27.案外、悪くないもんでしょ
休憩後は、ポツポツと客が入ってくるようになってきた。
ただ、店の中まで入ってくるのはやはりある程度年齢の高い女性客が多く、休憩後に来店した客は全て三〇代以上とおぼしき大人の女性ばかりだった。
二人連れの女性客が店を出たところで客足がいったん途切れたので、ディスプレイを直している笹本さんに声をかけて店の外に出る。
人通りがないことを確認してから、隣の店との境目にあるくぼみにそっと声をかけた。
「クマるん、どお?」
ビルの隙間に挟まるようにして座っていたクマるんは、あたしの言葉に小さく頷いてから、目の前にずらりと並べられている四個のカウンター(数取器)を楕円の手で示した。
【だいたい記録できてると思いますけど……あ、ちょっと彩南さん、一番右のカウンターを二回押してください】
「あ、はいはい。これね」
カチカチとカウントして、表示されている数字を見やる。
「これが何の数?」
【親子連れですね。今二組通りかかったので】
「へえ。意外に多いんだねえ。で、こっちは?」
【カップルの数】
「あれ? これは思ったより少ないね。時間的なものもあるのかな……で、こっちがぱっと見学生から二〇代以下の数で、こっちがぱっと見中年以上の女性の数か……サンキュサンキュ、結構たいへんだよね、いっぺんに四つもカウンター動かすの」
【楕円の手しかないんで、まさに全身運動……おっと、また一人来た】
滑り込むようにして加算ボタンをプッシュする。
「でもさ、商店街組合でカウンター借りられてよかったよね」
【四個じゃ少ないかと思いましたけど、四個以上カウントするのは不可能ですしね。女性客に絞って傾向をみればいいわけですし】
「計測するのは、この四種類で大丈夫そう?」
【だいたい網羅できてると思いますよ。……っと、未成年二人に、カップルに、大人三人と……】
楕円の両手を器用に使いながら、三つのカウンターのボタンをリズムよく押していく。
「別に正確な統計を取りたい訳じゃないし、笹本さんの質問に答えるために必要なだけだから、この調子でもうしばらくカウントすればだいたいおおまかな傾向は掴めそうだね。助かったよクマるん、ところでさ、……」
【あ、大人二人に、親子連れと】
ブツブツ呟きながら鮮やかな手つきでボタンを押すクマるんは、あたしの方に顔を向けようともしない。
「相談があるんだけどさ」
【相談? 何ですか? ……カップル二組と】
面倒くさそうな送信をよこすクマるんへ、おもむろに最後通告。
「トイレに行きたくなっちゃったんだよね」
クマるんはピタリと動きを止めてから、弾かれたように顔を上げてあたしを見た。
そのまま凍り付いているクマるんの代わりに、仕方なく通り過ぎる人数を確認する。
「えっと、大人の女性が三人に、若い子が二人と」
【あ、……彩南さん、マジですか?】
「マジマジ。で、どうする? あたし的にはもうさんざんぶら下がってる感触も覚えたし、自分でやっても別に構わないんだけど、ほら、一応この体はあんたのものだからさ、所有者の意向は聞いとこうと思って」
言いながらボタンをカチカチ押すあたしを、クマるんは放心しきって眺めていたが、やがて心なしか震え気味の送信をよこした。
【こ、交代したら……この後の勤務は、僕がやるってことですか】
「うんまあ少なくとも三時間はね」
頭を抱えてうめいているクマるんを横目に、大人とカップルと若者二名をカウントして、並んでいる数字をもう一度見直す。
「あー、ホント、思ったより年齢層高いんだなあ。もっと若い子ばっかり歩いてるのかと思ってたけど、親子連れも案外多いんだね。笹本さんの買い付け方を見ても、今までカウントした分の傾向を見ても、この店はある程度大人の女性をターゲットにした方がいいのは明らかだな。その上で、新しい客層か……」
クマるんは一人で呟いているあたしをゆるゆると見上げ、たどたどしい意識を送ってよこした。
【ぼ、……僕、洋服のことなんか、全然わかんないですよ】
