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30.……やられた

 全身の体毛が一本残らず逆立ち、ドブネズミの大群が背筋を一気に駆け上がる。

 喉元まで出かかった悲鳴を必死で呑み込みつつ、飛び退って扉に背をつけ呼吸を整えていると、そいつ……西ちゃんは、まるで逃げ場を奪うかのごとくそんなあたしの両脇に手を突き、ニヤニヤ笑いを浮かべた顔をずずいと近寄せた。


「今日からいよいよ登校? 超マジ感動的に嬉しいんだけど」


「そ……それはどうも」


 必死で目を逸らしているあたしを底光りする目で見据えながら、西ちゃんは低い声でささやいた。


「ところで柴崎、この間のことさあ、俺結構根に持っちゃってんだよね」


 ドキッとして、呼吸が止まった。

 そろそろと目線を動かして西ちゃんを見ると、取りあえずニヤニヤ笑ってはいるけれど、ヘンに鋭く尖った視線を突き刺さすように注いでくる。

 思わずゴクリと唾を飲み込んだ。


【あ……謝った方が、いい、ですよ】


 完全に怖じ気づいたクマるんの送信が、途切れ途切れに届く。

 いやしかし普通に謝っても許してはもらえない気がする。


「……あん時は、ゴメン。急におなかが痛くなって、突き当たりの家でトイレ借りてたもんだから」


 仕方なく、われながら白々しすぎるウソをつく。

 西ちゃんはニヤリと頬を引き上げると、右手はズボンのポケットに突っ込み、左肘をあたしの頭上について、ちまちまあたしの前髪をいじり始めた。


「良く平気な顔でそういうウソつくよなー。そんなに俺のこと嫌いなわけ?」


 超至近距離でくるくる動く黒い瞳。動揺を悟られまいと目線をそらし、あえて強気に言葉を継ぐ。


「確かめもしないでウソとか言わないでほしいんだけど。あの家の人に聞いてみればいい。裸足の男子高校生がトイレ借りに来たかどうか」


「ふーん……」


 西ちゃんはニヤニヤしながら前髪をいじくり続けていたが、ふいに両眼をギラリと光らせると、左手をさっと瓶底眼鏡の鼻根に伸ばした。


「……!」

 

 声を上げる間もなく、一瞬で視界が白濁する。

 ……やられた。

 

「いやー、やっと拝めた眼鏡なしの顔。てか、滅茶苦茶かわいくね? 想像以上だなこれ」


 西ちゃんの興奮したような声が聞こえてくるが、視界に映るその顔はのっぺらぼうそのものなので、どんな表情でそれを言っているのかさっぱり分からない。ていうかそれどころじゃない。足元すら覚束ない。


「返せよ眼鏡」


「間もなく、駒江、駒江。お忘れ物のないよう、ご注意ください」


「おっと降りなきゃ」


 くるりと踵を返し、戸口方面に向かった西ちゃんの影がさらにぼやける。うわちょっと待ってマジでそのまま持ってかれたら歩けないって。


「眼鏡返せったら!」


 西ちゃんが足を止めくるりと振り返ったのが、肌色の面積が増えることでかろうじて分かった。


「ダメ。この間逃げたお返し」


 完全に楽しんでいるのが、笑いを堪えたような声音で分かる。

 電車がホームに滑り込んだのだろう、響いてくる音が変わった。ヤバイ。


「マジでそれないと困るんだって。頼むから……」


「俺とつき合ってくれんならいいよ」


「……は?」


 思考が停止してしまった。

 西ちゃんは右手に持ったもの……多分眼鏡だろう……をヒラヒラさせながら、相変わらず楽しそうな声音で恐ろしい言葉を継ぐ。


「あ、もちろんおまえがノンケなのは分かってっから、いきなりそういうことしろとか言わない。てか俺もそこまでするつもりないから大丈夫。要するに、フツーの恋愛と同じ感じ。つき合ってみて、ダメなら諦めるし、いけそうならいくし。それだけ」


