25.だって、あたしは生きたいから
このところようやく共同生活になれてきたせいか、交代のタイミングがうまくつかめるようになってきた。
着替えたりフロに入ったりするのは、たいてい夕食後。だから夕食後はすぐに交代し、そのまま眠り、翌朝トイレに行って着替えたら、すぐまたあたしと交代してもらう。そうすれば、朝食の準備から片付け、掃除洗濯までパパッと済ませ、スムーズに出かけることができるのだ。
まあ、あたしばっかり家事を負担させられるのもあれなので、もう少ししたら朝の家事くらいはやってもらいたい気はするけれど、柴崎泰広にやらせると不慣れなためか何なのか、やたらと時間がかかる。掃除ひとつにしても、やらなくてもいいような細かいところに妙にこだわっているうちに、大まかなところをやる時間すらなくなるという。イライラするので、当面は自分でやってしまうことにする。もちろんゆくゆくは折半してもらうつもりだけど。
しかし、依然問題はなきにしもあらずだ。
【大丈夫ですかね……】
下北山の町を歩きながら、クマるんが先ほどと同じ質問を投げかけてきた。三度目だ。
「何とかなるよ」
できるだけさらりと返しつつ、スピードを緩めずに朝の静かな通りを歩く。
「要するにトイレだけだもん、問題は。さっきあんたと交代する直前に行ってるし、もし行きたくなったらしょうがない、そっから三時間だけはあんたががんばればいいんだから」
【言うのは簡単ですけど……】
「何とかなるってば。だからこそ、男の客が少ない職種選んだんだから。スイミングだって男のコーチはいるだろうし、更衣室の問題もあるし、それを考えたらあのお店はかなりおいしいんだよ、あんたにとって」
言いながら、ズボンのポケットから携帯を取りだした。
携帯に、ストラップにしてはあまりにも巨大なクマるんがぶら下がっている。
「そんなことより、どお? 携帯ストラップになった気分は」
クマるんは携帯の先で左右にブラブラ揺れながら、ぶぜんとした表情であたしのことを見ている。気がする。
【どおって言われても……ポーチにくっついているのと大差ない気が】
「大差ない? 全く、感謝が足りないなあ。仕事中、ずっとロッカーに閉じこめられてるよりは変化があって楽しいでしょ」
仕事中はポーチを体から離さなければならず、それでは不測の事態に対応できない。そこで、ポーチにつけていたクマるんを携帯に付け替えてみたのだ。ストラップにしてはあまりにも大きすぎてちょっとアレなのだが、まあ取りあえず趣味ということでご理解いただいて、当面はこの形でいってみようということになった。クマるんをお尻で踏んでしまう可能性はあるけれど、自分のお尻ということでそれは許してもらうことにする。
あたし的にはいい考えだと思ったんだけど、肝心のクマるんの反応が今ひとつぱっとしないのが気にくわない。
【僕的にはロッカーの中でも別に】
「まあたそう後ろ向きな発言する。あんたねえ、覇気が足りないよ覇気が」
【仕方ないじゃないですか、根本的に死にたい人間なんですから。彩南さんみたいにやる気の塊になれる訳がない】
「やる気がなきゃ生きてたっておもしろくも何ともないじゃん。生きる気があるなら、やる気のひとつやふたつ面倒くさらがらずに出しときなよ」
【そこまでして別に生きなくてもいいです】
「あんたにその気があろうがなかろうが、砂が尽きるまでは生きなきゃならないんだから、後ろ向きよりは前向きの方が楽しいって」
【僕は後ろ向きで構いません】
堂々巡り。
こいつと話してると、ときどきこういう状況に陥る。
こいつとあたしの物事のとらえ方には根本的にずれがあって、そのずれを埋めるべくあれこれ言葉を連ねてみても、ずれは埋まるどころか逆に壁ができたり溝ができたり、あまりいい方向には進まないことが最近分かってきた。嫌も応もなく行動をともにするしか方法がないのだから、互いの精神衛生のためにも、不毛な論戦は打ち切るに越したことはない。
あたしは口をつぐみ、クマるんも黙り込み、不自然な沈黙を引きずりながらしばらく路地を進むうち、古びた家が見えてきた。
ポーチから眼鏡ケースを取りだして、かけていた瓶底眼鏡を外し、ケースに入っていた新しい眼鏡と取りかえてから、ウインドウに映る自分……シバサキヤスヒロの姿を最終確認。