「うん、だからさ、別にあたしがトイレに行ってもいいんだよ。あんたさえ構わなきゃ、やり方を教えてもらってさ……あ、若い子二人に親子連れと……そうする?」
【いいいいい嫌ですそれだけは絶対に】
「じゃあ交代するしかないよね。もうね、結構限界に近いんだ、実は」
【わ……分かりましたよ】
ようやく覚悟を決めたクマるんが楕円の右手を差し出したので、さっそくそれを握って意識を交換。
途端に、自分の体に戻った柴崎泰広は、青ざめた頬を引きつらせた。
「あ、……彩南さん、よくここまでガマンしていましたね。相当に限界ですよこれ」
【そうでしょ。誉めて誉めて……って、大人が四人と若者五人、カップル一組と……じゃ、よろしくね。お客さんが来たら携帯につけ直してくれれば、接客のフォローもできると思うし】
「あ、そうしてください。それ助かります」
【オッケーオッケー。取りあえずさ、早いとこトイレに行ってきなって。脂汗流してるよ】
「じゃ、じゃあまたあとで」
蒼白な顔を引きつらせつつ、不自然な足取りで店の中に戻っていく柴崎泰広を見送りながら、あたしも内心ホッとしていた。
やらざるを得ない時はいつかやってくると思うから覚悟はしているものの、あたしだってフロとトイレはできれば避けたい。
そうせざるを得ない状況に追い込まれれば、たぶんあたしは竿を握るくらいのことはわりと普通にやれる。と思う。感触とか温かさとか、初めての時は気色悪いと思うだろうけど、そんなことでキャイキャイ騒ぐようなタイプじゃないし。
ただ、あの体はあたしのモノじゃない。
あたしのモノである時間ももちろんあるけれど、あれは「借り物」、所有者はあくまで柴崎泰広だ。
所有者である彼の意識がそういった状況を好ましく思っていない以上、それを押し切って強行するほど無配慮な人間にはなりたくない。加えて「竿を握る」こと自体には特段の抵抗がなくても、ここまで交流が深まってしまった今、その行為は単なる「竿を握る」行為ではなく、「柴崎泰広の竿を握る」行為になってしまうのだ。いかにあたしとてそれはかなりキツイし、できればこの先も、そういう状況に陥らないことを祈っている。
ただまあ今回はなんとかなったわけで、今考えるべきはそんなことより、ターゲット層の絞り込みだ。通行人の傾向はある程度把握できたとして、具体的にどの年代のどういう層にターゲットを絞り込むか、あと数時間で明確な答えを出さなければならないわけで、くだらないことに気を取られている暇はない。動かしづらい楕円の腕でカウンターのボタンを押しつつ、その答えを導き出そうとあたしは懸命に思考を巡らせた。
☆☆☆
そんな思索の時間は、ほんのわずかしか与えられなかった。
トイレから戻ってきた柴崎泰広によって、早々に店内に拉致られてしまったからだ。
ストラップを携帯につけ直す柴崎泰広のキレイな指先を眺めながら、笹本さんに気づかれないように肩をすくめ、あたしなりに不服を表現してみせる。
【あんたさあ、少しだけでも自分でやってみようとかいう気概はないわけ?】
「気概なんてあるわけがないじゃないですか、僕は基本的に生きたくないんですから。第一、お客さんが来ちゃったら、彩南さんを取りに外へ出るなんてことできませんもん」
相変わらずの後ろ向きぶりを発揮する柴崎泰広の背後で、カランカランとすっかり耳慣れた鈴の音が鳴り響いた。
柴崎泰広は携帯を握りしめたまま直立し、ぶら下がっているあたしは勢いよく前後に揺れながら入口を見やる。
【おっと、客だ。ほれ、いらっしゃいませとか何とか言わないと】
「分かってますよ。い、……いらっしゃいませ」
【何その蚊のなくような声】
「これ以上出ないんですっ」
憤然と吐き捨てる柴崎泰広は放って置いて、五才くらいの娘さんとおぼしき女の子の手を引いて店内を見て回っているその女性客に目を向ける。
無造作なようでいて、実は後れ毛一本一本まで計算され尽くしたまとめ髪。出産後とは思えないスレンダーな体を包む、シンプルかつ今どき感あふれるワンピース。さり気なく合わせられたクラス感のある小物。相当におしゃれ偏差値の高い人だ。こういう大人の女性になりたかったんだよなあとちょっと思ったり。