 それだけ……って。

 そんなこと、この短時間に結論を出せと言う方がむちゃくちゃだ。


「く……クマるん、どうしよう」


 クマるんの答えはなかった。

 このヘビーな状況に、あいつのヤワな精神は耐えきれなかったらしい。多分、結構前から無意識の世界に旅立っていたとみえる。

 ここは何とかあたし一人で乗り切るしかなさそうだ。

 扉の開く気の抜けた音が響き、西ちゃんが踵を返して戸口の方に向き直る。

 とにかく電車だけは降りねばならない。覚悟を決め、西ちゃんの影を追って手探りしながら何とかホームに降りる。

 走り去る電車の音と左頬に風の流れを感じながら、西ちゃんの姿を探して周囲を見回すも、ホームには大勢の人影がうごめいていて、いったいどれが西ちゃんなのかさっぱり分からない。

 仕方なく、人影が流れている方向に向かって歩き始める。

 途端に、踏み出した右足が何かを踏んづけた。

 

「痛ってぇなあ!」


「す、すみません」


 斜め右に立つ人影に頭を下げた途端、今度は左側の人影に肩がぶつかる。

 よろけながら思わず足を止めると、背後から突き飛ばされるような衝撃を喰らって倒れそうになった。

 おずおずと顔を上げて見回すと、周囲一帯を埋め尽くす顔のない人影の群れが、黙々と一定方向を目指して流れていく。


 ――怖い。


 目が見えないのって、こんなに怖いものなんだ。自分は今まで目が良かったから全然知らなかったけど、目の悪い人はこんな恐怖を感じながら歩いてるんだ。

 今度そういう人に会ったら絶対に手助けしようと心に決めつつ、止まっているのは危険なのでとにかく人の流れに乗って歩き始める。至近距離にいる人の動きは何とか分かるから、それに合わせて移動すれば、何とかなると思ったのだ。

 でも、それは甘かった。

 移動する大勢の人影たちにとって、階段を降りることなどごく当たり前の行為に過ぎない。でも、目がよく見えない状態に慣れていないあたしにとって、それはとんでもなく大きな障壁だったのだ。

 一歩踏み出した足の下に、あるはずの床がなかった。

 当然のごとくバランスを崩したあたしの体は、当たり前のように宙を舞う。

 脳の出入力機能が一瞬で全て停止し、ただでさえぼやけた視界は真っ白になった。

 


☆☆☆



 不思議なことに、体のどこにも痛みを感じない。

 どのくらいの高さから転落したのかは分からないけど、たいした高さじゃなかったのかもしれない。

 どういう訳だか顔のあたりに、温かい感触を覚える。

 微かに鼻孔をくすぐる、シトラス系の爽やかな香り。

 それにしてもこの香り、どこかで嗅いだことのあるような……


「そっかー、そんなに俺のこと好きだったんだ、おまえ☆」


 あっけらかんとしたその声に、はっと意識が戻った。

 慌てて顔を上げた途端、輪郭はいくぶんぼやけてはいるものの、西ちゃんの満足そうな笑顔がわりとはっきり視界に映り込んできてギョッとした。

 急に目が良くなったのかと一瞬思ったけど、そんわけはない。シバサキヤスヒロの目は近視だから、至近距離にあるものは何とか見ることができるというだけの話だ。しかも、三〇センチメートル以内くらいの至近距離。そんな至近距離に、どうして西ちゃんの顔があるのか……。


 ――!!


 息をのんで体を突き放すと、よろけた拍子に、階段に尻餅をつくような格好で倒れ込んでしまった。


「とと……って、危ねえなあ。俺の方が落っこっちゃうじゃん」

 

