29.なにそれ?
駅への道をひた走りながら、腕時計に目線を走らせる。七時五十八分。止めどなく噴きだしては目の中に侵入してくる汗をワイシャツの袖で拭う。急いでいて、ハンカチなんて持って出るどころじゃなかった。
弁当作りは何とか終わらせて家を飛び出したはいいものの、フライパンやら米粒だらけの飯釜やら、洗い物は流しにぎっしり詰まったままで、洗濯は辛うじて昨夜部屋干ししたものの外に出す暇すらなかった。当然部屋はゴミだらけの埃だらけ、雨戸も二階は締めっぱなしのままだ。こういう生活をしていると、そのうちゴキブリくんが湧いてくるんだ。全く、先が思いやられるよ。
柴崎泰広が朝の支度を自分が受け持つと言ってきてくれた時は、正直嬉しかった。
バイト中は交代しないと散々言いはっていた柴崎泰広だったけど、どんなに水分を控えようがギリギリにトイレに行こうが出るモノは出る。ということで三日間のバイトのうち、やむを得ず交代する場面があれ以降も何度かあった。最初は何をしていいのか分からず右往左往しては笹本さんにどやされていた柴崎泰広も、三日目になるころにはあれこれ言われずとも、そこそこ機転の利いた行動がとれるようになってきていた。
そんなこんなで多少なりとも自信がついてやる気を出してくれたのだとしたら、それは大いに結構なことだと思った。朝の支度は時間との戦いでそれなりに経験と知恵と機転が要求されるけど、せっかくのやる気を生かす意味でも、ある程度のフォローは覚悟の上で彼の申し出を受けることにしたのだ。
でも、その目的が要するに、在校中のトイレ交代を避けるためという何とも後ろ向きなものだと分かった瞬間、あたしのやる気は一気になえた。
ていうか、身支度くらいは十二分にさせて欲しい。
たとえ借り物とはいえ、あたしの意識が入っている間はこの体はイコールあたし。あいつにいつ会えるかも分からないのに、まともに身支度も整えていないなんて、あたしのプライドが許さない。しかも見てくれを整えれば、所有者である柴崎泰広にとってもプラスになる訳だから、文句を言われる筋合いもない。
でもまあ、あいつにこれがあたしだって分かってもらえる可能性は完全にゼロなんだから、空しい努力であることは確かなんだけど。
あれこれ考えつつ駅階段を駆け上がる。ケツにぶら下がるクマるんが振動でビシバシ尻と衝突しているが知ったことか。定期片手に自動改札を走り抜け、点滅を繰り返す電車到着案内表示を横目に、下りホームへの階段を駆け下りる。最後の数段を一気に飛び降り、閉まりかけた扉の隙間に無理やりカバンを挟み込んで、仕方なく再度開いた扉の隙間から車内に滑り込む。
空いている席もあったけど、取りあえずお気に入りの出入り口脇に身を寄せて乱れた息を整えながら、ケツポケのクマるんつき携帯を取り出す。
【間に合いましたね】
「間に合わせたわよ……全く、あんた弁当一つに時間かけすぎだって」
携帯を見るふりをしながら、揺れるクマるんに小声で毒づく。こういうことは、戸口脇のこの場所が一番やりやすい。
【しょーがないじゃないですか、初心者なんだから。作るからには納得のいくものを作りたいし】
「あんたねえ……タコウインナー作ってる暇があったら、調理道具を洗ったり洗濯を外に出したり掃除したり、やるべきことはいくらでもあるんだからね。まあいいや。明日からはもう三〇分早く起きるから」
【げ。マジですか?】
「マジ。いいじゃん三〇分早く寝れば。早寝早起きは電気代の節約にもなるし」
呟きつつ、ガラス窓に映るシバサキヤスヒロの髪型を再度チェック。うん、風で吹き散らされてはいるけど、手櫛で整えれば元に戻る。五月の風は湿気が少ないからスタイリングが崩れなくて助かる。大好きな季節だ。
携帯にぶら下がったクマるんは、前髪をつまんでちまちま整えているあたしをじっと見ているようだ。そこはかとなく視線を感じる。
うーん。それにしても、……やっぱじゃまくさいなあ、この眼鏡。
「ねえねえクマるん、学校の中でも瓶底眼鏡じゃなきゃダメなわけ?」
【そりゃそうでしょ。あの男がいるんだから】
……そうだった。
「うう、わかったよ。しょうがないなあ。でもまあいいや、何たって憧れの南沢に行かれるんだし」
【大した所じゃありませんよ】
「行ってる人間はよくそういうこと言うけどさ、あたしにとっては特別なところなの」
【そんなもんですかね】
「そんなもんよ」
クマるんは再び黙り込んだ。
携帯の下でゆっくり回転しつつ、じっとあたしを見ている。気がする。額にジリジリするような感覚。眉間が何となくむずがゆい。
【あいつって誰ですか】
その送信が頭に届いた瞬間。心臓が縮み上がって、頭髪が一斉に逆立った気がした。スーパーサ○ヤ人にでもなった気分。
早まる鼓動をなだめつつ、窓の外に目を向けて必死に平静を装う。
「あいつ? 何の話?」
【言ってたじゃないですか。こんな格好じゃあいつに会えないとかなんとか】
「え? そんなこと言ったっけ。あたしはただ、初登校だから身仕舞いをきちんとした方が印象がいいかなーと思っただけで……」
額に焼けるような視線の気配。目線を泳がせているあたしを、クマるんは斜からじとっと睨み上げている。うう、ビーズの目玉のくせに生意気なんだよ。
ややあって、クマるんは一段トーンの低い送信をよこしてきた。
【……彩南さんて、あんまり自分のことを話したがりませんよね】
「え……そお?」
【僕は結構話してるんですかなり立ち入ったところまで。もう彩南さんに隠してることはないっていうくらい。だから、彩南さんもどんどん話してくださいよ。この間、仕事先で話してくれた時みたいに】
クマるんが黒いビーズの目玉であたしを真正面からロックオンする。言おうとした言葉が喉の奥で固まって、黒光りする球面から目が離せなくなる。
そんなあたしに、クマるんはぽつりと送信した。
【僕はもっと、彩南さんのことが知りたい】
――え? なにそれ?