笹本さんの趣味だろうか、店内に低音量で流されている荘重なクラシック音楽と、この女性の放つたおやかな雰囲気が相まって、まるで異国の教会にでもいるかのような錯覚に陥りそうになる。
別世界気分に魂が抜けかけた、その時。
「ママぁ! もう行こうよぅ、疲れたよう!」
裏返った金切り声が、店の窓ガラスを震わせて響き渡った。
「華乃ちゃん、もう少しガマンしてちょうだい。ママね、お洋服が見たいの」
正直、あたし的にはかなりドキッとしたのだけれど、母親である女性は慣れっこなのか動じる気配もなく、外見の雰囲気そのままに女の子をおっとりとたしなめ、再びラックの洋服に目を向ける。
華乃ちゃんと呼ばれた女の子は不満げに唇を突き出すと、ウロウロと店内を探索し始めた。手持ち無沙汰そうに店内を歩き回ってから、今朝方笹本さんが時間をかけて飾り付けたメインディスプレイの前で、ピタリと足を止める。
女の子はまじまじとディスプレイを眺めから、何を思ったのか突然、履いていた靴を脱ぎ捨てた。それから、トルソーの足元に置かれていたかなりヒールの高いサンダルにその小さな足を突っ込み、ズルズル引きずるようにして歩き始めた。
あたしはギョッとして固まり、柴崎泰広は口を半開きにして凍り付いた。
【や、……ヤバいって柴崎泰広。転んでケガでもしたらたいへんだし、ヒールに傷もついちゃう。早く止めて!】
「え、で、でも、僕、小さい子と喋ったことなんかないし、何て言ったらいいのか……」
【苦手とか得意とか言ってる余裕ないって! 何でもいいから早く!】
尻を思い切りけっ飛ばすと、柴崎泰広は顔を引きつらせてあたしを睨んだが、覚悟を決めたように女の子の方へ歩き始めた。
女の子は自分に近づいてきた柴崎泰広にチラリと目線を送ると、足先をブンブン振ってハイヒールを脱ぎ捨て、裸足ですたすたと店の奥に歩いて行く。
柴崎泰広はホッと胸をなでおろすと、左右に分かれてすっ飛ばされている靴を拾い上げ、ディスプレイを元通りに直してから、小さく息をついて顔を上げた。
その動きが、まるで一時停止ボタンでも押されたかのように凍り付く。
女の子の通り過ぎたあとに、転々と残されている残骸。
団子状に鎖を絡められたシルバーネックレス、無造作に放り捨てられて床に積み重なるトップスの山、ハンガーラックから引きずり落とされたボトムス、無残に詰め物が引きずり出されたバッグ。その向こうで、女の子は低い鼻根に巨大なサングラスをのせ、意気揚々と鏡を覗き込んでいる。
母親であるあの女性からは想像もつかないそのエネルギッシュな所業に、あたしも柴崎泰広もしばらくは電池の切れたロボットのように、ぼうぜんとその惨状を眺めているしかなかった。
母親の方はといえば、自分の娘がこんな悪行の限りを尽くしているとは毛ほども思っていないらしい。試着するつもりなのだろう、笹本さんとともに数枚の洋服を手にして店の奥に歩いていく。
「全く……何考えてんですかこれ」
グチャグチャに絡まったシルバーチェーンをほどきながら、柴崎泰広は滴り落ちてくる汗を腕で拭い、忌々しげに吐き捨てた。
そんな柴崎泰広の尻のあたりで揺れながら、なんとなく女の子の動向が気になってそっと体の向きを変えたあたしは、視界に飛び込んできた光景に硬直した。
頭上にそびえる棚をじっと見上げていた女の子が、棚の端から少しだけ飛び出ていたスカーフの端をいきなりむんずと掴み、自分の方へ力いっぱい引っ張ったのだ。
スカーフの上に置かれていた三十センチ四方もあろうかという大きな鏡が、その衝撃でグラリと傾く。
――ヤバい!
編みぐるみのあたしには、この事態を解決する能力は皆無。もうほとんど叫びに等しい送信を、鎖を解くのに夢中な柴崎泰広にたたきつけた。
【柴崎泰広!】
いぶかしげに顔をあげた柴崎泰広の目が限界まで見開かれ、鎖の団子が手からポロリと零れ落ちる。
引力にひかれた鏡はゆっくりと傾きを増して棚から離れ、真下にいる女の子目がけて一直線に墜落を開始する。
――間に合わない!
