3.死んだんだ
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!
「ぐああああああああっ」
あまりの頭痛に起き上がろうとした途端、今度は猛烈な吐き気が胸の奥底から迫り上がってきた。
「おええええええええっ」
移動も叶わずその場で噴出。
出てくるのはネバネバした胃液。喉が焼け付くみたいにヒリヒリする。
頭痛い気持ち悪い頭痛い気持ち悪い……。
いったい何なんだこれは!
見ると周囲の畳もゲロまみれ、すっかり乾いてカサカサになっているものまである。
あたり一帯を覆い尽くす異臭と、凄まじい頭痛、吐き気。
地獄にでも来たんだろうか?
状況を確認しようと、必死で半身を起こして首を巡らせてみる。
そこは狭苦しく薄暗い和室だった。突き当たりの小さな窓にかけられた昭和の香り漂うカーテンが、薄闇にほの明るく浮かび上がっている。ささくれだって湿った畳は訳の分からないゴミの山で埋まり、ほとんど足の踏み場もない。
ゴミとゲロの向こうに敷きっぱなしのせんべい布団を見つけ、股間に何か挟まっているような異物感を覚えつつ何とかそこまで這うと、原因を確かめる気力もなくカビ臭い布団に倒れ込む。
体が重くて仕方がない。自分の体じゃないみたいだ。
自分の体。
――あたしの体?
【あー、最初はあなたが体使うんですね】
その時、なす術もなく倒れているあたしの頭に、やけにのんびりした声……いや、音声ではなくて、意識そのものに近い……が響いた。
「は? だ、誰? どこにいんの!?」
慌てて問いただした途端、低くて張りのある聞き覚えのない声が鼓膜を震わせ、ギョッとして思わず呼吸を止めてしまった。
――なに? 誰の声? 今の。
【え? すぐそばにいますよ】
すぐそば?
周囲を見回して見るも、生物らしきものの姿は見あたらない。
【ここですよ、枕元の目覚まし時計】
はあ?
よろよろと半身を起こすと、枕元に一つ、確かにデジタル式の目覚まし時計が置かれているのが目に入った。
【何かに魂移さなきゃならないとか言われたんで。取りあえず時計に入っときました】
……マジ?
てことは、あの河原の出来事は夢じゃなくて、あたしは確かに死んで、この体はあたしんじゃなくて、あの男のもので……。
ああああもう何でもいいや。深く考えてる気力がない。
そんなことより。
「ちょっとあんたさ、この頭痛と吐き気はいったい何なわけ? あり得ないくらいヤバいんだけど」
【ああ、ほら、僕自殺失敗したから。眠剤大量摂取した後遺症じゃないですか】
「眠剤……睡眠薬?」
【四百錠も飲んだんですけどねえ。アルコールと一緒に】
聞くだに気持ち悪い。まったくこいつは……。
「あんたさ、その時吐き気止め飲んだ?」
【え?】
「吐き気止め飲まないと、気持ち悪くなって吐いちゃうじゃん。失敗するに決まってるでしょ」
【そうなんですか?】
「第一、今時の眠剤は何万って飲まないと死ねないの。安全性が高いから。全く、ちょっとググればそのくらいのこと簡単に分かるって……う、おえええええええ」
【はあ、そうなんですか。僕んとこパソコンもネットもないもんで】
「は? ケータイくらいあるでしょ」
【ないです。料金払えませんから】
お金がないと死ぬこともできないんですねえと、乾いた笑いめいた意識が届く。
【それにしてもあれですね、自分の体が女言葉を喋るってのは、何かこう気持ちが悪いというか】
「は? 気持ちが悪いのはこっちだっつーの! 三時間たったら即刻交代だかんね! 何であたしがあんたの自殺の後始末なんかしなきゃならないわけ? 自分の始末くらい自分できっちりつけろっての!」
【交代ですか? いやだなあ、苦しそうで】
「あんたがまいた種でしょうが!……う」
ぶち切れて思わず半身を起こした途端、頭を揺らしてしまった。最悪……。
☆☆☆
【あー、助かった】
地獄のような三時間が過ぎ、あいつと魂を入れ替えた途端、あの怒涛のような頭痛も吐き気も悪臭もウソのように消え去った。あんまり清々しくて、思い切り伸びでもしたい気分。
「うえええええええええ!」
というわけで、今度はあいつが頭痛&吐き気&悪臭と戦っている。ざまあみろ。自分のまいた種のあほくささを思い知れ。
……にしても視点が低い。目覚まし時計だから当たり前か。しかも、目で見ているわけじゃなくて意識そのもので世界を感受してるって感じだから、なんだかぼんやりしていて把握しにくい。第一、伸びをしようにも手足がないから動けない。これはこれで不便だな。
【ねえねえ、ちょっと聞きたいんだけどさ】
「おえええええええええ!」
【意識を移すもので、もっと適したものってないかなあ。手足があって、移動の自由が利きそうなやつ……たとえば、人形とかさ】
「ぐえええええええええ!」
