込むクマるんに、ちょっと笑いかけてみる。
「とにかく、この判断の全責任はあたしがとる。あんたの体に危険のないよう十二分に注意するから、しばらくは任せて。だいたいさ、あんただってあんな大事な時に気を失ってたんだから、文句は言えない気がするよ」
言われると弱い部分らしく、クマるんは目線を落として黙り込んだ。
「それでは出席を取ります」
教壇に立つ年配の女性教諭が出席簿を開いた。呼名が始まるらしい。
五十音順に呼ばれていく名字たちをぼんやり聞き流しながら、もう一度、窓際に座る西ちゃんに目を向ける。
相変わらず目を閉じて音楽に聴き入っている。目を閉じ、組んだ足をリズムに合わせてわずかに揺らしつつ、呼名が始まったことにも気づいていないらしい。
あのあと。
無事に眼鏡を返してもらったはいいものの、お友だちお友だちと連呼する西ちゃんに、半ば引きずられるような格好で学校まで連行された。
西ちゃんは学校の人気者的立場を確立しているらしく、途中で何人もの生徒に声をかけられ、そのたびに「お友だちの柴崎泰広くん」として紹介されまくった。登校一日目にしてここまで自分を衆人の目に晒すとは思っていなかったのでかなり戸惑いはしたけれど、円滑な学校生活を送るためには第一印象を良くしておかねばならないので、必死で調子を合わせ、精いっぱい笑顔を振りまいておいた。
それにしても、不思議なヤツだと思う。
西ちゃんは己の特殊な性向を全く隠すことなく、いや、それどころかかえって堂々と主張している。そういう人間は普通、「一般的」な皆様からは煙たがられ弾かれるのが常だ。それなのに西ちゃんはそれを皆に認めさせ、ある意味「それが西ちゃん」だという理解を得ている。いったいどうやってそういう地位を確立したのか、かなり興味がある。
あたしは中一から、自分の食い扶持は自分で稼いで生きてきた人間だ。
それはすなわち、子どもたちが形作る閉鎖された「学校社会」より、大人の形成する「一般社会」に軸足を置いて生きてきたことを意味する。
半ば強制的に大人の世界に放り込まれた関係上、対大人的対応には慣れている半面、対子ども的対応には普通の皆様に比べてかなり疎い。なのであたしは、正直「学校社会」という閉鎖環境が苦手だ。できれば関わり合いたくないのだけれど、そこで過ごす時間がある程度長い以上、表面的な関係は保っておかなければならない。結果、あたしの学校での過ごし方は、「明るく、楽しく、深入りせず」をモットーに、そこで大過ない時間を過ごすことを最大目標にしている。
今のあたしが欲しいのは、友だち同士のネチネチした人間関係ではなく、南沢というブランド高の卒業資格。それだけなのだ。
そんなあたしからしてみれば、強烈に自己を主張しながら円滑な人間関係を巧みに築いている西ちゃんのような人種は、ある意味理解不能な異星人みたいなもので、どうしても興味をそそられずにはおれないのだ。
加えて、なぜだか懐かしさをそそられる、あの香りも。
あれこれ考えながらぼんやりしていたら、順当に続いていた呼名が途切れた。
「佐藤さん、……佐藤さん? あら、連絡もらってないけど、誰か聞いてる人います?」
静まりかえるクラス内をぐるりと見渡してから、女性教諭は小さく息をつくと、呼名を再開した。
「じゃあ、後で連絡してみます。次は……柴崎さん」
「……あ、はい」
慌てて返事を返すと、年かさの女性教諭はゴールドに輝く眼鏡の縁をおさえ、まじまじとあたしを見て、感心したようにため息をついた。
「まあ柴崎さん、登校してきてくれて嬉しいわ。私が担任の笠原です。覚えているかしら?」
「あ、……いえ、気分的には初めましてです。よろしくお願いします」
取りあえず居住まいを正して頭を下げておく。
クラス中の視線が一斉にあたしに注がれる中、西ちゃんだけは相変わらず音楽に夢中のご様子で、目を閉じてフンフンと足でリズムを取り続けている。
教師はそんなことには毛ほども気づかず、満足そうに頷いてから呼名を再開した。
名前が呼ばれ、気のない返事が返されていく。淡々と繰り返されるその脊髄反射的な応酬が、ある名前を境にプツリと途切れた。
「西崎さん」
返事はない。
クラスの生徒たちの視線が、一斉に窓際で音楽を聴く男……西ちゃんに集中する。
【あの男、西崎って名前だったんですね】
クマるんが、どこか忌々しげな送信をよこした。
「西崎さん」
教師の声が、上ずってワントーン上がる。
だが、西ちゃんは完全に目を閉じ、遙かな音楽の世界に旅立ったまま、現実世界に戻ってくる気配がない。
後ろの席に座る生徒が、見かねて西ちゃんの背中をつまんで引っ張り始めた。
出席簿を持つ教師の手が、フルフルと震え出す。
「西崎宗一さんっ」
教師の金切り声がクラスいっぱいに響き渡った。
……え?