思わず意識を閉じかけた、刹那。
頭頂部のストラップが、前方に思い切り引っ張られた。
何事かと思う間もなく床とほとんど平行に体が浮き、急停止したのだろう、今度は柴崎泰広の尻に思い切り衝突する。
尻の脇に垂れ下がってブラブラ揺れながら、あたしは恐る恐る意識を開いた。
すぐ下に、女の子の姿が見えた。先ほどまでと全く変わらない様子で物珍しそうにスカーフを広げ、つるつるした絹の感触を楽しんでいる。
意識を上方に向けると、柴崎泰広の両手が、あの大きな鏡をしっかりとつかんでいる様が映り込んだ。ギリギリで間に合ったらしい。おもわず全身の力が抜けた。
――よかったぁ。
と、違和感を覚えたのか、スカーフにほおずりしていた女の子が顔を上げ、頭上で不自然な姿勢をとっている柴崎泰広を見上げた。
その視線に気づいた柴崎泰広が、汗だくの顔に引きつったような笑みを浮かべて見せると、女の子は某有名スポーツ用品メーカーのマークのような眉をきつく中央に引き寄せてぷいと横を向き、手にしていたスカーフを放り捨てて行ってしまった。
柴崎泰広は、体中の毛穴から空気が抜けてしぼんだようなため息をついた。
「はあ……よかった……」
【いや、マジでご苦労さんだよ柴崎泰広。しかし、よく間に合ったね】
「いやもうギリギリでしたよ。反応速度があと一秒遅かったら間に合わなかった」
スカーフを棚の上に敷いて元通りに鏡を置くと、柴崎泰広は額の汗を拭いながらチラリと背後に目線を送った。
店の一番奥にある試着スペースでは、女の子の母親である女性が試着している服について笹本さんと何やら話し込んでいるようで、時折、軽やかな笑い声が響いてくる。
「しっかし、こんだけ大騒ぎしてるってのに、あの母親、何やってんですかね」
【シーッ! 声大きいって柴崎泰広。ちょうど試着室に入ってたから気づかなかったんだよ】
「でも、自分の子どもがケガする寸前だったってのに、気づいてもいないなんて」
【それはそうだけど……】
あたしも女性の方に目を向ける。
上質な素材感の大人っぽいサロペットを試着している女性は、「ベアトップならトイレ大丈夫ですかね」とか、「洗濯機でも洗えますか?」とか、笹本さんにあれこれ疑問を投げかけては、鏡に映る自分の姿を熱心に眺めている。
あまりにも幸せそうなその様子に、思わず目を奪われてしまった。
「そういえば……あの子は?」
ふと思い出したように柴崎泰広が呟いた。
【え?】
慌てて店内をぐるりと見回して……あたしと柴崎泰広は凍りついた。
店の突き当たりにあるマス目状の棚を足がかりに、果敢にウォールクライミングを試みている女の子の後ろ姿が目に入ったのだ。
四の五の言っている場合じゃないと腹をくくったのだろう、柴崎泰広はすぐさま女の子の背後に走り寄ると、強制的に両脇を支えて床に下ろした。
女の子は大きな目をまん円く見開き、それからぷうっとピンクの頬を膨らませた。
「華乃、あの帽子をかぶってみたいの! ねえお兄ちゃん、あれとって!」
姫君は小さな指で、シェルフの一番上に置かれているストローハットを指し示した。
「こ……こちらですか」
柴崎泰広が姫君のおぼしめしどおりストローハットをかぶせてやると、大きいので目の辺りまですっぽり隠れてしまったが、それでも姫君はご満悦のご様子で、キャハキャハ笑いながら視界のきかない状態で歩き回り始めた。柴崎泰広はぶつかりそうな物をどけたり、さり気なく方向転換してやったりしながら、従者さながらにその後をついて回った。
「お待たせ華乃ちゃん、いい子にしてた?」
ふいに、鈴を転がすような美声が響いた。
その声に、女の子はピタリと歩みを止めて振り返り、かぶっていた帽子を放り捨てて声の方に駆け出した。
「ママ!」
大きな紙袋を手にした女性は、太股に飛びついてきた女の子の背に優しく手を添えると、感謝のこもった目で柴崎泰広を見た。
「華乃の相手をしてくださってありがとうございました。おかげ様で、久しぶりにゆっくりお買い物を楽しめました」
深々と頭を下げられ、柴崎泰広は目線をさまよわせてうろたえている。
「え、あ、いえ、あの、よ……よかったです」