拍動が一気に加速して、顔面が熱くなってくる。てか、編みぐるみ相手に何うろたえてるんだって感じだけど。
クマるんはそんなあたしの動揺にはまるっきり頓着なく、憤然と送信を続けた。
【じゃなきゃずるいですよ。僕の方ばっかり個人情報さらし続けて。彩南さんも、もっと自分のことを話してくれないと、釣り合いがとれないじゃないですか】
寸刻ポカンとしてから、思わず苦笑が漏れた。
そうだよね。
こいつの言うことに、深い意味なんてある訳がない。
「自分ばっかりずるい」的な子どもじみた発想から出てきたなんてことくらい、考えなくても分かりきってる。
分かりきってるはずなのに、何でこんなにドキドキしたんだろう?
なんだか自分で自分が情けなくて、乾いた笑いがこみ上げてきた。
「全く……しょうがないなあ、ガキなんだから」
クマるんは心外と言わんばかりに勢いよく顔を上げた。
【ガ、……ガキとか言われたくないですっ! 彩南さんの方こそ、そうやっていつもごまかして……】
「別にごまかそうなんて思ってないよ。話せばいいんでしょ」
なんとなく目線を窓の外に向ける。流れ去る風景が、だいぶ横長になってきた。そろそろ川を渡る頃だ。
「南沢にはね、あたしの恩人が通ってんの」
【恩人?】
「そ」
架線柱の向こうに広がる白っぽい青空を眺めやりながら、小さくうなずく。
「中学時代、新聞配達してた話はしたよね。でもその上がりって、ほとんど親戚にふんだくられちゃって、あたしの手元になんかたいして残らなかったんだ。負け犬人生送りたくなくて自分なりに必死こいて勉強してたんだけど、何せほら、もともとあたしってあんま頭良くなかったからさ、一人でやってもたかが知れてるわけ。ホントは塾に行きたかったんだけど金もないし、けっこう途方に暮れてた時、あたしに勉強を教えてくれたんだ、そいつが」
【……へえ】
クマるんは感心したように頷いた。
【その人が南沢に?】
「そ。それであたしもそのあとを追って南沢目指して、あえなく撃沈したってわけ」
【あれ? 同学年じゃないんですか】
「うん。そいつ、親戚ン家の結構近くに住んでたご近所様で、あたしより一学年上……つまり、あんたと同学年だったんだ。でまあ、南沢に行くとなればそいつとかなりの高確率で会うわけじゃない。今はこんななりだけどもとはいちおう女だったし、それなりに見てくれくらい整えておきたいな、なんて思ったりしたわけ」
相当に端折った。
でもまあ、ウソはついてないから良しとしてもらおう。
クマるんは楕円の腕を組み、得心がいったというように何度も頷いた。
【なるほど、そういうことだったんですか……で、その人の名前は?】
「いや、それがさ、まともに名前を聞いたことがなかったんだよね。名字を確かめようとしたんだけど、そいつが住んでた家は古くさいマンションで、表札も出してなかったから分からなかったんだ。かろうじて下の名前が「そういち」ってことだけは覚えてるんだけど」
あきれたように黙り込むクマるん。仕方ないじゃんいろいろ事情があったんだからさ。話せないけど。
「でもまあ大丈夫だよ。あたし、あいつの特徴は覚えてるから」
【……どんな人だったんですか?】
「え? はっきり言って見てくれは最悪。野球部だったらしくて、坊主だったしニキビだらけだったし。そういえば、あいつもあんたみたいな眼鏡かけてたっけ。あたしって、冴えない眼鏡男に縁があるのかもね」
でも、あたしにとっては特別なヤツだった。
あいつの良さを分かってたのは、きっとあたしだけ。
何となく言葉を切って窓の外に目を向ける。いつのまにか、風景がゆっくり流れていた。駅に着くらしいけど、車内案内表示装置を見上げると、表示されている駅名はまだ下車する駅のものではなかった。
列車が止まり、空気が抜けるような音とともに、あたしたちの立っている側とは反対の扉が開く。
「クマるん、あと何駅で着くんだっけ」
小声で確認してみたが、なぜかクマるんの答えはない。
「ちょっとクマるん、無視しないでよね」
【あ……彩南さん、後ろ……】
クマるんの送信は、なぜだか微妙に震えていた。
「後ろ?」
そこはかとない不安を覚えつつ、ゆっくりと後ろに首を巡らせた、刹那。
「なぁーにブツブツ言ってんの? し・ば・さ・き」
いきなり耳元で、呼気たっぷりに囁かれた。