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24.ゴメンね

 広々とした居間の一角に設えられた質素な祭壇は、今どきのシンプルなデザインが洋間ともごく自然に調和していて、手向けられたゆりの花の、白い花弁にこぼれ落ちる黄色い花粉が目にも鮮やかだった。

 線香を手向け、祭壇前に正座して手を合わせてから、あたしはゆりの花の向こうでほほ笑むおじさんに目を向けた。

 地味なスーツとネクタイ姿のおじさんは、カメラとは少しずれたあたりに目を向けて、どこか恥ずかしそうにほほ笑んでいる。

 おじさんの中途半端なほほ笑みを眺めていると、何となく背中に尖った視線を感じた。

 少しだけ首を巡らせ、背後にそっと目を向ける。

 女子高生が、あたしを見ていた。

 右斜め後方、壁により掛かってけだるそうに膝を抱えながら、探るような視線をじっとあたしの背中に突き立てている。


「あんた、高校生?」


 突っ慳貪なその口調は、あの時公園で友だちと喋っていた温和で明るい雰囲気とはガラリと印象が違う。

 祭壇に一礼してから、おもむろに女子高生に向き直った。


「聞いてんだけど」


 あたしからのレスがないので、女子高生は少し苛立った様子だった。あまり怒らせては目的が達せられないので、できるだけ穏やかに言葉を返す。


「そうです」


「何で平日にフラフラしてんの? 学校は?」


「創立記念日なので」


「ふーん……何高?」


「芝沢です」


「芝か」


 吐き捨てるように呟いて、鼻で笑う。


「中の上ってとこね」


 何だこいつ。


「あなたも創立記念日ですか」


「あたし?」


 女子高生は片頬を引きつり上げるようにして自虐的な笑みを浮かべると、目線を逸らした。


「そんなとこ」


 クマるんにチラリと目線を流す。

 肩にぶら下がるクマるんは、女子高生に気づかれない程度に小さく首を振った。


【違いますよ】


 だろうな。


「そんなことより、あたし、あんたに聞きたいんだけど」


「何ですか」


 女子高生は膝を抱える腕に首を載せ、斜め下から睫毛の長い大きな目であたしを見上げた。

 色白の肌に長い睫毛がよく映えるその顔が、かなりかわいい部類に入ることにその時初めて気がついた。


「痴漢にあったって、ホント?」


「本当です」


「いつの話?」


「一週間前くらいでしょうか、通学途中の電車の中で」


「ふーん……」


 上から下まで舐めるようにあたしを見て、それからふんと鼻で笑う。


「草。そんなのって、ホントにあるんだ」


「あるみたいですね。僕もびっくりしました」


 正座をし慣れない足がジンジンしてきた。血流を確保しようと足を動かしているあたしを、女子高生は睫毛の長い大きな瞳でじっと見つめていたが、やがて薄くグロスの塗られた柔らかそうな唇を引き上げると、意地の悪い笑みを浮かべた。


「何されたの?」


 思いがけない質問に、動きを止めて言葉を失う。

 さすがに引いた。

 普通聞かないだろ、そんなこと。

 

 女子高生はそんなあたしをイタズラっぽく見上げながら、色白の頬に酷薄な笑みを浮かべている。


「ね、教えてよ」


 クマるんは黙っていた。

 肩のあたりに漂う、ピンと張り詰めた空気。

 その空気を左頬に感じながら、おもむろに口を開く。

 

「……いいですよ」 


 出してみたら、いつもより声がワントーン低かった。

 痺れる足を慣らしつつ、クマるんつきポーチをかたわらに置いて立ち上がる。

 膝を抱えていた女子高生は、気圧されたように顔を上げた。


「乗車率二百パーセントの車内で、僕は戸口脇に立っていたんです」


 言い終えるやいなや、女子高生の腕をつかんで力任せに引っ張り上げる。

 女子高生は息を呑み、引きずられるように立ち上がった。

 そのまま、背後にある大きなガラス窓に、女子高生を突き放すようにして押しつける。本当は自分がされたのと同じように後ろ向きにしたかったけど、腕をひねって痛い思いをさせるのも何なので、それはやめた。別にそこまで事実に忠実じゃなくてもいいだろう。

 

「そうしたら、中年のオヤジがべったりくっついてきましてね……こんな風に」


 動けずにいる女子高生の体に、自分……男である、シバサキヤスヒロの体をきつく押しつける。

 柔らかく、意外にふくよかな乳房の感触が、薄手のTシャツを通してダイレクトに伝わってきた。

 でもあたしは女だから、取りあえず直接的刺激がない限りはそんなことで欲情したりしない。

 身動きひとつできずに固まっている女子高生の右頬に顔を近寄せ、耳元に口を寄せてささやきかける。


「動けない僕に、いろいろしてくる訳ですよ。自分のナニを押しつけてきたり、僕のを触ったり……こんなふうに」


 女子高生の腰のあたりにゆっくりと右手を伸ばす。


「やめて!」 


 耐え切れなくなったように、女子高生が叫んだ。

 鋭く高い音が響き、同時に、左頬が熱くしびれる。

 ずれた眼鏡を直し、軽く右に流れた顔の向きを修正しつつ、あたしは無表情に女子高生の顔を見下ろした。

 大きく見開かれたその目いっぱいに、涙が浮かんでいる。

 細かく震えている感触が、押しつけている下半身から伝わってきた。


 フン。

 泣きゃすむと思ってんの?