「この町にこんなステキなお店があるなんて知りませんでした。ちょっと入りにくそうな気がしたんですけど、思い切って入ってみてよかったです。また来ますね」
「バイバーイ、お兄ちゃん」
軽やかな鈴の音を響かせて扉を開けると、女性はもう一度深々とお辞儀をして、女の子は笑顔で柴崎泰広に手を振って、並んで店を出て行った。
☆☆☆
「ご苦労さん」
後片付けや商品補充などの仕事を終え、促されるままソファに座ったあたしの目の前に、笹本さんが香り立つコーヒーを運んできてくれて驚いた。ここで麦茶以外の飲み物を目にしたのは初めてだ。
「ありがとうございます」
固辞する理由もないので素直に頭を下げ、さっそく一口。ううん芳醇。
優雅な気分に浸っていると、腰のあたりからクマるんの羨ましそうな送信が届いた。
【いいなあ、彩南さん……】
「ふふん、三時間きっかりで交代しなきゃ飲めたのに」
【いやもう限界ですって。よく三時間もったって自分でも思いますもん。声は出ないし、聞かれたことには答えられないし、レジの使い方も分かんないし、笹本さんにはどやされっぱなしだし】
「そお? 初めてのバイトにしては上出来だったと思うよ。あの困ったちゃんのお相手もしてくれたし、あたしが釣り銭間違えたら気づいてくれたし」
「何か言ったかい?」
向かいの丸椅子に腰掛けた笹本さんが訝しげに眉根を寄せたので、慌てて正面を向く。
「あ、いえ、コーヒー超久しぶりなもんですから、ちょっと感動して……おいしいですね、これ」
「とっておきの豆挽いたからね」
笹本さんはそう言うと、巨大なマグカップになみなみと注がれたコーヒーをおいしそうに口にする。つか、カップの大きさに差がありすぎだし。
「あの客が来たあと、あんたも調子が狂ったみたいだったからあれこれ厳しいことも言ったけど、一日目にしてはまあ、良くやった方だと思うよ」
コーヒーカップを片手に、目線だけ上げて笹本さんを見ると、笹本さんもマグカップを口にしながらあたしを見て、笑ったのだろうか? 少しだけ目を細めると、ひとりごとのように言葉を継いだ。
「あの子の頭に鏡が落ちた時はどうなることかと思ったけど、あんたのおかげで助かったよ。これだから子ども連れの客は苦手なんだ。できればご免こうむりたいもんだね」
「そのことなんですけど」
笹本さんは手を止めてあたしを見た。
あたしもコーヒーカップを置いて居住まいを正し、その視線を正面から受け止める。
「実は、笹本さんが仰っていた新しいターゲットに、僕はあの年代の女性がふさわしいんじゃないかと思ってるんです」
視線はあたしに注いだまま、笹本さんは手にしていたマグカップをテーブルに置いた。
「店の前を通る人の様子を見ていたんですが、意外に親子連れ、それも小さな子ども連れの主婦が多いことに気付きました。笹本さんの買い付ける服は、素材的にもデザイン的にも大人の女性に嬉しい要素が多い。でも、神谷さん達くらいの年代になるとさすがに通る人数は少なくなってしまう。なので少しだけ対象年齢を下げて、二〇代後半から四〇代前半くらいの女性をターゲットにすれば、売り上げは確実に伸びると思いました」
黙ってあたしの話を聞いていた笹本さんは、やがて口の端に苦笑めいた笑みを浮かべた。
「……驚いたね、同意見だ」
マグカップを持ち上げてコーヒーを一口飲み、観念したようなため息を吐く。
「あたしも何となくそう思ってはいたんだ。子ども向けの英会話教室だとか音楽教室だとかが増えて、そこに子どもを送った帰りに立ち寄る人が増えていることも分かっていた。ただ、あたしはどうも子どもってやつが苦手でね。持った経験がないもんだからよく分からないし、結婚してない負い目みたいなものも感じるしで、積極的にそれを推進しようという気になれなかったんだ」
それから、少しだけ鋭い光をその目に宿してあたしを見た。
「ただ、あの年代をターゲットにすると、今日みたいなことは日常茶飯になる。この問題はどう解決する?」
「いっそのこと、お子さんもひっくるめてターゲットに加えてしまったらどうでしょう」