一瞬、思考が停止した。
クマるんがはっとしたように、黒光りするビーズの目玉をあたしに向ける。
「あ……は、はい!?」
ようやく夢から覚めた西ちゃんが、椅子を鳴らして立ち上がった。
「何をやってるんですか? もうホームルームは始まってるんですよ! あまり不真面目な態度が続くようなら、そのウォークマンは没収しますっ」
「……いや、センセイ。これ、サブスクですって。ウォークマンっていつの時代すかそれ」
クラス内に、クスクスと押し殺した笑いが広がる。
だが、ベテラン教師はそんなことには微塵もめげる様子なく、半分裏返った声で吠えたてた。
「サブスクでもキオスクでも何でもいいです! とにかく没収しますからっ」
「え、いや、ちょっとそれは。真面目に聞きますんで……てか、キオスクってどんだけすか」
教師と西ちゃんのふざけたやりとりを視界の端に捉えつつ、あたしは猛スピードで自分の記憶層に検索をかけていた。
☆☆☆
夕刻の斜光に照らされ、黒い影で縁取られた路地を、あたしはあいつの後ろについて歩いていた。
オレンジ色に染まる狭い路地は、自分たちの他に人影はなく、静まりかえっている。
長く濃い影を従えて数メートル先を歩いていたあいつの足が、ピタリと止まった。
つられるように足を止めたあたしの視界に、振り返ったあいつの顔が映り込む。逆光で黒ずんでいて、顔のディテールは丸刈りなことと黒縁の眼鏡以外はよく分からないけれど、口元に柔らかな笑みをたたえていることはわかった。
『図書館に来いよ』
『……え?』
軽やかな声音で紡がれたその言葉の意味するところがよく分からなくて、おずおずと問い返したあたしに、あいつは照れたような笑みを返した。
『俺、週末はだいたい図書館にいるからさ』
そう言いながら、持ってくれていたらしいあたしのカバンを差し出す。
『分かんないとことかあったら、できる範囲で俺が教えてやるよ。だからさ……』
目の前に差し出されたカバンに手を伸ばすこともできずに固まっていると、あいつは眼鏡の奥の黒い瞳を細め、ニキビだらけの頬を引き上げて、にっと笑った。
『もうあんなこと、しなくていいからさ』
温かな風が頬を撫でた。
風にのって微かに香る、爽やかなシトラスグリーンの香り。
『……ありがとう』
やっとのことでそれだけ言って、あたしは差し出されたカバンを受け取った。
☆☆☆
それからあたしは毎週末、図書館に行って、あいつの隣で勉強した。
分からないところがあると、あいつは本当に分かりやすく教えてくれた。
たまにあいつの友だちに会って冷やかされることもあったけど、あいつはいつも平気な顔で笑っていた。焦ったり、うろたえたりするところを見たことがなかった。
あいつの名前は、「そういち」。
どんな漢字を書くのか知らないけど、友だちにはそう呼ばれていた。
あたしは自分からは、名前を聞くことすらできなかった。
でも、あいつのおかげであたしは、「あんなこと」から足を洗うことができたんだ。
そして。
窓際で教師と押し問答をしている、このふざけた男。
ワイヤレスイヤホンを取り上げられ、教師に泣きついていたこいつは、あたしの視線に気づいたのかふいにくるりと首を巡らせると、笑いながら小さく手なんか振ってみせる。
こいつの名前も、「そういち」。
神様、……マジですか?