 見上げると、突き放された勢いでよろけた西ちゃんが、体勢を立て直しながら笑っている。


「西ちゃーん、なに朝っぱらからイチャコラしてんの? しかも駅の階段の真ん真ん中でさ」


「いつもながらぶっ飛んでんね。今度はその子がターゲット? ……って、超カワイイじゃん。誰? その子」


 周囲の人影のあちこちから冷やかしめいた声がとんでくる。どうやら、駅階段を降りる生徒集団の真ん中で、あたしは西ちゃんと抱き合っていたらしい。


「え? こいつ同じクラスの柴崎泰広。滅茶苦茶カワイイっしょ? 俺ずーっと目つけてたんだよねー」


「は? 同じクラスって、そんなヤツ知らねえよ俺」


「おまえは注意力散漫なの。……ま、こいつずっと学校来てなかったから無理ねえけど」


「来てねえって……ああ! 柴崎ってあいつ? 不登校で学校ずっと休んでたヤツ」


「俺そいつ知ってるー。下北でゲロ吐いてたヤツだろ、西ちゃん」


「そーそー。あんとき告ろうと思ったんだけど逃げられちゃったんで、今リベンジしてるとこ」


 人垣のあちこちから「えー」とか「草」とか「マジ?」とかいう嬌声がとんでくる。


――最悪。これじゃまるっきり見せ物じゃん。

 

 ため息をついてから、おもむろに立ち上がって体についた汚れを払い落としていると、あたしの動きに注目しているのか、周囲がシンと静まりかえった。

 西ちゃんも、言葉を止めてあたしを見ている。

 無言で西ちゃんの脇を抜けて階段を降り始めるも、段差が視認できない状態で足を下ろすのはかなりの勇気が要る。自然、足取りは慎重にならざるを得ない。

 西ちゃんはそんなあたしに並走するように階段を降りながら、あたしの顔を覗き込んだ。


「なー柴崎、眼鏡いらねえの?」


「……要るけど」


「じゃあつき合うしかないじゃん」


「なんで選択肢がいきなりそこまで狭まるわけ?」


「やなの?」


「いやです」


「何で? 俺が男だから?」


 男だから?

 ううん、多分そういう訳じゃない。

 正直、シバサキヤスヒロの体に入ってはいるけど、あたしの精神は相変わらず女でいた頃のままで変わっていない。

 鏡も見ないで喋ってもいない時なんかは、股の間についているものの存在も忘れて、女の子気分でいることがほとんどだ。だから喋りも女言葉が抜けない。第三者的に見ればけっこう気持ち悪い絵面なんだろうなあとときどき思うけど、クマるんこと柴崎泰広がそういうあたしを受けいれてくれている雰囲気があるから、無理して男っぽく振る舞わないですんでいる。

 そんなあたしからしてみれば、男に言い寄られるのはそれほど異様な事態じゃない。

 第三者的に見たらかなり特殊な状況ではあるんだろうけど、本人的には、女の子に言い寄られた方がきっと引いてしまうと思う。


「……そういうわけじゃない」


 西ちゃんが視界の端で面白そうに眉を上げた。


「じゃあどういうわけ?」


「ちょっと考えれば分かるじゃん。いきなり告られてはい分かりましたなんて返事、相手が男だろうが女だろうが、普通誰でもできないよ。第一、あた……僕は、ずっと学校休んでてあんたのことなんかろくろく知りもしないんだから」


「じゃあ知れば返事ができるってこと?」


「……まあ、そうかもね。どっちになるかまでは約束できないけど」


「そっか! 分かった」


 西ちゃんの声がワントーン上がった。


「お友だちから始めればいいんだ」


「……え?」


「お友だちから始めよう!」


 西ちゃんが勢いよく畳みかけてきたので、注意が足元からそれた。

 右足が階段を踏み外して滑り落ち、ガクリと体がよろける。


「……!」


 目の前に差し伸べられた西ちゃんの右手に、思わず夢中でしがみついてしまった。

 ほんのり香る、シトラス系の香り。

 怖ず怖ずと首を巡らせてみると、西ちゃんがあたしを支えながら、満面の笑みでにっこり笑いかけてきた。


「な、いいだろ? し・ば・さ・きクン」


 人なつっこっく無邪気に笑う黒い瞳に、吸い込まれてしまいそうな気がした。

 どこか懐かしい、この感覚。


「……いいよ」


 気がついたら、あたしはそう言って頷いていた。

 周囲の人垣から「おおーっ」とも「うおー」ともつかない歓声が沸き上がる。

 西ちゃんは「よっしゃ!」とか言いながら周囲に向かってガッツポーズを繰り返している。

 そんな喧噪を聞き流しながら、あたしはぼんやり考えていた。


 この香り。

 いったい、どこで嗅いだんだろう……?

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