28.交代してよ交代
形のよい眉を寄せて唇を引き結び、額に汗を滲ませながら、柴崎泰広は鈍く光る包丁を握り直した。
まな板の上に転がっているのは、半分の長さに切られたウインナー四個。
背中を丸め、ウインナーに覆い被さるようにしながら、震える刃先を薄茶色の肌に当てる。プツリという小気味よい音ともに、刃先はゆっくりとウインナーの中に沈んでいく……
……あああああイライラするなあもう!
【ねえねえ、別にタコウインナーにこだわんなくたっていいんじゃん? あんまり時間もないんだから、適当に炒めて入れちゃってよそんなの】
震える手で二本目の切り込みを入れつつ、柴崎泰広は目線をウインナーに注いだままで決然と拒否る。
「ダメです。僕的に、弁当に入れるウインナーはタコと相場が決まってるんです」
【勝手にそんな相場作んないでよ迷惑だなあもう。お願いだから早くしてよ! あたしは手伝いたくてもこの楕円の手じゃ何にもできないんだからさ】
背筋を丸めてまな板に覆い被さった姿勢のまま、目線だけちらりと上げて壁に掛けられた昭和レトロな振り子時計を見やる。
「あと三〇分もありますよ」
【足りないって。朝飯もまだ食ってないし、あたし念入りに髪形整えたいんだから】
「このままでいいじゃないですか」
ようやく四個全てに切り込みを入れたのだろう、柴崎泰広は凝り固まった肩を二,三度上げ下げしながらそう言うと、油をしいた小さなフライパンをあたしの眼前に突き出した。
「油ってこんなもんですか?」
【全然よくない!……って、いや、油の量はOK】
フライパンを火にかけ、たどたどしい手つきでタコウインナーを炒めながら、柴崎泰広は板の間の真ん中で楕円の腕を組むあたしにチラリとうろん気な目線を送った。
「……何かヘンですよね彩南さん」
ぎく。
【な、……何よヘンって】
「交代させろさせろって妙にこだわってるし」
【だ、だってあんた、スタイリング下手くそなんだもん】
「別にどうだっていいじゃないですか僕の格好なんか。どうせ誰もみちゃいないんだから」
【何言ってんの、記念すべき初登校だよ? 見られないわけがないんだって……ってか焦げ臭いよ。ウインナーもうOKだって】
慌てた様子で火を止め、黒光りするウインナーを菜箸で拾い上げて弁当箱につめる。焦げ臭いにおいが、狭い台所いっぱいに満ちた。
「記念すべき初登校って……あとは冷凍してあるほうれん草入れるんですよね」
【そうそう。味ついてるから軽く解凍すれば大丈夫。そんでお握りでしょ……ねえ、もうあとはあたしがやるからさ、交代してよ交代】
炊飯器の蓋を開けて飯をシャモジでかき混ぜながら、柴崎泰広はやけにきっぱりと言い放つ。
「ダメです。なるべくギリギリにトイレに行ってから交代しないと、学校でトイレに行きたくなるから」
【そんときは素直に交代すればいいじゃん】
「絶対ダメ! ていうか、学校で交代になったら僕、早退しますから」
【トイレくらい別にあたしが行ったっていいんだよ】
「それはもっとダメですっ」
吐き捨てつつ、左手に取った飯の中央に赤い梅干しをたたきつける。
さらにご飯を足して両手で握り始めてから、けげんそうに眉根を寄せて手を止めた。
「何か全然ダメだこれ。ご飯が手にくっついちゃって……」
【あ! あんたひょっとして、手、水で濡らしてないとか?】
「え? 濡らす?」
【じゃなきゃ米が手についちゃって握れる訳ないじゃん。ていうか、手のひらにラップを敷けばそんな問題起きないのに、全くもう……はいじゃあ終わり。ここからはあたしがやるから交代して】
「いいんですか? こんな手ですけど……」
米粒がびっしり張り付いた右手を眼前に突き出され、思わず一歩あとじさってしまった。
【い……いいわけないじゃん。早く手洗ってよ】
「ダメですよ米粒流したりしたら。目がつぶれる」
【なに古の人みたいなこと言ってんの。迷信だってそんなの】
「迷信じゃないですって。食べ物は大事にしないと」
柴崎泰広は右手についた米を口で直接こそぎ取ると、軽く水で流しただけですぐに左手の飯玉をその上に載せた。
【ああああああっ、そんなんじゃよだれがつくって! 汚いなあもう、誰が食べると思ってんの?】
「誰がって……自分ですけど」
【何言ってんの! 昼間はあたしが……】
「でも自分ですよね」
あそっか。
しかしややこしいな全く。
【……でも何となく気分的にやだ】
「自分だからいいんですって」
柴崎泰広は平然と左手の米粒も口でこそぎ落とし、右手同様軽く水で流しただけでお握り作りを再開する。手を握り合わせる度に小さく揺れる瓶底眼鏡を怨念込めて睨んでから、柱時計に目線を移して再度仰天。
【……うわ、ヤバイってもう七時半じゃん。あと二〇分で出ないとまずいって】
「間に合いますよこのまま出れば」
【絶対ダメ! そんな汚い頭で、もしあいつに会ったりしたら……」
「あいつ?」
……ヤバ。
【てか、マジで交代してくんないとヤバいんだけど。こうなったら、この後のトイレもあたしがやることにして、強制交代しよっかな】
柴崎泰広はギョッとしたようにお握りを握る手を止めた。
「な、何言ってんですか。ダメに決まってますよそんなの」
【だって全然代わってくんないんだもん。ならもう強制交代しかないじゃん】
「……わかりましたよ。これ握り終わったらトイレに行って交代しますから」
つき出された楕円の腕の攻撃を回避しつつ、柴崎泰広はやっとのことで交代を了承した。