オーソドックスなジーンズに白のTシャツ、その上にカジュアルなジャケットを羽織ったシバサキヤスヒロは、もともとのスタイルの良さと眼鏡の落ち着いた雰囲気も相まって、それなりに大人な感じに仕上がっていた。あの店はお客の年齢層が高めらしいので、先日買った服の中では一番落ち着いた感じに仕上がる組み合わせにしたつもりだ。髪も念入りにスタイリングしたし、眼鏡もかえたし、個性的とは言えないまでも、取りあえず接客業をしても文句を言われないレベルにはなっている。と思う。
「じゃ、行きますか」
お弁当が入っているのでやけに重いウエストポーチを担ぎ直し、ちょっと呼吸を整えてから、飾り格子が美しい木製扉を押し開く。
カランカランと、軽い鈴の音が鳴り響いた。
「おはようござ……」
「柴崎泰広かい!? ちょうどよかった。ちょっとこれ、そっちに運んでおくれ!」
ヒンヤリと湿った店内に声をかけた途端、奥から響いてきた野太い怒鳴り声に心臓が縮み上がった。
「……あ、はい!」
慌ててウエストポーチをソファに放り投げ、声の聞こえた奥の部屋に駆け込むと、その途端、眼前に首のないトルソー(マネキン)がぬっと突きつけられた。
「これ、そっちに運んで!」
「は、はい」
体勢が整わないうちに無造作に渡されたトルソーはずっしりと重く、よろけた拍子に台座を床に擦ってしまった。
即座に、笹本さんの上ずった叫び声が耳を貫く。
「ああああ! 何やってんだい、気をつけな!」
「すみません!」
急いで体勢を立て直し、床や壁にトルソーを当てないように気をつけながら注意深く細い通路を歩き、ようやくたどり着いた店の片隅にトルソーを置いて一息つき、ぐるりと店内を見回してみる。
「店に置くって言ってたっけ」
【どこに置くんでしょうね】
「分からない時は聞くのが一番。すいませーん、トルソー、どこに置きますか?」
奥からはしばらく返答がなかった。ガタガタと物を移動する音が響いてくるだけだ。しばらく待っても返事がないので、奥の様子を見ようかと一歩踏み出した時、笹本さんのひっくり返った怒鳴り声が店内の空気を震わせて響き渡った。
「どこでもいいから端っこに置いたら、さっさとこっちに来ておくれ!」
「はい!」
慌てて奥の倉庫らしき部屋に駆け込むと、段ボール箱いっぱいに詰められた洋服の前に、背中を丸めてしゃがみ込む笹本さんの後ろ姿が映り込んだ。
笹本さんはせっせと箱の中に詰められた洋服を取りだし、広げ、ためつすがめつして調べてから伝票のようなものに何か書き込む作業を黙々と繰り返している。あたしの存在など毛ほども気にしていないかに見える。
立ちんぼも何なので、声をかけてみることにした。
「あの……」
「出勤したらまず店の掃除」
「え?」
下を向き、伝票に何やら書き込む手を止めないまま、笹本さんは低い声で言葉を継ぐ。
「床、棚、窓、鏡、それから表のアプローチ。掃除が終わったら並べられている商品を整理して、ディスプレイを整える。それが開店前のあんたの仕事だ。道具はそこにあるよ」
言いながら顎をしゃくった先に、バケツと雑巾、長ぼうきとちり取り、それに古びた掃除機が乱雑に置かれている。
「わかったらさっさと仕事に移りな」
「分かりました」
慌てて全ての道具を抱えてよろけながら店に戻り、窓を開けて上着を脱いで、バケツに水をためて清掃開始。
【何ですかあの態度】
棚を雑巾で拭いていると、クマるんの憤然とした意識が届いた。
【人にものを頼む態度じゃないですよ。全く、何様のつもりなんだか】
「ま、しゃーないね。よくあることだよ」
雑巾を動かす体の動きに合わせて左右に揺れ動きながら、クマるんは不服そうに口をつぐんだ。
「忙しいと言葉も少なくなるし、相手に気を遣ってられない場面も出てくる。ここぞってときはもちろん抗議するけど、笹本さんはもともと言葉づかいが乱暴だし、あの程度のことに文句言ってたらキリがないんじゃないかな。あの人はああいう人だである程度割り切って余計な期待をしなければ、腹も立たないし」
【……期待?】
「そ。一から十まで指示して欲しいとか、じっくり丁寧に教えてもらいたいだとか」
【それって、余計な期待なんですか】
「してもらうのをただ口あけて待ってるだけならね。指示が欲しかったり分からないことがあったら、自分から聞けばいいだけの話だもん。それで適切な回答が得られなかったり、指示以上のことを求められて不当に叱責されたら、そこで初めて怒ればいい。最初は期待どおりに動けなかったり、失敗したりもするだろうけど、必要以上に落ち込まないで、聞くべきことを聞きながらやれることをやってるうちに、だんだん自分から気づいて動けるようになってくる。自分の判断で動けるようになると、仕事もおもしろくなってくるよ。それまでの辛抱だからさ」