【聞いてんの!?】
強めに意識を入れた途端、うずくまって頭を抱えていた男はぴたりと動きを止め、ゆるゆるとこちらを振り返った。
【あのねえ、あれから三時間たってんだから、あたしの時より随分よくなってるはずなんだけど。少しくらい我慢すれば? 自分のまいた種なんだから】
「自分のまいた種でも何でも、気持ち悪いもんは気持ち悪……うっ」
【ああああ、分かった分かった。ちょっと吐いて楽になってからでいいからさ、あたしがのり移れそうなもの何か貸して。ぬいぐるみとか】
「……、ぬいぐるみなんか持ってないです」
【別に何だっていいって。手足があって動けそうなヤツなら。まあ、目とかがあると意識を集中すんのにやりやすそうだからありがたいんだけど】
「そんなのあったかなあ、ええと……」
男はよろめきながらも立ち上がり、そこいらのゴミをかき分け始めた。
【しっかしさあ、あんたひっどいとこに住んでたんだね。この部屋ってあんたの部屋? ここに引きこもってたってわけ? 親は?】
男は答えなかった。ただひたすら黙々とゴミの山をかき分けている。その背中に鋭い拒否オーラを感じとったので、あたしもそれ以上追求するのはやめた。
「……あった」
【え、どれどれ】
時計前面のデジタル表示部分に意識を集中し、男が差し出しているものをまじまじと見る。
それは薄茶色のニットで編まれたクマの編みぐるみだった。全長は三十センチくらい、大きめの頭に緑色をしたカエルの帽子を被っている。ところどころ目がとんだりほころびたりしているところを見ると、手作りのようだ。少々ほこりっぽくて古ぼけてはいるが、ひょうきんな味付けがあたし好みで何ともかわいい。
【わ、何であんたがこんなの持ってんの?】
「ごえええええええ!」
男は吐き気が復活したらしく編みぐるみを放り投げて部屋の隅に座り込み、盛大に噴出し始めた。とても返事どころではないらしい。まあ何でもいいや、取りあえずこいつに憑依すべしと目の前に転がっているクマるんに意識を集中。
【じゃんじゃじゃ~ん】
ゼイゼイと息を切らせながら、うずくまっていた男はゆるゆると振り向いた。
【見て見て! 思ったとおり、手足があるから動ける! 結構動きもスムーズだし、かなりいいかも!】
男は、腰をひねって手を当て、右足を前に出して決めポーズをとったあたし(※クマ)を何の感興もそそられない様子で冷然と見やっていたが、突然「う!」と口元を抑えると、再び丸まって吐き出した。
【なにそれ。感動薄いなあもう】
口をとがらせて抗議……って、編みぐるみの口はとがんないけど、まあそんな気分で……すると、男はゆるゆると首を巡らせ、目の下に直線が何本も引かれていそうな顔を向けた。
「感動薄いとか、そういう問題じゃ……」
【ま、いっか。取りあえず動けるようになったわけだし、始めるか。じゃ、まずはトイレットペーパー持ってきて。あと、バケツに水汲んで雑巾絞って。あ、あと、窓も全開にしてよね。もう臭くて死にそうなんだから】
「……臭い感じないはずですけど」
【絵面が臭いの、絵面が。いいから早くやってってば。あんた指示されないと動けないっぽいし。あ、あとゴミ袋もね】
後ろを振り返った姿勢で機能停止して動こうとしない男に、だめ押しの一言。
【あーあ。こんなきったないところじゃ、あたし耐えらんないからなあ。やっぱ、三途の川に帰ろうかなあ】
「……分かりました、やりますよ」
【頼んだよ☆】
ヨタヨタと部屋を出て行く男の後ろ姿を見送ってから、もう一度、自分の手をまじまじと眺めてみる。
手のひらや指先の全くない、楕円形の腕。編み目がやけに大きく感じられるのは、自分が小さくなっているからなんだろう。まるで包帯でグルグル巻きにでもされているみたいだ。編み目を解いたら、案外あたしの手が出てくるなんてのは、……ないか。
もはや空気を取り込む必要もないけれど、意識の中だけで大きく息を吸って吐く。
あたしは、本当に死んだんだろうか。
その時ふと戸口の近くに、ゴミとゲロでグチャグチャの床とは異質な、白くて四角い紙片が落ちていることに気づいた。
頭が大きすぎてうまくバランスが取れない上に、足元も丸くて不安定なので何度も転びながら、それでもなんとかヨタヨタと白いもののそばまで歩く。畳一畳分も移動していないんだろうけど、結構な距離を歩いた気分。
ようやく紙片にたどり着いてひと息つくと、四つん這いになってそこに書かれている巨大な文字を読む。
「株式会社東洋製紙 技術本部 設備技術部 部長 佐藤重則」
これ、名刺だ。
『お願いだ。生き返ったら、家族が無事に生活しているかどうか見てきてくれないか』
そう言ってあたしを見上げたおじさんの、真剣ななまざしが頭をよぎる。
そっか。
あれは夢じゃない。
あたしは。
やっぱりあたしは。
――あたしは、死んだんだ。