 甘過ぎんだよバーカ。

 

 でもまあ犯罪に片足突っ込んでいるは確かだ。訴えられてはたまらない。突き放すように体を離して、女子高生に背を向ける。

 女子高生は、背中をガラス窓にこすりつけるようにしてその場にくずおれた。


「怖かったでしょ?」


 女子高生は泣き濡れた顔を上げ、あたしを見た。

 汗に濡れた前髪が数本、額にべったりと張り付いている。

 あたしは少しだけ首を巡らせ、そんな女子高生を冷然と見下ろしてやる。


「僕も怖かったですよ。お父さんが大声で痴漢を怒鳴りつけてくれた時には、本当にほっとしました。神様みたいに見えました。だから僕、どうしてもお礼が言いたかったんです」


 言葉を切り、目線を落とす。


「まさか亡くなっているとは思いませんでしたけど」


 左手をジーンズのポケットに突っ込み、ゆっくりと女子高生に向き直る。

 女子高生は窓際に座り込んだまま、少し気力が復活したのだろう、目を三角にしてあたしを睨み上げた。


「お父さん、きっと今も心配されてるでしょうね。ご家族のこと……」


「あのクソオヤジが、あたし達の心配なんかするかよタコ」


 言いかけた言葉を呑み込んだ。

 真っ赤に泣きはらした目を瞬ぎもせずあたしに注ぐ女子高生の顔には、歪んだ笑みが浮かんでいた。


「あいつにとって大事だったのは仕事と金儲けだけ。家族のことなんか何にも考えちゃいないよ。三百六十五日、仕事仕事仕事。家族旅行や一家団らんは一切ないし、運動会も学芸会も入学式も卒業式も見にきたことはないし、ここ数年は言葉を交わした覚えがないし。存在してた? って感じ。ただの空気だよ、あんなヤツ」


「空気ないと生きてけませんよ」


「なしでも生きてんじゃん」


 鼻で笑って、肩を竦める。


「この家のローンはあと二年で返し終わる。労災と保険と見舞金と、その他もろもろを合わせたら何とかあたしが大学行けるくらいの金は残るし、母親も今ウキウキで仕事探し中だし。あの人、資格持ってるから、多分それなりの職に就けると思うし。何の心配もないよ」


「でもそれって、お父さんがしてきたことが……」


「うるっせんだよ! 分かった風な口きいてんじゃねーよこのタコ!」


 かみつかんばかりの勢いで吐き捨てると、精いっぱいの怨念を込めて睨み上げてくる。


――タコはてめえだろ。


 無言で右手を伸ばし、顎をつかんで乱暴に上向かせた。

 女子高生は汗ばんだ頬を引きつらせ、呼吸を止めて凍りつく。


「……口のきき方に気をつけた方がいいですよ」


 青ざめたその顔に、自分の顔を近寄せる。

 女子高生は瞬ぎもせずあたしを見つめながら、ごくりと白い喉を震わせた。


「取りあえず僕は男で、あなたは女なんですから」


 男の体百二十パーセント利用。

 生意気なヤツ、一度こうして黙らせてみたかったんだ。

 ダメ押しに冷ややかな貴公子の笑みを投げ、乱暴に右手を外して体を起こす。

 女子高生は乱れた髪もそのままに、半ばぼうぜんと目の前の床を見つめている。


「お休みの所、お騒がせして申し訳ありませんでした。これで失礼します」

 

 目線を合わせずに抑揚なく言い捨てて、慇懃無礼に頭を下げる。

 クマるんを担ぎ直すと、座り込んでいる女子高生に一瞥もくれず、あたしは豪邸をあとにした。



☆☆☆



【彩南さん……】


 豪邸を出て数分。ようやくクマるんが、遠慮がちな送信をよこしてきた。


「ゴメン」


【え?】


「犯罪一歩手前だった」


 クマるんは黙り込んだ。

 そのまましばらく、閑静な住宅街を無言で歩く。


【……どうして】


「ムカついたから」


 再び黙り込んだクマるんに、苦笑まじりの笑みを投げる。


「ダメだね。いくらムカついたからって、あんたの体で犯罪していいわけがないし」


 再度、小さく頭を下げた。


「ゴメンね」


 しばらくの間、クマるんはそんなあたしを黙って見上げていた。


【……いいですよ】


 ややあって、呟くようにこう送信したきり、再び黙り込んだ。

 それからあたしとクマるんは、黙って小多急線に乗り、家に帰った。

 クマるんはその日、最初から最後まで、意識を開いたままで電車に乗ることができた。

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