狐につままれたような表情で固まっている笹本さんに、にっこり笑いかける。
「お母さんも子どもも楽しく買い物を楽しめる場所が、この下北山には少ないですから」
「具体的な案はあるのかね?」
「それに関しては案と言えるまで煮詰めていないですけど、取りあえずこの店の問題点は見えてます。まずは入口ですけど……」
ポーチから取りだしたメモ帳片手に、あたしは今日一日考えていたことを笹本さんに伝え始めた。
☆☆☆
全ての話が終わって店を出る頃には、他店の明かりはすっかり消えていた。
街灯の明かりに照らし出された道路脇で酔った若者グループが何やら騒いでいる他は、町はしんと静まりかえっている。
何となく心地よい興奮に身を委ねながら、尻で揺れるクマるんに声をかけた。
「お疲れさまクマるん。どうだった? バイト一日目」
【いや、どうなることかと思いましたけど、何とかなってよかったです】
クマるんもいくぶん気持ちが高ぶっているのか、普段よりワントーン明るい送信をよこしてきた。
【それにしても彩南さん、凄かったですよね】
「凄いって?」
【いや、バイト初日にして店の経営にまで口を出した人って、なかなかいないんじゃないですか】
「それはさ、偶然笹本さんがそういう人材を求めてたからだよ。運がよかったっていうか。あとは……」
【あとは?】
「好きなことだったからさ」
顎を上げて夜空を仰ぐ。町の明かりに照らされて白っぽく霞んだ空に、星が一つ二つ、控えめにまたたいているのが見える。
「受験に失敗した話はしたよね。その時思ったんだ。ああ、自分はシコシコ勉強するのは向いてないんだなって。だったら、さっさと就職して独り立ちして、専門的な知識を身に付けた方がいいなって。それで考えたわけ。自分が好きで、ある程度基礎的な知識もあって、一番楽しく続けられそうな仕事は何だろうって。それが服飾関係の仕事だったんだ」
腰のあたりで左右に揺れながら、クマるんは黙っていた。
「ほら、あたしって自由になるお金なんかほとんど持ってなかったし、洋服なんてめったに買えなかったから、買う時はものすごく考えるわけ。一枚で十通りくらい着回せて、しかもそれなりに今どき感があって、長く、しかもかわいく着られそうな服はどれだろうって。それには流行ももちろんだけど、自分の体形にあうデザインとか素材の特徴とかコーディネートの方法とか知らないとダメだし、少しでも安く買いたいから流通形態とかも調べたし、少しでも長く着たいから縫製についても調べたし、コレクションをチェックして最新のトレンド情報も仕入れたし。そんなことをしてるうちにだんだん好きになったんだ。本屋のオヤジには嫌われたけどね。立ち読みばっかしてるから」
大通りに出ると、十時を過ぎているというのに結構な人通りがあった。一人で喋っているとヘンに思われるので声を潜める。
「好きなことなら続けられるし、努力もできるし、がんばれる。ただそれだけの話だよ。……てか、今日ははっきり言ってあたしだけの成果じゃないじゃん。クマるんが通行人の傾向調査してくれなかったら自信を持って提案できなかったし、あの子がケガしなかったのだってあんたのおかげだし。あの笹本さんに助かったなんて言わせるとか、ある意味すごいよ」
【いや、そんなこと……】
「あたしもあんたのおかげで助かったし。ありがとクマるん」
軽く頭を下げてから、照れているのかいくぶんキョドり気味のクマるんににっこり笑いかけてみる。
「でもさ。案外、悪くないもんでしょ」
【え?】
「やる気出してみるのも」
クマるんは無言であたしを見つめた。
街路灯の光を反射して小さな光を放つ黒いビーズにもう一度笑いかけてから、駅階段を降り、パスモをかざして改札を抜け、ホームへの階段を上がる。
【……彩南さん】
ホームに出た時、それまで黙っていたクマるんが、ふいに送信をよこした。
前向きな発言を大いに期待しつつ、呼びかけに応える。
「何?」
クマるんは、そんなあたしの期待にはまるっきり頓着なく、淡々とある事実を通告した。
【そういえば商店街組合で借りたカウンター、ビルの隙間に置きっぱなしですよ】
……ヤバ。