現にあたしは、そうやっていろいろな仕事を覚えてきた。
今でこそそうしたスキルがあるからある程度動けるようになってきたけど、最初なんてそれはもうひどいもんだった。
「初めてバイトしたのが中一の時だったんだけどさ」
【中一って……バイトしていい年齢じゃない気が】
「そんなこと言ってられなかったんだもん。親いなかったし」
【え……】
拭き掃除が終了したので雑巾をバケツに放り込む。さて、次は床かな。
「すみませーん、床って、掃き掃除ですか? 掃除機ですか?」
しばらく返答はなかったが、ややあって倉庫の方から声が響いてきた。
「今日はほうきで頼むよ」
「分かりました」
大声で返してから長ぼうきを手に取り、掃除再開。
「何の話だっけ」
【中一でバイト始めたって……】
「ああそうそう。小四の時に借金抱えて両親とも自殺しちゃったもんだから、あたしは親戚のところに預けられたんだけど、そこがまた相当な貧乏でさ。自分の食いぶちは自分で稼げってんで、知り合いの新聞販売店に放り込まれたわけ。十五才って年ごまかして。まあ、体売れって言われるよかまだマシではあるんだけどさ、とにかく生まれて初めてのバイトだったから、滅茶苦茶だったんだよね、これが」
掃き集めた白い綿ぼこりが、ふわりと中空を舞う。
クマるんの反応はなかったけど、何となくひとり言みたいに言葉を継いだ。
「なにせ中一のガキだから、自転車の前かごに新聞積んだらもうフラフラですぐにひっくり返っちゃってさ、新聞グチャグチャにして怒られたり、水たまりに突っ込んでドロドロになったり、足の骨を折ったり、慣れるまではマジでたいへんだった。配り忘れもよくやったなあ。そのたんびに店長に大目玉食らってペナルティ給料から差し引かれて、そうすると取り分が減るから親戚からも怒られて、朝は死ぬほど早いし休みは少ないしはっきり言ってキツイ仕事だし、やめたくなったことなんか数え切れないくらいあった」
掃き集めたゴミをちりとりで取り、掃き残しがないか再度チェック。
「でもさ、初めて給料もらった時、すんごい感動したんだ。ああ、自分で稼いだ金なんだなって。自分で自分の飯代は払ってるんだなって。そう思ったら、親戚のとこに置いてもらうのも、そんなに苦痛じゃなくなった。やってるうちに腕の筋肉もついて自転車の扱いもうまくなったし、早起きも苦にならなくなったし、爺ちゃんがジュース差し入れてくれることもあったし」
かがみこんでいた体を起こし、ちょっと腰を伸ばしてリフレッシュ。
「生きられるかもしれないって、思った」
クマるんは、そんなあたしの尻のあたりで黙ってユラユラ揺れている。
「たいていのことは何とかなる。何とかしようと思えば何とかなる。問題は、何とかしようと思えるかどうかで、そう思って前向きになれさえすれば、最低限のところまでははい上がれる。そこからさらに上を目指そうと思うと、また違った努力が必要になってくるんだろうけどね」
バケツを持ち上げるついでに斜め下に目線を流すと、尻で揺れるクマるんの黒い目玉がチラリと視界に入った。
心なしか不安げなその目玉に、ちょっと笑いかけてみせる。
「だから、何とかなるよ」
バケツを右手に提げ、薄暗い通路を歩きながら、自分に言い聞かせるように言葉を継ぐ。
「だって、あたしは生きたいから」
水垢で白っぽくくすんだ流しに、汚れた水を捨てる。
バケツの縁から勢いよく吐き出された水が、流しいっぱいに茶色く濁った渦を巻きながら、音を立てて排水口に流れ込んでいく。
「あんたの半分であるあたしは、絶対に死にたくないって思ってんだから」
クマるんの言葉はなかった。
代わりに、ゴブゴブと汚水たちの断末魔めいた悲鳴が響いた。
「ちょいと、どこに行ったんだい! 掃除は終わったかい?」
いつの間に移動したのだろう、店の方から響いてきた笹本さんの怒鳴り声にドキッとして、思わず背筋が伸びた。
「あ、はい! あとはアプローチだけです」
「ちょっと、急いどくれ! 開店まであと十分だよ」
「分かりました!」
慌ててバケツを片付けて雑巾を干し、小走りで通路を抜けながら、さっき自分がクマるんに言った言葉を反芻する。
『だって、あたしは生きたいから』
そう。あたしは生きたい。
それがあたしに許された、唯一にして最大の抵抗だから。